交易都市グリア―ド
険しい獣道を歩き、森を抜けると目の前には広大な草原が目に飛び込んできた。
蒼く雲一つない空の下、青々とした葉の緑がどこまでも広がっていた。
そのさらに向こうには雪を頭に被った山脈が連なっている。
解析度のリミッターが外れているせいか、涙が出るほど美しい光景だった。
だが感動が胸を埋め尽くす中、不意に不安の感情も浮かび上がってくる。
こんな場所はあったかな……?
いくら記憶を探ってもこの草原地帯に心当たりは無かった。
まるで自分がどこか知らない世界に紛れ込んでしまったかのよう。
「ここを真っ直ぐに進んでいけばすぐに街が見えてくるわ」
フィーナが指し示すのは街道の先、太陽が沈んでいく方向。
「……ちなみに街の名前は?」
「交易都市グリアード、北と南を繋ぐ大陸有数の交易地よ。商人や傭兵、色々な人が集まる場所。騒々しくて、活気はあるけど、その分、治安はあまりよくないわ」
駄目だ……聞いたことの無い地名だ。
本当にどうしちまったんだろう?
俺が知らない間にまさか新しいタウンが増えたとでも……?
いくら考えても分からない。
悩んでも仕方がないことだと思考を打ち切った。
もう何でもいいからタウンへ行こう。
早くリアルに帰りたくてたまらない。
街道に沿って歩いていこうとしたことで、フィーナがその場にとどまっていることに気付いた。
「あれ、どうしたんですか?行かないんですか?」
「……私はここまでよ、まだやることがあるから」
初めて行くタウンだ、出来ることなら案内してほしかったのだが……それはさすがに贅沢か。
ここまで連れてきてくれただけでも感謝だな。
「そう、ですか……あの、ありがとうございました。このお礼は必ずさせてもらいます」
「別に構わないわ、多分もう会うこともないでしょうしね……」
そんなことは無いと思うが……名前さえ知っていれば調べてメッセージを送ることも可能だ。
まぁ、迷惑だと言うなら止しておくが。
一礼してタウンのある方向へ歩き出すが……
「一つ、忠告があるわ」
瞬間、鋭い声を掛けられ立ち止まった。
振り向くと何やら厳しい眼差しをしたフィーナが佇んでいた。
「……あの都市では、あまり目立たないよう行動することを勧めるわ」
「え?何でですか?」
「何でもよ、さっき私に言った意味の分からないことはあの街では言わないで、余計な問題を引き寄せたくなければね……」
それだけ一方的に告げると、金の髪を翻して、颯爽と正反対の方向へ消えていく。
何だったんだろう、あの人は?
良い人なのは間違いないと思うが、思わせぶりな言動があまりに多い気がする。
ネットのキャラに入れ込み過ぎてしまったんだろうかな?
どんどん遠ざかっていく小さな背中が完全に消えたあと、リックもタウンへ向かって歩き出した。
のどかな風景がひたすら続いていく。
どこか懐かしいような牧歌的な光景だった。
仮想世界の余りの発達ぶりに感動と不安を覚えながら進むこと、約十分。
やがて道の先に巨大な都市が見えてきた。
城壁が視界の果てまで構築されていて、都市をぐるりと囲んでいる。
周りを森に囲まれた緑あふれる街。
入口である橋を渡り、城壁に比べて遥かに小さい門をくぐる。
門番らしき大柄な男が一瞬、目を光らせたがリックは気づかぬまま進んでいった。
「何だ、これ……?」
都市に入った瞬間、あまりの熱気と鬱屈した人の匂いに愕然とした。
本当に……これはゲームの中なのか?
グリアードという交易都市は生活感があり過ぎて、リアル過ぎた。
市場で開かれた店には回復アイテムなどはなく、あるのは見たことの無い果物や野菜。
他にも何の特徴も無い衣類やアクセサリーも路上で販売されていた。
道には、牛をさらに毛深くさせた動物に荷車を引かせる男性。
ごてごての鎧を装備した傭兵やら法衣を被った巡礼者が闊歩していた。
道路の端には物乞いが丸まって座り込んでいた。
路地裏には寝転がっている浮浪者らしき人物もいる。
とてつもない混沌が都市の中に内包されていた。
これは全部、NPCなのか……いや、違う。
とてもそうは思えない。
ゲームに登録したばかりの初心者ならPCとNPCを間違えることも多いと聞くが、有る程度プレイをしているとその二つの区別が容易に分かるようになる。
行動パターンも一定であり、彼らの行動は予測が簡単だ。
だが、目に映る人々はあまりに無秩序で無定見過ぎた。
確実に行動がプログラムされたNPCなどでは無い。
だったらPCか……いや、それもないだろう。
誰が好き好んでこんな群衆に紛れてしまえばまるで目立たない容姿と衣類を選ぶんだ?
せっかく仮想の中で理想とする自分を作れるというのに。
中には、冒険に出ずにタウンだけで農業や商売などをしてスローライフを送るものも多いが、さすがにこれは無い。
多すぎるし、服装も地味すぎる。
どこのタウンもそうだが、皆、見栄えを重視した格好をしているため、まさにコスプレかと思うような姿をしているのに……今、目に入る人々は機能性重視の簡素な格好だ。
「…………な、なんだよ、これ!」
上手く言葉が出てこない。
頭が真っ白になり、視界に飛び込んでくるあり得ない光景に圧倒されながら、ただただ道を進んでいく。
自分がどこへ行けばいいのかも分からない。
普通なら運営の相談所は都市の入口あたりに設置してあると言うのに、見当たらなかった。
一体、どうすればいいんだ?
何も分からない……。
目に飛び込んでくる光景を脳は処理しきれず、忘我の境地でふらふらと行く宛もなく街を歩いていく。
やがて、大通りの一角。
路地裏へと続いているだろううす暗い道に人だかりが出来ているのに気付いた。
声をひそめて何かを語り合う人々の顔にあるのは、恐れ、怯えやらの負の感情。
何か、あったのか?
街灯に群がる蛾のように、リックは近づいて行った。
「これで七人目か……」
「惨いな……誰かも分からないじゃねぇか」
「また商人だとよ、まったく怖いね~」
「おい、自警団の連中はまだかよ!」
「……すぐに来るだろ、厳重警備中だからな」
聞こえてくる言葉から察するに、誰かが街でキルされたらしい。
タウンでの戦闘行為は例外なく禁止されているはずでは?
何となく気になり、人ごみをかき分けながら前へ進む。
行くに連れ、何だか鉄錆のような生理的に不快な匂いが漂ってきた。
最前列まで進み、路地裏へたどり着くと……
「…………え?」
赤、赤、赤、目に飛び込んできた鮮烈な色にリックの一切の思考が吹き飛んでいた。
うす暗い路地裏に転がっていたのは、無残に切り刻まれた人の死体。
あらゆる部位を無残に切り飛ばされ、ゴミのように路上に散らばっていた。
ピンク色をした断面からは未だに血が噴水のように流れ出しており、殺されてさほど時間は経ってないのだろう。
むき出しの背中部分には目のような紋様が刻まれており、未だに血を流していた。
目の前の光景が冗談のように感じられ、リックは目をしばたたいた。
が、路地裏の奥に目を凝らすと、丸い何かがそこにはあるのに気付く。
汚らしく赤い斑点が飛び散る、茶色の毛が生えた何か……それは人の生首だった。
「う、うぐ……ッ!」
慌てて目を逸らすと同時に、猛烈な吐き気が襲いかかってきた。
熱い何かが喉元までせり上がり、神経を圧迫する。
今さらになって、凄まじい血臭が漂ってきていることに気付き慌てて鼻を抑えた。
そして真紅に染まった路地裏へ背を向けると、人を押しのけてその場を離れる。
「な、何だ何だ!」
「お、おい!クソッ!危ねぇだろ」
「痛いッ、お、押さないで!」
強引に進むものだから押しのけられた人が倒れ怒鳴りつけてくるが、とてもそこまで気が回らない。
異様な気持ち悪さに襲われ、吐き気を抑えるだけで精一杯だ。
一刻もはやくここから離れたかった。
人の群れから抜け出すと、恐怖に駆られ走りだした。あの現場の近くにいたら自分が正気を失っていしまう……
謎の強迫観念に駆られての行動だった。
ただ走る走る。
道行く人は異様な物を見るような視線をリックに向けるが、知ったこっちゃない。
やがて、極度の息苦しさを感じ、ようやく足を止めた。
どこかに座り込みたかったが、そのような場所は無く、とぼとぼと歩いて行った。
頭に浮かんでくるのは、あの真っ赤に染まった路地裏。
あれは、間違いなく人の死体だよな……?
「は、はは……何でもリアルにすれば良いってもんじゃないだろ。あれじゃ絶対に苦情が来るだろうな……」
強張って形にならない苦笑いを浮かべながら、震える声で呟く。
これは子供もプレイしているゲームなんだぞ、それなのにあんな残酷描写が許されるわけがない。
そう自分で自分に言い聞かせるが……それでも胸のむかつきは収まらなかった。
やがて、ある考えが動揺する頭に浮かびあがってくる。
本当はあの転移された森ですぐに湧きあがった考え。
くだらない、あり得るわけがないとずっと直視を避けていた予想。
……これはゲームでは無いんじゃないか?
ひょっとしたら俺が居るこの世界は現実なのではと……
「馬鹿野郎ッ!そんなわけあるかッ!」
気付けば、周りを気にすることなく、叫んでいた。不安や恐怖、混乱で正気を失ってしまいそうだった。
立ち止まり、歯を食いしばる。
ここは仮想の世界だ!
だって俺はPC『リック』の姿形をしているんだから!
そう何度も言い聞かすが胸の鼓動は一向に収まらなった。
「ッ!うわっ!?」
不意に背後から衝撃を感じ、つんのめっていた。
ぼんやりとしていたせいで態勢を立ちなおすことができず、地面に手を付くような形で倒れてしまう。
手の平と膝に痛みを感じ、顔をしかめた。
「おい!こんな道の真ん中で立ち止まってるんじゃねぇぞ!」
何を急いでいるのか、突き飛ばした男は罵倒と共に走り去っていく。まるで何かに追われているかのような勢いで道の先へと消えていった。
内心舌打ちをしながら、立ちあがろうとしたが、気付いてしまった。
痛みを感じる、手の平。
恐る恐る手を広げてみると木片のような小さな棘が刺さっていた。
そして傷口からは赤い血が……
「え?…………な、何で?」
傷が付いたら血が流れる。そんなことは子供でも知っている当たり前のことだ。
だが、この身体は所詮、仮想世界にしか存在できないデータの塊だ。
それなのに……何で血が流れるんだ?
「ん?……大丈夫ですか?」
ずっと道の真ん中でうずくまっているのを心配に思ったのか、若い男性が声を掛けてきた。
清潔感を見る者に与える純白の法衣。首には十字架をかたどったアクセサリー。
男性は呆然として動かないリックの肩に手を置く。
「どこか具合でも悪いのですか?医者を呼んだほうがいいですかね?」
「……運営は、どこにあるんですか?」
男性の声は耳には一切届いてはおらず、リックは被せるように問いかけた。
「え?な、何かな?」
「運営ですよ!このゲームから出られなくなってしまったんです!本当に困ってるんですよ」
「こ、困ってるのは分かったけど……」
突如、豹変したかのように勢いづいたリックに男性は後ずさる。
「クソッ、これはゲームですよね!まだ『アース・エンブリオ』の中なんですよね!だったら何で身体が痛いんだ、血が流れるんだッ!」
「……………」
「俺は一体、どうなったんだ!どうして現実に帰れないだよッ!」
男の正気を疑うような目つきにさらに胸が煮えたぎる。
何で、そんな視線で俺を見るんだ!
俺は間違ってなんかいない、おかしなことなんて何も言ってないのに!
「クッソ、クソクソクソおおッ!何だってんだよ!だれでもいいからさ、ここから出してくれぇッ!」
ついに心の堰が決壊して、悲鳴交じりの雄たけびが口から飛び出す。
道を歩いていた何人もの通行人の冷たい視線が突き刺さってきた。
何故、そんな目で俺を見るんだよ、クッソ!
気付けば再び走り出していた。
人にぶつかり、怒鳴られるが決して足を止めることは無かった……