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Wings of the Sky Blue

作者: 水夜ちはる

上杉謙信女性説を元に謙信(景虎)が元服~兄晴景から家督を相続するまでの十代の頃をを描いた短編歴史小説です。


同人誌「#創作文芸:*.jp 5th」「Shrot Stories Self Selection」に収録。

 鮮烈、という言葉がまず脳裏に浮かぶ。派手な甲冑に身を包み、馬を駆る。その若武者が戦場を駆け抜けるたび、戦場は様相を一転させた。

 風のごとく戦場をかけ、薙刀を閃光のごとく振るう。その様はまさに鬼神のごときで、それはその若武者自身が「私は毘沙門天の子だ」と幼少の折、冗談交じりに述べたとおりであった。

 馬上から芸術的なまでの薙刀術は、味方には大きな勇気を与え、敵にはその倍の恐怖を与えた。神の子とは誇大な表現ではなかった。若武者はただその一騎で戦場を支配した。

「景虎! 出すぎだ! 少しは自重してくれ!」

 若武者と同じ旗印の青年がやっとの事で先頭を突き進む若武者に追いついて怒鳴った。 彼らは敵陣を突破しつつあるが、彼らの軍勢は遥か後方だった。先頭にたち、敵兵をなぎ払いながらも、味方さえ追いつけない速度を保っている。

「弥太郎! ここはこのまま本陣まで突っ切る!」

 先頭を走る若武者は手綱を緩めなかった。越後国栃尾城城主長尾景虎は、側近である小島弥太郎を叱り付けるように叫んだ。喚声と怒号がひしめき合う戦場においてなお、美しく良く通る声だった。

「ば、ばか……」

 弥太郎が気付いたとき、景虎を狙って弓兵からの一斉射撃が行われた。明らかに景虎は突出しすぎていた。

 空を裂き、矢は景虎の命を奪わんと殺到する。

 景虎はそれを見ると一瞬身をかがめ、その刹那人馬一体となって伸び上がり手にした薙刀をなぎ払って、飛来した矢を払い落としたのである。

 それはあまりに美しい姿であった。

 景虎をかばおうとした弥太郎も、敵兵もただただその姿に見惚れるだけであった。

 鮮やかな甲冑に包まれたその体は、細身でどこか丸みを帯びていた。表情もまた凛々しさの中に柔らかさを含んでいた。それは少女のものである。

「まったく、あの細っこい体のどこにあんな力があるというのだ。それも女子とは天は何を考えているやら」

 景虎の離れ業に戦場が硬直した隙に、弥太郎のそばへ壮年の男が近づいてつぶやいた。本庄実乃。元栃尾城城主で、長尾景虎の臣であり師である男だ。

「ええ、虎の強さは抜きん出ていますよ。あの体でどの国の豪傑にも引けは取らない」

「弥太郎、俺の見立てではおまえさん一人があの虎と互角だと思っているんだがな」

 弥太郎は驚いて実乃の顔を見た。彼も幼少より景虎の練習相手を勤めてきた少年である。少なくとも景虎に近い実力を持っているに違いがなかった。

「まあ個の武力はともかくとしてだ。見よあの姿を」

 実乃は馬上で薙刀を閃かせる景虎を刺す。弥太郎は頷いて彼女を見つめた。

「虎は戦場を支配する。存在感というものが違う。味方を鼓舞し、敵を震え上がらせる。戦場で蕩けるような魅力を発する、俺は景虎に魅せられてしまっている」

 実乃はやや興奮した口調で言った。彼は景虎が十三才で元服し、武将としての道を歩く事になったとき、栃尾城に招き入れて城主としている。景虎の才能をいち早く感じ取った男だ。十九も年上で越後でも評価の高い、智勇兼備の武将が十代の少女の将器に魅せられているのだ。

 戦いの趨勢は大きく傾いていた。馬上で仁王立ちする景虎の姿は実乃の言葉どおり、戦場を支配していた。

「その戦い振り、まずはお見事! だが勝利の声はわしを倒してからにしてもらおう!」

 と、敵陣から巨体の武将が飛び出し、景虎に迫った。敵将黒田秀忠である。巨体の豪将は越後でも名の通った武将である。

「黒田殿! 何ゆえ反旗を翻す。今は越後国内で争っている時ではない」

「この期に及び言葉は無用! おぬしも武に生きると決めたならば、刃で語れい!」

 鋭く天を貫く景虎の問いかけに、雷で大地を震わすかのように黒田秀忠は応えた。その問答の鋭さとまっすぐさに景虎は一種の快感を覚えた。

「よかろう! こいっ!」

 小細工無しの一騎打ち。それは生死を分ける一瞬であるにかかわらず、景虎は喜々として馬を走らせた。

 一合、二合、刃を交える。景虎は女性にしては大柄だが、戦場の中に入ってしまえば並みの体格である。大柄で体重にすれば倍はあろうかという黒田の野太刀を彼女は軽々と受け流した。

「戦いの天才というやつだな」

 それを遠くで眺めた実乃が漏らす。

 三合目、景虎の薙刀は秀忠の首を凪いでいた。二合で相手の力量と癖を見抜き、実に芸実的な動きで討ち取っていた。

 将が敗れ、戦いは収まる。

 あまりに見事なまでの一騎打ちに、勝者も敗者もただ、景虎の武者姿に見とれた。



 天文一五年(一五四三年)黒田秀忠の越後守護代長尾家への反乱は失敗に終わる。

 戦後時代真っ只中のこのころ、越後の国も決して安定しておらず、守護である上杉家の力はなく、事実上の権力は守護代長尾家にあった。だが、それも安定したものではない。長尾家は越後国内の数ある豪族・国人衆の代表であり、彼らにも各々の利権や思惑があるため、その結束は決して固いものではない。

 黒田秀忠も有力な国人の一人で、長尾家に協力する勢力の一つであったが、反旗を昼がした。

 長尾景虎、後の上杉謙信であるが、その勇名を天下に届かせるに至っても、国内の国人衆の反乱には生涯悩まされつづける事になる。



 月は時に鋭く見るものの臓腑を貫く光を放つ。秋の研ぎ澄まされたそれは、乾いた空気も相まってその夜は特に激しかった。

 今宵、越後の空は冬の凍てつきを思わせるほどに硬く冷たい。

 その夜空の下、体に抑えきれない熱を持って、夢遊病者のように歩く少女がいた。

 景虎である。

 景虎はおぼつかない足取りで、ふらふらと彷徨う。そこは昼間彼女が大活躍を見せた戦場だった。

 当然、戦死者の始末は終わっていない。

 決して大規模な戦ではなかった。だが、それでもいくもの骸が無造作に転がっている。それは昼間の戦闘の熱さを失わず、この冷たい夜の中で異様な空間を作り出していた。

 景虎はまとわりつく熱気に晒され、全身から激しく汗を出していた。

 息苦しく、ため息のように深く息をする。

 死の臭いが、彼女を異常にさせていた。

「なぜ……何故争わなければならぬ……」

 上気した顔で月を見上げ、つぶやく。それは自らへの断罪か、懺悔の声のようだった。

 と、骸の手が伸び、血まみれのそれが景虎の足をつかむ。

 怨嗟の声が聞こえる。

 戦場で景虎の魅力に惹かれ、戦った者だ。景虎と共に戦い、恐怖を忘れ、相手を殺し、そして殺された男。

 帰るべき田畑に帰れば、やさしくて人のいい男だったかもしれない。待ちわびる家族もいたかもしれない。

 怨嗟はかなわぬ夢の声である。

 もう一方の足も、そして両腕も亡者に絡め取られた。景虎は動かない。

 上気した顔をわずかに歪めて笑い、つぶやいた。

「おぬしらには、私を呪い殺す権利があるというものだ」

 景虎は抵抗しない。亡者たちは景虎の細い体を絞り上げた。苦痛が全身を襲う。だが彼女はわずかに苦悶の表情を浮かべただけで、それを受け入れた。

 と、大きな光の玉が浮かぶ。それはゆらりと景虎の前へ進むと、人の形を成した。

 黒田秀忠の亡霊だった。

「黒田殿か。そういえば謀反の理由を聞いておらぬ」

 自嘲気味な笑みを浮かべながら景虎は言った。

「刃で語れといったはずだ。おぬしには聞こえなかったか」

 秀忠は冷たく言い放つ。

「なるほど。そういえばそうじゃ」

 景虎は目をつぶり、秀忠との一騎打ちを思い出す。

「しかしだ、黒田殿……私は兄上に代わろうとは思わぬ」

「何ゆえだ。おぬしほどの将器、天下に二つとあるまい。それが何故あの惰弱な兄に仕えねばならぬ。道義か? この戦国の世に道義がいくつ覆されておる。いそがねばこの越後は戦国の強者に飲み込まれるぞ」

 景虎は薄い笑みを止めた。意志の強そうな唇を結び、輝きを持った目で秀忠を見返した。

「それは違う。兄上は惰弱な男ではない。確かに体は弱いが、大きな男じゃ。私は決して兄上を超えられる者ではない。私は動けぬ兄に代わって、戦いに生きることを決めた。私が兄の代わりに刃となって戦うのじゃ」

 黒く大きな瞳が輝き秀忠を突き刺した。

 秀忠が言うとおり、景虎の兄、長尾家当主晴景は病弱な男だった。戦場に出る事は敵わず、床に付している時も多い。越後の実質的な国主として不安視をする者も多い。

 なお守護である上杉定実には子がおらず、守護代晴景は病弱、越後の利権を巡って大小の争いが頻繁に起きるのも無理がなかった。

 その争いを晴景に変わってことごとく鎮めてきたのは、元服間もない景虎であった。

 天才的な戦ぶりと人を惹きつける力、動けない兄晴景との比較もあって、景虎の評価は国内外で高いものとなっていた。

 そこで長尾家家臣団の中で現れたのは、晴景に変わって景虎を当主として、越後の国を治めさせようという考えだった。もちろん保守的に、長男であり、男性である晴景を当主として戴こうという家臣もいる。

 家臣と言っても各地の有力者の寄り合い所帯である。各々の思惑や利権が絡み合って有象無象の勢力争いになって現れている。

「越後の内の争いならば問題はあるまい……だが、甲斐の武田、相模の北条は北に野心を燃やし、会津の芦名も越後の地を狙っておる。それらの勢力がこの越後に襲い掛かったとき、晴景殿で守りきれるか? いや晴景殿が旗印でも良い。晴景殿を旗印に、越後の国が一つにまとまる事が出来るのか」

 景虎は無言で秀忠の声を聞いた。戦国の世である。道義や想いだけでは通じない事を若い景虎とて感じている。黒田秀忠は力ある景虎を、越後の柱として立てようと考えた。武辺者の彼はその要求を乱で示したのだ。その乱の鎮圧に景虎が命じられたのは皮肉であった。無論、越後の家臣、国人衆に彼と思いを同じにするものも多いだろう。景虎はそれを知っていた。

「虎ー。景虎ー! どこにいるんだ-」

 遠くから景虎を呼ぶ声が風に乗って耳に届いた。

 小島弥太郎の声だ。

「景虎殿。わしはもう死者だ。死人は未来を語る術を持たぬ。おぬしが判断すべき未来は、おぬしと未来を共有するものと語るが良い」

「黒田殿……私は……」

 景虎は喘ぐように言った。気付けば喉がからからになっていた。言葉がつながらない。見つからない。景虎は奥の歯をかみ締めた。

 黒田の姿が歪み、薄れる。幽鬼はその幻を見ている者以外からは見えぬものだ。景虎にまとわりついていた骸たちも、その姿を闇に消した。

 月明かりに姿を見つけた弥太郎が景虎に駆け寄った。

「虎! こんな夜中に姿が見えないと思ったら……無用心じゃないか」

 弥太郎は怒りと呆れを折り半にしたような口調で言った。

 だが、景虎は無言だった。いつもの彼女の内から発せられる活力はなく、その姿はひどく頼りない。

「虎?」

 弥太郎は怪訝そうに彼女に近づいた。

 ふらり、と景虎の体がゆれる。弥太郎はあわてて彼女の体を支えた。

「大丈夫か? 虎!」

 抱きとめた景虎の体は病のときのように熱く火照っていた。息は浅く荒く、景虎のきめこまやかな肌の上には玉の汗が浮かんでいた。

「大丈夫じゃ。たいした事はない」

 景虎はうっすらと目を開けて、弥太郎を押しのけるようにして自分の足で立った。だが、その足取りもやや頼りない。

「たいしたことないって、おまえ……」

 心配する弥太郎をよそに、景虎は乱れた髪を書き上げた。豊かな黒髪が繊細な指の隙間から零れ落ちる。それは月光に照らされて少女とは思えぬ艶やかさを演じた。

「虎……」

 弥太郎は圧倒された。なんと言う存在感なんだろう。昼間の戦場でもそうだが、こうしてみると一つ一つのしぐさの中に、彼女の存在感というのは他を圧倒するものがある。天性の魅力というものなのだろうか。弥太郎は長く景虎と付き合いのある人間だが、あらためて感じさせられる。景虎を長尾家の当主として越後を統一しようという家臣たちの意見は、確かに腑に落ちるものである。

「弥太郎。今宵は月がきれいじゃのう」

 わずかな時間に心身の乱れを整え、気を巡らした景虎は常の景虎だった。少女のみずみずしい生気と活力にあふれている。

「景虎……本当に体はいいのか」

「何、少し瘴気に当てられただけじゃ。私もまだまだ修行が足らぬ」

 月光を浴びて笑う。無邪気な仮面だ。弥太郎は思う。誰よりも戦争の天才であるにかかわらず、何故この人は誰よりも繊細になってしまったのか。弥太郎は憐憫を少年の瞳に乗せて景虎を見た。

「よせ。私はおぬしに憐れみなど求めておらぬ」

 表情をころころ変え、景虎は不満げな顔で弥太郎を睨んだ。

「おぬしは常に私のそばにいてもらう」

「え?」

「おぬしは私と共にあれ」

 景虎の声は凛と澄んで言葉に飾りがない。それは弥太郎の心を打った。

「……も、もちろん」

 景虎は答えを聞いて笑った。満足げなその笑みは人を惹きつけるそれだった。弥太郎は思わず顔を赤らめた。主従の関係であるとはいえ、年頃の少年であった。

「ふ、とりあえずはまあ、今宵は酒でもつきあってもらうか。この月を見て飲まぬのはもったいなくての」

 舞うように身を翻し、少女は腰の瓢箪を取り出した。

「やれやれ」

 弥太郎は苦笑すると彼女に付き合うことにした。

 過酷な運命や重圧を受けつづける彼女には、酒とそれに気兼ねなく付き合える側近の一人が居ていいだろう思う弥太郎だった。



 景虎が黒田氏を滅ぼし、二年が経つ。

 越後国内は晴景派、景虎派に分かれ、表立った争いはなかったが、水面下では調略や策略が張り巡らされていた。長尾家の本城、春日山城と景虎の居城、栃尾城を中心に越後は割れた。

 その魍魎がごとくの争いは、病弱な晴景と、まだ幼い景虎の心身を疲れさせて行った。

 越後国守護、現在の名目的な越後国主である上杉定実は再三景虎に守護代長尾家の家督襲名を要請した。景虎は定実のお気に入りであった。度々起こる国内の国人・豪族の反乱を、病弱な晴景に代わり景虎が次々と鎮圧していたからである。

 国内では景虎の家督襲名を望む声が高まり、晴景派との対立は深く、双方とも兵を集め、一触即発の状態になっていた。

 その火薬庫のような長尾家の本城、春日山上に景虎はただ一騎、正門の前に現れた。

 その堂々たる姿や、守備兵の肝を抜くに値していた。

「景虎! 何故おぬしがここに……」

 対応したのは長尾政景だった。政景は景虎の姉、桃仙院の夫であり、景虎の義兄にあたる。このとき彼は二二歳と景虎に近い年齢であり、景虎のよき理解者ではあったが、今回の騒動では晴景についていた。

「兄上と話がしたくなってのう。ついふらりと来てしまった。政景殿、門を開けてくれぬか」

 鎧甲冑もつけず、穏やかな笑顔を浮かべながら、大音量でありながら美しさを損なわない声で景虎は叫んだ。家督を兄妹で争う骨肉の戦の最中とは思えぬ穏やかさだった。

 政景は悩んだ。彼の知る限り、景虎は謀略を好む人間ではなかったし、極端までにまっすぐなあの少女が、何か含みがあってあの笑顔を浮かべるとは思えなかった。

「門を開けよ。我が長尾家は同族に閉ざす門を持たぬ」

 城内から低く静かな声が聞こえた。落ち着きのある、どこか心休まる声だった。

「兄上!」

「晴景様」

 門をはさんで景虎と政景が声の主の名を呼んだ。

 長尾晴景。越後国守護代長尾家当主である。

 鶴の一声は、硬く閉ざされた春日山城の正門を開け、景虎は七歳まで生まれ育ったその城へ踏み入れた。

「兄上!」

 景虎は晴景の姿を認めると、いそいで馬から飛び降り、兄の前でひざを衝いて頭をたれた。その臣下を認める態度は、いぶかしげに景虎を見ていた晴景派の家臣たちも驚いていた。

「お久しぶりでございます」

「久しぶりだ。面を上げよ、虎」

 晴景は三九歳。その年齢よりも老いやつれて見えるのは、病のためか心労のためか。だが柔和な表情で景虎を見る姿は、優しき彼の本来の表情だった。

 景虎は顔を上げまっすぐな表情、美しい瞳が晴景を捕らえる。

「また少し成長したな。もう虎と呼ぶのは非礼にあたる。景虎よ、良い武将に育ったな」

「いえ、まだまだにござる」

「ははは、この目で見たわけではないが景虎、おぬしの戦でのあばれっぷりは俺の耳にも届いておるぞ」

 晴景はからかうように笑った。

 景虎は不満げな表情で晴景を睨んだ。睨むといっても殺意のみじんも感じさせないものだ。

 晴景は笑い、景虎はすねるようにそっぽをむいた。

 家臣たちのいがみ合いをよそに、本人たちはとても家督を争っているような節はまったく見せなかった。

「まったく……兄上も老けたのう」

「そうか?」

「ほら、白髪が目立っておる。まだ四十も前だというのにみっともない」

「ははは、いずれお前もそうなる」

「なっ……」

 景虎は血相を変えた。男勝りの腕っ節と無敵の戦上手でも根は少女のそれである。容姿の事には敏感だ。

 しばらくそのような談笑が続いた後、一呼吸置いて晴景が問う。

「して、景虎。わざわざ春日山に出向いて、一体何の用だ?」

 言葉に重さがある。景虎はそう感じた。兄から本質を切り出した。それは兄としての、いや長尾家当主としての彼の立場だろう。景虎は晴景をさすがだと思った。

「このような無意味な戦は、もう止めにしていただきたい」

 景虎は単刀直入に、なるべく短い言葉で彼女の意思を伝えた。

 それは実に彼女らしい口調だった。

 晴景は頷き、もっともだと応えた。景虎は晴景に変わり、越後国内の大小の乱を鎮め、戦いの中心にその身を置いてきた。その手で同郷の士を斬り、殺め、怨嗟の声を聞いてきたのは彼女だ。その戦いは不毛なものだった。それを一番に感じているのは景虎だろう。晴景は景虎の言葉を深く理解した。

「しかし、俺はこの戦を無意味だとは思っておらぬ」

 景虎は驚いて晴景を見た。

 心優しく、分別があり賢明な兄。それがこの戦を肯定するとは彼女には信じられなかった。越後の国を割り、同胞たちが殺しあう戦をはじめようというのか。それに意味があるというのか。怒りを含めた視線を景虎は兄へ突き刺した。

「景虎よ。この戦いを何と見る?」

 答えはわかりきっていた。だからこそ晴景は問い掛けたのであろう。だが、景虎にはその真意が読めない。

「長尾家の……家督相続を争う戦です」

 誰もがはっきりと答えられる、あたりまえの答え。景虎はそれを恐る恐る口にした。

「そうだな、強いてはこの越後を率いていくものを決める戦いだ」

 晴景は空を見上げた。

 高い空は雲ひとつなく、どこまでも青だ。

「俺は体が弱く、何一つ荒事をすることが出来ぬ。だが、それでもこの俺を長尾家の当主として担ぎたい者がおる。同時に、お前の武将として、主君としての力量を認め、お前を長尾家の当主にしたいと考えるものも多い」

 景虎は沈黙し、兄の言葉に集中した。

「景虎よ、お前はどうしたい」

 問いに景虎は一瞬逡巡した。兄の目が遠くを見ていたからだ。

「私は……」

 だが、景虎はまっすぐと兄を見た。それは若さであり彼女そのものであった。

「私は兄上の手足となりたい。兄上が動けぬのであれば、私がその手足となって動けばよい。それで良いではないか」

 彼女は強く言った。まっすぐで強い瞳は未来をはらんで輝いている。

 晴景はそれを見て目を細めた。うらやましいと彼は思った。そして輝かしい未来の可能性を秘める少女の姿を心地よいものと感じていた。

「景虎よ。お前には将来があって良いな」

 それは小さな声だった。すぐそばにいる景虎がやっと聞こえるほどの声だった。

「え? 兄上?」

 景虎は思わず聞き返した。

「景虎。俺はこの戦を、こう考えている。家督相続の戦には違いないが、どちらを主君として仕えることが出来るか、俺たちは家臣や国人衆に試されているのではないか? もしここでお前が俺を打ち倒すことが出来るならば、俺についた者も納得してお前に仕えることが出来るだろう。だが、逆に俺がお前に勝つことが出来たならば、俺を長尾家の当主として信頼を得ることになり、お前についた者たちを納得させることが出来る。この戦いは俺とお前、どちらを旗印にするか彼らが判断するための戦だと思っている」

 晴景は毅然として言った。景虎は圧倒されつつも、強い口調で反論する。

「しかし! そんなことで悪戯に血を流していいものか! 違う解決方法は!」

「みなが納得が行かねば、また同じことの繰り返しぞ!」

 晴景は各地の反乱のことを言っている。強い柱がなければ、皆が認める主君でなければいずれ血が流れるものなのだ。

「私は……」

「お前が俺に仕えると言っても、お前に組したものたちは納得がいくまい。だからこそ、このような状況になっているのではないか……」

 景虎はうなだれ、晴景は諭すように言った。

 と、門に一頭の馬が現れた。小島弥太郎だった。

「虎ー!」

 一人陣を抜け出した景虎を心配し、彼は単独敵中に彼女を追ってきたのである。手勢を率いなかったのは、もし大人数で動き、いたずらに刺激を与えればそれこそ戦端を開くことになってしまう。景虎の真意を良く知る彼だったが、景虎が単騎敵陣に乗り込んだ事を知るといても立ってもいられなかったのである。

「弥太郎……おぬし、どうしてここに」

「ばかやろう! 敵が晴景様とはいえ、敵中に一人で乗り込んでいく大将があるか! 今うちの陣営はお前を助けようと騒ぎが広がっている。今は実乃殿が抑えているが時間の問題だ。このままではお前の軍はこの春日山に攻め寄せるぞ!」

 弥太郎は必死の形相で叫んだ。景虎の軍勢は春日山城と対峙している。景虎自身には晴景と戦をする意思はないのだが、彼女を支えるものたちの我慢は限界に達していたのだ。彼らの暴発を抑えるため、景虎は一時軍を起こし、出陣を行った。だが戦端を開かずに、なんとか話し合いで落ち着く方法を模索していたのだ。

 だが、景虎の独断による行動は裏目に出ていた。

 陣から景虎が姿を消したことが知れ渡ると軍勢は騒然となった。次に捜索と斥候に出ていたものから、景虎が一人春日山城へ向かったことがわかると、景虎派の武将たちは景虎を助けるべく、軍勢を動かそうとした。

 戦端を開いてならぬとした、本庄実乃の働きにより、景虎軍は一時はその足をとめたが、弥太郎の言うとおり時間の問題であろう。

「そうか……時間がないな、景虎」

 晴景はゆっくりと景虎に歩み寄った。

「こうなった以上、多くの血を流さずにすむ方法はひとつだけだ」

「兄上?」

「景虎、お前と俺とで一騎打ちをしよう。それが一番わかりやすい」

「兄上! そんな馬鹿な、一騎打ちが、単なる武が人の上に立つことの基準になるのか」

「確かに人の上に立つのは武だけではないが、評価のひとつだろ? 特にこんな戦国の世は大きな力だ」

 晴景は微笑むと、その腰の刀を抜いた。晴景意思の硬く、景虎と斬り結ぶことを望んでいる。

「兄上……」

 景虎は苦しげな顔でうめいた。兄の心を一番良く知る彼女である。

「抜け、景虎。それともお前は兄に抜いてもいないものを斬る、卑怯者にさせるつもりか?」

 晴景は不適に笑い挑発した。

 晴景の家臣たちからは制止の声が次々と発せられた。当然だろう、景虎の勇名はすでに越後の国を超えているほどである。体の弱い晴景に分はないと思われた。

「兄上、兄上……あんまりじゃ」

 景虎は今にも泣き出しそうな顔で刀を抜いた。とても一騎打ちをするような表情ではなかった。

 晴景は強く踏み込んで景虎に切りかかった。景虎はその一撃を受け流す。晴景は矢継ぎ早に斬撃を繰り出した。それは意外な強さだった。家臣たちもまた、体の弱いといわれていた晴景が、これほどまでの剣を見せるとは思いもよらなかったのである。

「強いな……あれで病気がちでなければ、あるいは景虎と互角だったかもしれん」

 政景は弥太郎に近づいて言った。

「ええ、血は争えないというところですか。本当に……本当に天は残酷なことをする」

 弥太郎は低く答えた。もし晴景が健勝であれば。もし景虎が普通の少女のような力しか持たなければ。この争いもなかったことであろう。

 晴景は攻めた。その太刀筋は万人をして強者であると認めたところだろう。だが、景虎はそれをすべて受け流した。

「どうした景虎! 打ち込まねば戦いにならぬぞ!」

「いやじゃ! なぜ、なぜ兄上と斬りあわねばならぬ!」

 景虎は受け流しながら叫んだ。晴景はさらに激しく斬撃を打ち込む。

「弱いな、景虎は。だから俺は景虎にはついていけぬのだ」

 政景が言う。景虎にはまだ心の弱さがあった。非情でなくてはならないこの世で、景虎は優しすぎ、その優しさは逡巡につながる。それは一族の存亡にかかわることなのだ。

「虎……景虎! お前はそんな弱い人間じゃないだろう? 軍気が迫ってる。俺は……俺はお前と一緒に行きたいんだ」

 弥太郎は苦戦する景虎に向かって叫んだ。

「景虎よ、お前には未来がある。俺はもう先長くはないだろう。病は俺に未来を与えてはくれそうにないのだ」

「兄上……」

 剣戟の響きの中、晴景は言った。晴景を蝕む病は進行していた。当主として、国を守るものとして療養を続けていたが、回復のメドは立っていなかった。

「臣下を、国を割ったのは俺の責任だ。俺がせめてお前が一人前になるまで、この国を支えようと思ったからだ……もうすこし俺がしっかりしていたら、こんな事態にはならなかったかも知れぬ。だが、お前ももう成長した。俺の最後の役目は、お前に俺の跡を譲ることだろう」

 景虎は愕然とする。

「俺を斬れ、景虎。そうすれば、お前の真の強さを、皆に示すことが出来る。長尾家は、越後はお前を中心に結束できる」

「そんな……そんな兄上!」

「斬り開け! 景虎!」

 晴景はそれまでで最大の迅さをもって景虎に切りかかった。それは魂をかりとらんばかりの殺気がこもられていた。それは景虎の本能を呼び覚ますに十分な勢いだった。受けるだけでは死ぬ。景虎は無意識にそれを感じた。

 そして一瞬の交錯。

 乾いた音が春日山に響いた。

 どこまでも青い空に陽光を反射しながら、晴景の刀が舞った――。


 天文一七年(一五四三年)、越後国守護上杉定実の調停の下、長尾景虎は兄晴景に長尾家の家督を譲られ、越後国守護代となる。上杉家はすでに実権を失って久しく、老齢もあって越後の国主は事実上長尾景虎となる。

 この二年後、定実は後継ぎなく病死する。断絶した上杉家はそのまま守護代の景虎が継ぎ、上杉景虎を名乗って名実共に越後の国主となるのだ。

 そしてその後、信濃を追われた村上義清の失地挽回のため、歴史に名高い武田との川中島の戦いに挑むのである。


「のう、弥太郎。大変なことになったものじゃ」

「大変ってお前ね」

「この私が守護じゃぞ。この越後で一番えらいのじゃ」

「まあそうやって酒を飲んでだらしなくしてる姿を見ると、そうは見えないが」

「うるさい」

「ま、地位も責任も重くなったんだ。少しは自覚してくれ」

「わかっておる。わかっておる……だからじゃ、だからこそ酒とおぬしは変わらずにいてくれよ」


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