9.融解
森を夢中で駆ける瑞英が背後の気配がないことに気づいたのは、森の奥へとかなり進んだときだった。
「……あ、れ?」
ふと後ろを振り返れば、誰もいなかったのだ。
慌てて戻ろうと歩を進めたところで声がかかる。
「……瑞英?」
ここ最近ですっかり聞き慣れた、穏やかな声だった。
思わず振り返れば、いつの間にか背後に雅文がたたずんでいる。神出鬼没すぎる存在に、瑞英は体を大きく仰け反らせた。
「へ、陛下っ? このような場所で、何をしているのです……?」
「ああ。瑞英がくると、美雨が教えてくれてな。だから来ていたのだ」
瑞英はそこで、昼餉のときのことを思い出す。
(あ、あのときかー!!)
藍藍以外の侍女が出払ったあのとき、おそらく途中で美雨が知らせたのだろう。つい先日知り合ったばかりの教育係はどうやら、かなり頭の回る女らしい。
出会ってしまったからには断れず、瑞英はとぼとぼと雅文の隣りを歩く。少し先を行けば、ひときわ大きな桜の木が鎮座していた。
その下には布が敷かれ、書物が数冊重ねて置かれている。
書物を見た瞬間、瑞英の瞳がキラリと光る。
その変化に、雅文は口端をつり上げた。
「この大樹は、わたしが生まれる前から生えているものだ。桜の木の中で、一番古いものらしい」
「だから、こんなにも大きいんですね。陛下って、おいくつなのですか?」
「はて。今年で……五百を超えたか? 歳など、気にしたことがなかった」
「ご、五百……鼠族の平均寿命の、優に十倍の年齢ですね……」
竜族の平均寿命は、千を超えるらしい。その代わり、繁殖率は極めて低い。
一方の鼠族は繁殖率が高い分、寿命は短い。大体五十前後だ。
世の中平等にできてんだなーと感慨深く頷いているとおもむろに、雅文が桜の幹に触れた。
「ここは落ち着く。静かで、精霊も多いのだ。わたしも昔は良く、気を紛らわせるためにここに来た」
「……精霊、ですか?」
聞き慣れない単語に、瑞英が首をかしげる。すると雅文が、敷き布に座るよう促した。日陰が多いため、彼女はかぶり布を外す。木漏れ日に銀髪が反射し、きらきらと輝いた。
おとなしく座した姫を見てから、彼も腰を据える。そして嫌な顔ひとつ見せず、説明を始めた。
「精霊とは、森羅万象に宿る者たちのことだ。竜族は彼らが見えてな。だからこそ、力を貸してもらっている。かといってそれはあくまで彼らの好意によるものであるから、命令したりはできない。花嫁となった者に対して祝福を贈っているのも、彼らなのだ。我らは精霊と仲が良いからか、そのように優遇されている」
「そうなんですか。目に見えないのにそこにあるなんて、不思議です」
瑞英は見上げ、目をしばたたかせる。しかし当然のことながら、何かが見える様子はない。それを不思議に思いながらも、彼女は雅文の言が嘘だとは思わなかった。彼の目が真摯な色をしていたからだ。
そんな姿に目を細めていた雅文が、唐突に声をひそめる。
「……瑞英は、我らの加護について何も思わぬのか?」
ぱちくりと、瑞英が雅文を見上げる。彼は、見たことのない顔をしていた。仄暗い瞳には憂いが滲んでいる。鬱蒼とした森に迷い込んだと錯覚するほど、その眼は底が知れなかった。
どうしてそんな目で見られるのか分からず首をかしげたが、瑞英は素直な言葉を発する。
「幸倪様から聞いて便利だなーとは思いましたが、それに頼ろうとは思いません。聞いた限りだと、我らにとってはかなり博打っぽいですし。そんな賭けにお金をかけていられるほど、我が一族は資金がありません。こつこつ堅実に、が我が一族の特長ですから」
瑞英がぽつりぽつりとこぼす発言に、雅文は凍ったような表情で訊き入る。それに居心地の悪さを覚えながらも、彼女はそれを聞いた際一番初めに感じたことを口にした。
「それに……竜族の方からの加護に依存してしまうと、自力で生きれない気がするのです」
鼠族は、独自の文化を独自で作り上げた獣族だ。それ故に上界と隔絶された地下を生活空間とし、知恵とずる賢さ、行動力で勝負してきた。そんな様を直に見て育った瑞英は、竜族の加護にさほどの魅力を感じなかった。
確かに嬉しいとは思う。餓死者や質素な食事を摂る者が減れば、瑞英がここにいる価値は十二分にある。
だけどその依存は、本当に必要なものなのだろうか。
瑞英にはそう思えてならない。
「我が一族は古くから、自力で生きることを主において生きてきました。その、弱いので。一度でも甘い蜜を吸えば、そちらに傾きたくなるのがわたしたちだと思います。竜族の方の加護を受けていたら、我ら鼠族は成長することなど、なかったんじゃないかなー……なんて」
ぺらぺらと自分だけがしゃべっていることが恥ずかしくなった瑞英は、はにかみながら雅文を見上げようとする。しかしその手前で、後ろから抱きすくめられた。
若草の香りがふわりと漂い、瑞英を優しく包み込む。一瞬のことに戸惑い身を固めた彼女は。
首筋に顔を埋められた。それは甘えるというより、すがるような行動で。
何かが違うと、瑞英は身をすくませる。
「……へい、か?」
振り返ろうとすれば、目元に手を当てられる。その手は冷たい。凍えた温度が瑞英の温度と溶け合って、ぬるくなっていった。
「……雅文様?」
「ああ」
なぜかそう呼んだほうがいい気がして、瑞英は王の名を呼ぶ。彼は、平坦な声で返事をした。それが逆に虚しくて、哀しくて。胸が痛いくらいに締め付けられた。
鼠姫は体温を分けるように目元を覆う手に己のそれを重ねる。
「瑞英」
「はい」
「これは、わたしのわがままだ。否定してくれても構わない。だから、答えて欲しい」
「……はい」
瑞英は、雅文の手が強張るのを感じた。
「わたしとともに、生きてはくれまいか」
こくりとひとつ、息を飲み込んだ。
瑞英は少しばかり考えた後、大きく息を吸う。そして慎重に言葉を選びながら、口を開いた。
「雅文様。わたしは正直、愛や恋についてよく分かりません。さらに言うなら、あなた様がわたしを選んだ理由も分かり兼ねます」
「ああ」
「ですが、そのお心が嘘だとは思いません。むしろ好ましいと思います。なので、その」
ぽそぽそと、尻すぼみになる言葉。既に顔は熟れた果実のように赤く染まっている。しかし意を決したように、瑞英は声を張った。
「ご婚約に関しましては、構いません。そういう意味合いでの花嫁選びだったことは、分かっていますから。ただ、わたし個人からの返答は、もう少しお待ちいただけないでしょうか。雅文様の真剣な言葉には、わたしもしっかりと応えたいのです」
一拍、息を吸い。彼女は腹を据える。
「なのでどうかわたしに、雅文様のことを知る時間をください」
一瞬の沈黙が下りた。まるで永遠のように長く感じられるそれに、瑞英の心拍が上がっていく。
そのときふと、空気が揺れた。目が覆われているのにもかかわらず、視界が明るくなったような気がした。花びらが、風に巻かれて降り注ぐ。
それは、雅文の笑い声だった。
「そうか」
どこか吹っ切れたような、清々しい声音だ。彼はくつくつと喉を鳴らして笑うと、安心したように体の重みを預けた。
そのとき、覆われていた手が外される。後ろを見てみたが、その表情は瑞英がいつも見ているとおりの笑みを浮かべていた。
「瑞英。わたしの番が、そなたで良かった」
「……は、はあ」
「瑞英。もう少し、このままでいても良いか?」
「嫌、です」
瑞英は流されることなく首を横に振った。さすがに恥ずかしいのだ。
そんなやり取りをしたものの、雅文が素直にやめるわけもなく。結果として根負けした瑞英が折れて終わった。しかし諦めて書物を読み始めたのはいいが、悪戯に髪を絡められたり口づけを落とされたりしては読書に集中できない。
「……陛下っ! 読みにくいので、あまり過度な接触はやめてください!!」
「すまぬ。それは無理な話だ」
「なぜですか……!!」
文句をたれながらも膝の上で羞恥に体を震わせながら書物を読む姫に、王は目を細める。
そして壊れ物のような手つきで彼女のことを撫でながら、初々しい反応を楽しんだ。