6.再会
瑞英が起きたのは、日が真上にのぼってからだった。
寝台からのっそりと起き上がれば、藍藍がせかせかと掃除をしている。そして主人が起きたことに気づくと、雑巾を握っていた手を止めて笑顔を浮かべた。
「おはようございます、瑞英様。もうすっかりお昼時ですよ」
「……え、うそ。わたし、そんなに眠ってたの?」
「はい。それはもうぐっすりでした。昨日、夢花様との話が長引いたのと、今までの疲れが出たのが理由ではないでしょうか?」
とりあえず、お食事をいただいてきますね。
そう言い残し、藍藍は忙しなく部屋から出ていく。
侍女として成長したのか、と感動していたのだが、それはどうやらまやかしだったようだ。扉の向こう側でバタバタと音がし、「きゃんっ!?」という悲鳴が続く。
それを欠伸を噛み殺しながら聞いた瑞英は、
「安心した。ちゃんと藍藍だったわ。朝起きて爽やかに雑巾掛けしてるから、一瞬別人かと思った」
と、藍藍がいないことをいいことにそうつぶやいた。
ぽつねんと取り残された瑞英は、寝ぼけ眼で辺りを見回して気づく。二日前に書庫から持ってきてしまった書物が、もの寂しそうに卓に乗っていたのだ。
のそのそと立ち上がり、飴色の紙をめくる。
ついで、眉を寄せた。
「……んん? これはどこの言語だ……?」
羅列している文字は、瑞英ですら知らない未知の文字だった。字形で言えば、どことなく狗族で使われているものに似ているが、竜族で使われているものに似ているものも混じっている。
ぱらぱらと、一通りめくってみた瑞英は、それが古語であることを悟った。
「古語かぁ……」
どこのものか分からないが、読めない書物というだけで胸がときめいて仕方がない。目の前に宝石箱があるのに、鍵の開け方が分からずドギマギする感覚と似ていた。新しいことを知るというのは、瑞英にとってはそれだけで特別なのだ。
おかげさまでくすぶっていた眠気も覚め、内心わくわくしながら、瑞英はどうしたものかと思慮する。
再度一頁目をめくる。今度はじっくりと眺めすべてに目を通した。
二頁、三頁と進めていくうちに気づいたのは、それらが一定の法則を持って成り立っている文章だということだ。そのどれもが、かなり古い言語だ。少なくともここ数百年でできたものではない。
ただ古語は、獣族によっては暗号と同義に扱われ、秘匿されているものもあった。
「これは多分、四種類の言語を掛け合わせたもの。そして全部古語だよなぁ、これ。さすがに古語は、鼠族のものしか知らないし」
ぶつぶつと独り言を口にした瑞英は、少し唸った後嫌そうな顔を浮かべる。彼女の頭の中には、その解決策とも言うべき案が浮かんでいた。
されどそれを実行に移すのは躊躇われた。しかし書物の中身は読みたい。
瑞英は葛藤する。
数分悩みに悩んだ瑞英は、急いで服を着替える。そして、書物を持って部屋を飛び出した。
その数分後に部屋に戻った藍藍は、朝食兼昼食を抱えたまま主人の不在に唖然とする。
「る、瑞英さまぁ? まったまた……か、かくれんぼですかー? わ、わたし、頑張って探しちゃいますよー……?」
そんな声をあげる藍藍。それから部屋のいたるところを引っ掻き回して探したが、瑞英が見つかることはない。それはそうだ。彼女は数分前に、部屋を出て行ってしまったのだから。
次第に冷や汗を流しながら焦り出した藍藍は、物が散乱した部屋で途方に暮れて泣き出す。
「る、瑞英、いったいどこに行かれたんですかぁああっ!?」
不憫な侍女の叫び声は、肝心の主人に届くことなく閑散とした後宮に溶けていった。
***
後宮を抜け竜宮へと向かった瑞英は、「今日は妙に人が少ないなー」などと思いつつ、書庫に辿り着いた。
そっと取っ手に手をかけ扉を開く。
部屋から明かりが溢れ、瑞英は頬を引き攣らせた。
「どうした、瑞英。こちらに来い」
逃げ腰になっていたところ、中から望んでもいないお誘いの言葉をもらう。弱小獣族としては断れなく、彼女は泣く泣く書庫の中へと身を滑らせた。
後ろ手で扉を閉め、持ってきた書物を床に置いて起拝の礼を取ろうと膝をつく。しかし両脇を掴む形で抱えられ、彼女は視界を上げた。
瞬間、涼やかで美しいかんばせが目につく。そのすぐ後に、いつもの香りが鼻をくすぐった。緑と陽光の匂いがする。なぜか落ち着ける香りで、瑞英は肩の力を抜いた。
今にも溶けてしまいそうなほど透き通った青い瞳が柔らかく弧を描き、瑞英のことを見つめている。
竜王は甘やかな顔をして、唇を緩めた。
「待っていた」
なぜか分からないが、頬に熱がのぼった。
顔を隠すために俯けば、普段は三つ編みに結わえてある顔の脇の髪が垂れ下がる。それを見て、瑞英はかなり雑に身支度を整えてきたことに気づいた。寝起きから櫛を通すことすらしてきてない。ついつい好奇心に身を任せ飛び出してきてしまったのだ。
そのことに内心反省しつつ、瑞英は首を傾げる。
「えっと……いつ頃からこちらにいらしたのですか?」
「朝からだな。此処に卓と椅子を持ち込んで、執務を片付けていた」
「……昨日は何処に?」
「もちろん、書庫だが」
嫌な予感が的中し、瑞英は頭を抱える。部屋をよくよく見れば確かに、以前まではなかった卓と椅子が書庫の空いたところに置かれていた。その上には紙の山が出来上がっている。間違いなく、雅文の竜王としての職務だろう。
つまりそれは、瑞英を待つがために雅文の職務に支障が出ていたということで。
それを悟った瑞英は、目に見えて落ち込む。彼女はそういうことを気にする気質だった。
しかし当の雅文は、昨日すっぽかされたことなど気にするそぶりを見せない。むしろひどく嬉しそうに笑み、瑞英の様子を観察して困ったように眉を寄せた。そしてふと足元の書物に目を落とす。
「瑞英。その書物はなんだ?」
「……あ、これは……以前こちらに来たときに、そのまま持ってきてしまったものです」
瑞英を抱えたまま器用にも拾い上げた雅文は、中をぱらぱらとめくり目を見開く。
そして、瑞英を見た。彼女は肩に力を入れ、借りてきた猫のようにおとなしくなる。
「瑞英、これは、ここで見つけたのだな?」
「……は、はい。えーっと、右から二つ目の、上から二段目の、左から数えて八冊目の位置に、ありましたが……?」
「左様か」
ぺらぺらと、答えなくてもいいことまで答えてしまう。
瑞英の記憶した場所に足を運んだ竜王は、一冊分が入りそうなほど空いた棚を見つめ、ふう、と息を吐いた。
その顔から憂いが垣間見え、瑞英は思わず口を開いてしまう。
「あのぅ……?」
「瑞英」
「は、はいっ」
スッと、瑞英の目の前に書物が来る。
何が何だか分からないままそれを受け取った瑞英は、額に感じた柔らかい感触に惚けてしまった。
「これは、そなたが持っていてくれ」
耳元で囁くと、雅文は椅子のある場所へと向かう。
その道中で額に口付けられたことを把握した瑞英は、慌てた様子で額を抑えた。
(ふ、不覚だった……!!)
今度こそは抗おうと以前から決めていたにもかかわらず、瑞英は簡単に接触を許してしまった。警戒心が足らない証拠だと、潔癖的な姫は己を恥じる。
しかし雅文と触れていると、鼠族特有の警戒心が揺らぐのも事実だった。
自分が随分と不埒な者になっている気がして、瑞英はぐちぐちと心の中で反省会を開く。
そんな姫を楽しそうに見つめる雅文は、椅子に腰掛けると同時に筆を取った。そして瑞英を膝に乗せたまま、紙に筆を走らせる。
鼠族であれば紙なんて手に入らないのに……と思う瑞英は、はたりと気づいた。
(わたし、ものすごく邪魔な位置にいないか?)
書庫でこそこそと動いているならいざ知らず、膝の上に陣取る。
誰がどう見ても邪魔だ。
しかし雅文自身が好んで乗せている節がある。
まるで愛玩動物にでもなったような心地がして、瑞英は微妙な心境になった。因みに愛玩とは、中位種が嗜好品として飼われている状態のことだ。
言うに言い出せず、ぼーっと綴られていく流麗な文字に目を追っていると。
(……あ、れ?)
見たことがある文字が紙面を走る。
それは、瑞英が今腕に抱えている書物の中にもあった、古語のひとつだった。
それを雅文が書いている、ということはつまり。
(やっぱりこの書物の古語のひとつは、竜族のもの?)
聡い鼠姫は気づく。雅文が自分を膝に乗せたまま書面を見せたのは、そういうわけなのだと。
彼はおそらく、この中身を瑞英に読んで欲しいのだろう。なぜかは知らないが、そんな気がする。
雅文が描く文字をしっかりと記憶した瑞英は、頭の中に残る書物の中身と照らし合わせる。
竜族の古語は、今現在使われているものとさほど変化のないものだった。あるとすれば、形が数個変わったくらいか。この分なら、切れ切れだが意味くらいは取れるだろう。
気がつけば優に、一刻が経過していた。
その時間内すべてを使い、頭をせっせと回していた瑞英は、ふと聞こえてきた音に目をつむる。
規則正しく響くそれは、雅文の心音だった。
それに耳を澄ませば、肩の力が抜け眠気が訪れる。ここ数日で妙に疲れやすくなったな、と瑞英は首を傾げた。
鼠族は図太くずる賢い一族だ。どんな環境にも適応できる柔軟性と、迷路のような地下を駆け回る体力はある。姫とはいえ地下を毎日走り回っていた瑞英は、それ相応の体力を持ち合わせていたはずなのだが。
欠伸を噛み殺した瑞英は、あやすような手つきで頭を撫でられ、まぶたが重たくなっていくのを感じた。
こてりと雅文の胸に頭を預けた彼女は、ゆっくりと意識を支配する睡魔に身を預ける。この時点で彼女の頭には、無防備な状態で眠ることがいかに危険なことか、すっかり抜け落ちていた。先ほど決意したことなど、なかったこととして扱われている。
ただただ、とろりと身を包むそれにひどく安堵して。
瑞英はふう、と息を吐き逞しいかいなに身を任せる。
まどろみの中で、愛している、という蜂蜜のような声が聞こえた気がした。
腕の中で眠ってしまった花嫁を抱き締め、雅文はひっそりと微笑んだ。自身の体温よりも高い姫の頬を指で撫で、胸の内側から湧き上がってくる歓喜に舞い上がる。
「いったいどこに隠れていたのだ、瑞英」
わたしはこんなにも、そなたを待ち望んでいたのに。
それは切なる囁きだった。
瑞英が眠っていることをいいことに、雅文は髪や頬にいたずらに口付けを落とす。彼女からは、ほんのり甘い香りがした。それは決して、不快な匂いじゃない。彼好みの爽やかでしつこくない香りだった。
そしてふと、雅文は自身の後ろの首筋に手を回す。
すらりと、うなじが覗いた。傷のない肌には一点だけ、異質なものが露出している。
それは、逆さに生えた黒銀の鱗だった。人型になっても唯一竜としての痕跡を残すそれは、『逆鱗』と呼ばれるものだ。
逆鱗は、最強と謳われる竜族の弱点である。彼らはここに触れられることをひどく嫌う。それはひとえに、これが第二の心臓ともいうべき部分だからだ。
雅文が逆さ鱗に触れると、あまりにもあっけなく鱗が取れる。それをつまんだ彼は、瑞英の唇に押し込んだ。わずかに開いていた唇は容易に鱗を口に含む。
雅文はそれを、舌を使って飲み込ませる。
「ん、ふ……」
瑞英の口から、抜けるような声がこぼれた。
雅文の長い舌が、鱗を喉へと押しながら口内でうごめく。時折苦しいのか、瑞英の口が空気を求めて喘いだ。その度に、雅文は少しずつ息を吸わせてやる。
それは、とても淫靡な光景だった。
互いの唾液が混ざり合い、くちゅりと音を立てる。
瑞英の喉がこくりと鱗を飲み込んだとき、雅文はようやく彼女を解放した。つぅ、と銀色の糸が垂れて落ちる。
再度、触れるだけの口付けを落とした雅文は、うっとりと甘い顔をして小柄な鼠姫を抱き寄せる。
「瑞英、わたしだけの花嫁。……わたしは絶対に、そなたを喪うことなどしない」
最後の言葉は、ひどく切実で。駄々をこねる赤子のようだった。
小さな手のひらを握れば、とても温かい。とくりとくりと、脈打っている感覚も伝わる。
そのことに幸福感を得た竜王は、眼前の書類整理を再開する。
その山がなくなるまで、彼は姫を離そうとはしなかった。