番外編3 猫妃の憂鬱
『なぜ白猫じゃないのでしょう。せめて金目銀目ならば、引く手数多だったのに』
猫姫・夢花は、物心ついた頃からそう言われて育ってきた。
それを聞いた彼女は「一体何を言っているのかしら」と思う。
母親が黒猫なのだから、黒猫が生まれることなど必然だろう。むしろ父親の血を濃く継がなくて良かったと、心の底から思ったものだ。それからもう少し大きくなってから、夢花は彼らがただ夢花とその母を侮辱したいがために、そのようなことを言っていることに気づいた。
そしてそれを悟ると同時に、金目銀目でなくて良かったとも思った。
金目銀目の猫族は皆、普通の猫族よりか弱くなるのだ。特に女の猫族に出やすいそれは、希少価値が上がると同時に弱点となる。病気にもかかりやすく、傷も治りにくい。母親の強さに憧れている夢花にしてみたらそれは、致命的な弱点だった。
だから別にそれはいい。でもそんな陰口を、母親のようにさらりと流せない自分に腹が立った。
彼女が瑞英と出会ったのは、そんなときだ。
母の知人であり、種族間交流ということで連れてきてもらったのである。鼠族を格下に見ている王族の多くは、関わり合いを多く持ちたがらない。それゆえに、夢花の母が使者として交流を取っている。母とあまり離れたくない彼女としては、とても嬉しかった。
そんな母の背中にピタリと張り付き、鼠族領へ向かうを
出会ったときの瑞英は、分厚い書物を読んでいた。
夢花になど、一瞥もくれず。
***
「……あーつまらない、つまらないですわぁ……」
猫妃・夢花は、卓の上に突っ伏しながらそんな声をあげた。ここが私室だからこそできる振る舞いだ。
しかし彼女が、そんな風にやさぐれるのも仕方ない。なんせ今この後宮に、妃は二人しかいないのだから。
瑞英と宇春が、原因不明の病が起きている村を視察するために後宮を発ったのは、つい先日のこと。
それと同時に、夢花が嫌でも狗妃・佩芳と顔を合わせなくてはならなくなった日数は、ほぼ同じである。
ただでさえ腹立たしい存在だったのに、最近はそれが増していた。それは、佩芳が他の妃との交流を拒絶しているからだ。
昨日訓練場で会ったときも、嫌味だけしか言いませんし。なんなのかしらあの方。
そんな不満がたまっていく。
しかも今後宮には、愚痴を吐ける相手がいないのだ。それが、夢花の苛立ちをさらに加速させる要因になっていた。
「しかもあの方、戦えば強いのに訓練に参加しようともしないだなんて。馬鹿にしているのかしら」
狗族同士の確執を知らない彼女はそうぼやき、ため息をもらした。
するとちょうど良いときに、侍女が茶と茶菓子を置いてくる。
青茶と、饅頭だ。饅頭の中にはぎゅうぎゅうに詰まった肉の餡がたっぷり入っており、口にすれば苛立ちも少し良くなる。
夢花は気の利く侍女に感謝の言葉を述べた。すると彼女は嬉しそうに微笑む。その頬が赤らんでいることに気づき、夢花も気を良くした。
夢花についている侍女たちの大半が、猫族領にいた頃から世話になっている者たちである。彼女たちは夢花が、自領でどんな扱いを受けてきているか知っていながら、わざわざついてきてくれたのだ。ありがたい話である。
ゆえに一時期はとても荒れて、彼女たちに当たることも多かった。
そう。それがだいぶ落ち着いたのは、瑞英と出会ってからだ。
瑞英は、夢花と違いとても落ち着いた少女だった。
外に出ることはほとんどなく、日がな一日書物を読んでいる。そんな彼女とともに学ぶ時間は、楽しかった。自領で専属の教師に教わるより、よっぽど気兼ねがない。なんせ瑞英は、夢花を見下したり馬鹿にしたりすることがなかったのである。
猫族領の王族、そして王族に類する者は大抵、夢花のことを馬鹿にしてきたから。
そんな彼女が竜王・雅文の番だと聞いたとき、どんなに嬉しかったか。
その上自分自身も竜族領に残れると知ったとき、どれほど喜んだことか。
ここにいる侍女たちならば、ひとり歓喜し祭り騒ぎをしていた夢花のことをよく覚えているだろう。しかし彼女からしてみたら、そのことはそれほどまでに衝撃的なことだったのである。
そんな瑞英の立場を、宇春とともに守ろうと誓ったのは、少し前のことだ。
立場の弱い友人を、守らなくては。
夢花はそのことを思い出し、ぐっと拳を握り締める。
そして饅頭を最後まで食べ、立ち上がった。
「さあ! 今日も参りますわよ!!」
気合は十分。それさえあれば、あの性悪女とも、反則男とも戦えよう。
夢花はふたりほどの侍女を従え、意気揚々と兵部宮にある訓練場へと向かった。
そこでは既に、訓練が開始されていた。
佩芳は端のほうに佇み、今日もぼんやりと訓練の様子を見つめている。
それを見た夢花は、腹を立てると同時に気づいた。
あら……? 佩芳様の周囲にいる狗族の皆さん、殺気立っておりませんこと……?
しかもその殺気の矛先がすべて佩芳に向かっており、なおのことわけが分からなくなる。むしろなんで今まで気づかなかったのかと、そう思った。
……そういえばここ最近わたくし、虎の波浪に勝つことばかり考え、真っ先に突っ込んで行っていましたわ。
己の短絡さが裏目に出ていることに、ようやく気づいた。まあ、諦める他ない。夢花はこういう獣人なのだから。
しかし気になったので、どういうことかと思い同族の侍女を一瞥すると、彼女たちは困った顔をして首を横に振った。
「申し訳ありません、夢花様。我々は猫族領で生まれ育ったのです。ですので、狗族領の事情に関しては疎く……」
「……ああ、そうでしたわね。こちらこそ、悪かったですわ。わたくしとしたことが」
狗族が主人に仕える経緯は、ふた通りある。
ひとつは、狗族領から奉公に出され主人を見つけるというもの。こちらが一般的だ。
そしてもうひとつが、他の狗族の奉公と結婚し子を成して、一族もろとも主人に仕えるというものである。
こちらの方は本当にまれで、結婚しない狗族のほうが比率は多い。しかし絶対にいないというわけでもないのが、現状だった。
となると、侍女たちに聞くのは無理である。
「……面倒臭いですし、本人に聞いてしまいましょうか」
「……え? 夢花様!?」
夢花はぽつりとつぶやき、佩芳のもとへ向かう。侍女たちは顔を真っ青にして驚いていたが、夢花がその声を聞き入れることはなかった。それを知っている彼女たちは、びくびくしながらも従う。
それは、夢花という猫族が、嘘や建前などを特に嫌うからだ。彼女自身、嫌味ばかり言われて過ごしてきたというのが、その要因だろう。
そのため夢花は、言いたいことがあれば本人に言うし、聞きたいことがあれば包み隠さず聞くのだ。
今回の突撃も、そのためである。
佩芳のもとまでたどり着いた夢花は、形ばかりの挨拶をした。
「ご機嫌よう、佩芳様。本日はお早いのですね」
「……ご機嫌よう、猫妃殿。そちらは、今日は遅いお出ましで」
夢花は嫌味を言われぴきりとしたが、自分を律した。そして本題に入る。
「ところで佩芳様、お聞きしたいことがあるのですけど」
「……なんだ」
「あなた、同族たちから嫌われていますの?」
瞬間、周囲で響いていた剣戟の音が止んだ。
夢花がなんだと言わんばかりに片眉を吊り上げ、そちらを見れば、訓練は再び開始される。
おかしなものだと、夢花は肩をすくめた。
その一方で佩芳は、顔を歪める。
「……なんだそれは。嫌味か」
「はい? 何をおっしゃっているんですの? 気になったから、本人に聞きにきただけですわ」
夢花がそう言うと、佩芳は一瞬きょとんと目を丸くした。そして珍しく、ころころと笑う。
彼女がそんな風に笑うのを初めて見た夢花は、目を瞬いた。
「あなたはどうやら、良くも悪くも裏表のない性格の姫君なのだな」
「……なんですの、その言い方。わたくし、自分が悪口を言われ続けていたのです。それから、自分が嫌なことは他人にもしないと決めただけですわ」
「……そうか」
佩芳はそう感慨深そうに頷き、苦笑した。
「見たとおりだ。王族は、自領にいる者以外の狗族に嫌われている。わたしたちが彼らを追い出したからだ」
「……そうでしたの。うちの王も、一部の者にそういう扱いをしていましたから、そういうこともありますわね。まぁあの王の場合、ただ単に怖かっただけですけど」
「……我が父は、そんな理由で他の狗族を外に出したのではない」
それは、呻くような声だった。
夢花が佩芳を見れば、彼女は顔を大きく歪め胸を掻いている。何かしらの苦しみに耐えているかのような。そんな動作だった。
何かに取り憑かれたかのように、佩芳はぽつりと言葉をこぼした。
「父上は、間違っていない。わたしはそれを知っている。それに一番悪いのは……っ!」
「……佩芳様?」
鬼気迫る様子に困惑した夢花がそう問いかけると、佩芳はハッと顔を上げる。
そして顔を歪め、そっぽを向いた。
「……わたしに構うな。迷惑だ」
「……はあ?」
夢花が思わず声をあげると、佩芳はすたすたとどこかへ行ってしまう。
夢花はぽかーんとした。同時に、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
人が質問しておいて、何やら言ったと思えば唐突に突き放すなんて……何様のつもりですの!?
夢花は瞳をつり上がらせ、ダンッと一度大きく床を鳴らした。それでも気は紛れず、彼女は仕方なしに波浪を探す。
そして彼の姿を見つけるや否、侍女に預けていた剣を抜き去り走った。
他の武官と訓練をしていたが構わず。間に滑り込み、上段からの重たい一撃をかます。
波浪はそれを難なく受け止め、苦笑した。
「波浪!! わたくしと勝負なさい!!」
「お姫さん、いきなりですね!?」
「うるさいですわ! 今、虫の居所が悪いんですの!! 付き合いなさい!」
「横暴極まりないところは、母君そっくりですね!!」
「当たり前ですわ! 親子ですもの!!」
そんなやり取りをしながら、夢花は憂さ晴らしも兼ねて剣を交わらせる。
今日も今日とて、彼女の憂鬱な気持ちは晴れそうになかった――




