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竜王陛下の逆鱗サマ  作者: しきみ彰
第二部 兎は月に花を隠す
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番外編1 翠王妃は未来の誰かに願いを託す

 まるで空に穴でも空いているかのように。

 ぽっかりとした満月が、地上を優しく照らす。


 その月光を頼りに、翠王の妃とたるチュンは紙に何かをしたためていた。普段は下ろしている白銀の髪を、ひとつにまとめている。真紅の瞳が歪み、筆が止まることが多々あった。

 しかしそれでもなお純は、黙々と作業を進める。彼女らしい几帳面な文字が、乳白色の紙をだんだんと黒く染めていった。


 純の足元には、丸められたたくさんの紙が転がり落ちている。そのすべてが、気に入らず没にしたものたちだった。


 一心不乱に筆を走らせながら、純はか細い声で唄を唄う。


「月夜の兎……何して遊ぶ」


 その唄は、兎族の間で伝わる薬唄だった。何かの調合を記した唄だというが、純は作ったことがない。否。どんな薬ができるか知っているからこそ、決して作ろうとしないのだ。


 しかしこの唄が、純のことを救ってくれたのも事実だった。きっとこれを知らなければ、彼女は自分の夫が死んでいく様を、ただ黙って見ているだけだったのだから。


 純はぽつりぽつりと、慣れた調子で言葉を紡いでいく。

 昔から習ってきた唄は、集中したいときに口ずさむと不思議と、心が落ち着くのだ。


「まんまるお月さんの中……餅ついて、えいこらさ……」


 そこまで唄った純は、筆を置く。最後まで書き上げた物語を眺め、ほう、と息を吐いた。

 ふと見上げれば、窓の向こう側にまあるい月が浮かんでいる。

 それは先ほど唄っていた歌詞に出てきた月のように、それはそれは大きな月だった。


 月には、死んでしまった兎が住んでいるのだと言ったのは、誰だったろうか。

 もしかしたら、兎族の女たちが苦しみから逃れるために語った法螺話かもしれない。

 しかし死んだら月に行き、餅をついて騒ぎ笑うその話は、なかなかに浪漫があると思った。


 そう。壊れきった兎族が吐いた嘘にしては、実に可愛らしい。


 純はそんなことを考えながら、書き上げた物語を眺める。

 彼女は未だに、これをどうしたらいいのか分かっていなかった。しかしどうにかして未来の誰かに伝えられないものかと。そう考えたのである。

 その手段に夢物語を使おうとするなど、純自身想像していなかった。我ながら夢見がちだと笑ってしまう。


「……わたしは、どうしたらいいのかしら」


 そのつぶやきは煙のように溶けて消えてしまう。

 誰に相談することもできないまま。純は自身が何をすべきなのか迷い続けていた。



 ***



 その事件が起きたのは、今から二月ほど前だ。

 純が翠王のもとに嫁いできてから、三年もの月日が経過していた。

 その間に純は猛勉強をし、竜王妃でありながら薬師でもある妃として、周囲からの信頼を得ていたのである。


 それはそんな最中に起きた出来事だった。


 始まりは本当に、些細なものだったのだ。

 体の不調を訴える官吏たちが何人か、医務室に運ばれてきたのである。

 純もはじめのうちは「時期も時期だし、ただの風邪でしょう」とたかをくくっていた。春先から夏の間は気温が変化しやすく、毎年何人か風邪を引くのも、発見が遅れた要因のひとつだ。


 それがまさか感染病の類いだったなど、つゆほども思ってもなかったのである。


 しかし同じ症状を訴える官吏が増え、はじめのほうに体調を崩した官吏たちが唐突に竜化するのを見て、ようやく悟る。


 これは間違いなく、感染病だ。


 しかも、竜族にしか感染しない病気だ。その証拠に、竜族以外の官吏はピンピンしていた。

 しかしそんなものが、一体どこからそんなものがやってきたのか。

 考えられる要因はいくつかあるが、おそらく水だろうと純は考える。理由は、兎族が記した感染病の事例で最も多い要員が、井戸水を飲んだことによる感染だったからだ。


 そしてその予想違わず、官吏たちが飲む水に何かが仕込まれていたことが判明した。

 犯人であった狗族の官吏は、口を割る前に自害してしまう。

 されど純はそれを見たとき、胸の内側からもやっとしたものが湧き上がってきたことに気づいた。


 ……この事件の裏にはおそらく、兎族がいる。


 確信はないが、そう断言できるだけの何かが純の中にはあったのである。

 だが、物証がないのにもかかわらずそれを公言することはできない。そして何より、そんなことに構っていられるだけの暇がなかったのだ。


 なんせその感染病は、純の夫である翠王にも感染うつってしまったのである。


 純は、解決策を見つけるために必死で調合した。龍宮の書庫にある薬学書をすべてひっくり返し、自分の中にある知識も総動員し。どうにかして治療法を見つけようと、寝る間も惜しんで動き回った。

 されど彼女の努力むなしく、死者は日を追うごとに増していく。


 竜族の何が面倒臭いかというと、伴侶が死ねばもう片割れも死んでしまうというところだ。

 おかげで感染病による死者は、病に身を侵されていた者たちとその伴侶である。つまり、本来出るはずの死者のおよそ二倍の数の死者が、この感染病のせいで生まれてしまったのだ。


 どれだけ努力しても減らない死者。

 解決策を見つけ出そうとすればするほど焦りばかりが生まれ、純はじわじわと追い詰められていく。

 何より苦しかったのは、周囲から「役立たず」という烙印を押されること。

 そして、「何があってもそばにいたい、死ぬそのときまで力になりたい」と思っていた翠王が、衰弱していったことだった。


 気弱な兎妃にとってそれは、死ぬよりも辛い出来事である。

 自身の無能っぷりを突きつけられた純は、ヤケになっていた。


 だからあんな、無謀なことができたのである。

 自暴自棄になっていた純が持ち出したのは、兎族の間では秘薬として扱われている薬だ。飲めば楽に死ねると言われている、そんな劇薬。


 調合が難しい上に材料に牡丹の花を使うため、牡丹が咲く時期にしか作れない代物なのである。

 純はそれを、病床に伏せる翠王に飲ませたのだ。


 どうなってもいいと、そう思っていた。このまま放っておけば、どちらにせよ彼は死ぬ。ならば楽に死なせてあげたいと思ってしまった。


 冷静な頭で考えれば、愚かとしか言いようがない行動である。

 しかしそれがまさか、竜族にとっては毒ではなく薬として効力を発揮することになるなど。誰が予想しただろうか。


 死ぬと確信していた翠王がみるみるうちに回復していく様を見て、純は柄にもなくほうけてしまったことを覚えている。

 だが、彼女の仕事は翠王を救うことだけではない。他の竜族たちも助けなければならないのだ。


 牡丹が咲いている時期でよかったと、心の底から思った。


 純は不眠不休で調合をし、感染病に苦しむ竜族たちを救ったのである。

 最後の調合が終わると同時に、倒れるようにして眠ってしまった純が起きたのは、それから五日経ってから。どうやら、不眠不休で働いてきたツケと精神的苦痛のせいで、泥のように眠っていたらしい。


 その頃には倒れていた者たちの多くが回復して、仕事に励んでいるという話を聞いたとき、純は「竜族って一体、どんな体の構造をしているのかしら……」と思ったものである。自分は五日寝ても体がだるくて仕方ないのに。


 だが純は、満足していた。自分の行動で、多くの命を救えたのだ。嬉しくないわけがないだろう。周囲も純のことを褒めてくれたし、何より尊敬する翠王が、純に向かって笑いかけてくれたのだ。

 笑顔とともに礼を言われたときには、一生分の運を使い果たした気分だった。


 そこで終われば、純の気持ちも晴れやかなまま終わったのだが。

 この問題は残念なことに、綺麗な形で終わらなかった。


 それから数日後。

 事情を知るすべての者たちに箝口令かんこうれいが敷かれると同時に。

 純は実験の結果得たすべての資料を、奪われてしまったのだ。



 ***



 純は事件のことを再び思い出し、はあ、とため息を漏らした。椅子に寄りかかり、目をつむる。そんな彼女の目の前においてある机には、先日完成させた小説が置かれていた。


 登場人物の名前には、翠王が植物に付けた名前を使った。その他にも色々と、気を配ったのだ。それを知っている者が見ないと分からないような作りになっているはずである。何度も見返したのだから、おそらく問題なかろう。


 されどこれを見返すたびに、事件の終幕を思い出し頭が痛くなる。


 調合に関しては、なんら問題ない。なんせ、すでに知っている劇薬の調合と同じなのだから。

 しかし問題なのは、竜族がそれを隠蔽したことである。


 兎族の純からしてみたら、自身の弱点を放置したまま隠すその行動は、愚かとしか言えない。

 だがお飾りの王妃でしかない彼女には、何かをいう勇気も否定されても訴え続けるだけの覚悟もなかった。


「……そろそろ陛下がいらっしゃるのに、情けない。しっかりしないと」


 純はそうつぶやき、机の上に置いてあるそれを撫でる。

 今回の件を童話として脚色し、書き起こしたものだ。中身は兎族の女たち好みにしてある。読めばきっと、別の者にも伝わるだろう。

 だがそこまでしておきながら、純はこれを誰かに渡す勇気がなかった。


 心ここに在らずという状態でぼんやりしていると、扉が叩かれる。

 顔を覗かせたのは、純に兎族領にいた頃から仕えてくれている第一侍女だった。


「純様。陛下がいらっしゃいました」

「……わ、分かったわ。お通しして」

「はい」


 純は慌てて立ち上がり、自身の身だしなみを再確認する。そして燭台の火を消した。

 最低限の確認を終えた純は、翠王が入ってくるのと同時に起拝の礼をとる。


「陛下。よくぞいらしてくださいました」

「……純。そういう形式張ったことは、そろそろやめよう? 君がここに来てから、三年も経つんだ。ゆったり構えていてほしい」

「うっ……はい。仰せのままに」


 純は翠王にそう指摘され、申し訳なくなる。

 促されるままにそっと顔を上げれば、若葉のような瞳と目があった。

 何度見ても慣れることのない美しい容姿に、純は少しだけ目を逸らす。


 長く伸びた萌黄色の髪、涼やかな若草色の瞳。花は透き通るように白く、声が低くなければ女だと錯覚してしまいそうだ。

 にもかかわらず壮大でゆったりしているその様は、樹齢数千年と謳われる大木のようだった。


 彼が今代竜王、通称翠王だ。

 彼とよっぽど近しい者でなければ、その本名は知らない。ゆえに純は彼を「翠王陛下」と呼んでいた。

 気性も他の竜族と比べて穏やかなため、純もわりかし早くその覇気に慣れることができたのである。


 翠王は寝台に腰掛けると、純を手招きする。

 それに萎縮しながらも、純は拳ひとつ分ほど空けた距離に腰掛けた。

 彼は優しいため、唯一の妃である純の元へ何かと通ってくれる。はじめのうちは数言話すだけでいなくなってしまったが、最近はともに寝ることも多かった。


 別に、子を成すための睦み合いではない。ただ寄り添いともに眠り、そして去っていくという、不可思議な行動だった。

 しかし翠王に一目惚れし、そのために周囲を蹴散らした純からしてみたら、それは一般的な王妃の務めなどよりもよっぽど心踊る瞬間だったのである。


 少しの間話をした後、純と翠王は共に寝台に入る。

 ふたりの距離は、相変わらず拳ひとつ分空いていた。これでも縮まったほうなのだ。一年前など、ひとり分空けた距離ですら無理だった。


 そう。普段なら、このまま眠りに落ち一日が終わってしまう。

 されど今日は、いつもと違っていた。


 真っ暗な部屋の天井をぼんやり眺めていると、翠王が名前を呼んできたのだ。


「純。こっちを向いて」

「……えっ?」

「早く」

「は、はい……」


 体ごと横に向けば、翠王も同じ形をしている。

 そうなると、否が応でも目が合ってしまう。

 純はぎゅっと、全身に力を込めた。


「ねえ、純」

「……はい、翠王陛下」

「君は、我らを裏切らないよね?」


 純は唐突にそう問われ、目を瞬いた。何か疑われるようなことでもしてしまっただろうか。とても不安になる。

 そんな胸の内が表情にも出ていたようだ。翠王は苦笑した。


「別に、純のことを疑っているわけじゃない。ただ君の口から聞いておきたいと、わたしが思っただけだよ」

「……そう、でしたか」


 純はそう納得しながら、こくりと首を縦に振った。


「もちろんです。陛下のためにならないことなど、いたしません」


 そう言うと、若草色の瞳がすがめられた。瞳孔が萎縮し、ほのかに光を放つ。

 竜族特有の瞳で見つめられた純は、全身を硬直させた。


「じゃあ君が考えていることは必ず、わたしのためになると? ……君が書き綴ったあの物語も?」


 純はそう言われ、目を見開いた。


 ばれた。ばれていた。

 純がやろうとしていた愚かな足掻きが、よりにもよって翠王(愛しい方)にばれてしまった。


 純は唇をわななかせ、何か言おうと口を開く。

 しかし肝心の声が出てくれなかった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、ぴくりとも動けない。

 純は、生理的な涙が出てくることを自覚した。


 いやだ、いやだ。

 この方から離れるなんて、いやだ。


 美しい方だ。植物たちを心の底から愛し、部下たちを慈しみ励ますような、素晴らしい方だ。

 でも同時に、寂しい方でもある。


 それは、決して伴侶を得ることができないから。


 純は、翠王の胸の内に眠る深海のごとき深い悲しみを知っていた。時折見せる哀愁漂う表情が、それを何よりも物語っている。


 ゆえに彼女はどうしても、翠王のそばを離れたくなかった。

 ようやく手に入れた自分の居場所を、消してしまいたくなかった。


 だから純は、怯える自分を叱責しゆっくりと口を開く。


「……必ず。あれは必ず、未来の竜族を救ってくれるはずです」


 なんとか紡いだ言葉は、震えていた。

 しかし決して目だけは逸らすまいと、翠王の瞳をじっと見つめる。

 どれぐらい見続けていただろうか。

 ふ、と。威圧感が和らいだ。


「……君はわたしたち竜族よりも、よっぽど勇ましいのだね」


 そんな言葉とともに頭を撫でられた純は、先ほどとは違った意味で硬直してしまった。

 純がぽかんとほうけていると、翠王はくすりと微笑み純を抱き寄せる。

 純の頭の中は今、大変なことになっていた。


 え、なにこれどう言うことなの……!?


 意味が分からない。

 でも、断るわけにもいかない。


 純が混乱しきっているのを良いことに、翠王は首筋に頭を寄せた。

 そして囁く。


「君がいてくれて良かった」

「……え?」

「君がいてくれたから、わたしは空っぽにならずに済んだ」


 それがなにを示すのか分からないほど、純は鈍感ではない。

 つまり彼は、純を自身の伴侶の代わりにしているのだ。代わりにして、心の空白を埋めようとしている。それは、彼の心がかなり限界まで達しているということであろう。


 はたから見れば不誠実極まりないことだったが、純としてはなんでも良かった。むしろ、妻の代わりだけはできないと諦めていたのだ。


 その抱擁がたとえ純本人に向けられていないのだとしても、それでも良い。死ぬそのときまで使い潰してもらえたら、本望だ。


 他の兎族の姫のように、好きでもない相手にすべてを捧げるよりよっぽど良い。むしろ純は、そういう因果にある兎族の姫としては、なかなかに恵まれている。


 それを知っていた純は、偽りの温もりに身を委ねた。

 そして、心の底から願う。




 ――竜王は生涯、独身を貫かなければならないなんていうくだらない規則が、いつか必ず消えますように。


 ――そしてわたしが書いた物語が、竜族の命を救ってくれますように。




 壊れかけた竜王の身に寄り添いながら。

 翠王妃は心の中で張り裂けんばかりの声をあげながら、祈り続けた。

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