23.想望
周囲の視線が、瑞英を貫く。周りは未だ殺気立っており、突然発言をした彼女の姿を見て怪訝な顔をしていた。
しかし瑞英の頭の中には、ふたつの考えが浮かび上がっている。
ひとつは、母親の言葉。
もうひとつは、翠王の妃であった純の想い。
(純様は、この書物を一体どんな想いで書き上げたのだろうか)
それは、この書物を紐解いたときから気になっていたことだった。その思いは、物語に描かれていた背景を知ってから余計に強くなる。
だから瑞英は考えた。純の気持ちを。そしてなんとなくだが悟ったのだ。
母親から教わったこと。そして純の想い。
このふたつがあれば、雅文のことを助けられると瑞英は思った。
そう思った瑞英は、国良よりも前へと歩き起拝の礼を取ると、雅文に向かって言う。
「竜王陛下。発言をお許しください」
「……申してみよ」
「はい」
瑞英はその言葉を聞き顔を上げた。
そして周りを囲う竜族の顔を見つめる。そして最後に、雅文を見た。
「陛下。少しばかり話が逸れるようで申し訳ないのですが……陛下は、『玉香』と言う名を聞いて何を思い浮かべますか?」
「……玉香? それは、牡丹であろう」
瑞英は不思議がりながらも話に乗ってくれる姿勢を見せてくれた雅文に、内心頭をさげた。しかも律儀に答えてくれたのだ。それが、瑞英の背を押してくれる。
されどその会話の内容が気に障ったらしい周囲の竜族は、苛立たしげに口を開いた。
「その名がどうしたというのだ」
「はい。この名は、純様が書き残された物語『竜王花奇譚』の主人公の名です」
「……は?」
瑞英がそう言った瞬間、何が言いたいんだ、という空気が辺りに漂う。それに構わず、彼女は続けた。
出来る限り多くの竜族に、純の想いを届けるために。
「主人公だけではありません。その他の登場人物たちも皆、竜族の方しか分からない名前が使われているのです。竜族の方々はご存知ないかと思いますが、この名は皆様の間でしか通じない、特別な名前なのですよ。二代前の翠王様が使われていたものですから。ですからわたしも、美雨と永福が教えてくれなければ気づくことはできませんでした」
そう口にすると、竜族たちはざわついた。雅文も目を見開いている。
それ以外の者たちは、瑞英が言っている意味が理解できず首をかしげていた。
それはそうだ。なんせ彼らは、翠王が花に付けた名など知らないのだから。
「純様は、悩んだのだと思います。上から書物に残すなと告げられ、しかしこれほどまでの被害が出ているのにもかかわらず、その対策を取らないことが正しいのか。ひどく、悩まれたのだと思います。そうして悩まれた結果思いついたのが、竜族の方々しか分からない名を使うことだった。決して、竜族の方々を貶めるために物語を書き記したのではないのです」
口に出すと同時に、瑞英の中で確証が芽生えた。
(そうだ。純様は、悩みに悩み抜いてこの方法を選んだんだ)
竜族の未来を考えて、たとえ自分の名が貶められようと。生きている間に、なんの結果も出ないのだとしても。
後世に伝えなければいけないと、そう思った。
しかしこの物語を竜族に置いたままにしても、風化してしまうだろう。彼らは、このような陳腐な物語に興味はないだろうから。
だから託したのだ。兎族の姫に。
これからも竜族を支えてくれるであろう、兎族の姫たちに。
彼女の苦悩はどれほどのものだったのか、瑞英には分からない。しかしかなりのものであっただろうという想像はできた。
そして純の真摯な想いは、竜族たちにも通じたらしい。今までの不満が嘘のようになくなり、場が静まり返っていた。
(言うなら、ここしかない)
瑞英はその場の空気が一番揺れたときを狙い、腹に力を込めた。
雅文を見れば、目を見開いている。それを見て、瑞英は少しだけ笑った。
雅文様。今のわたしは、あなたの力になれていますか?
守られているだけでなく、あなたを支える存在になれていますか?
そんな気持ちを抱き、瑞英は一度瞼を閉じた。されどそれも一瞬、すぐに目を開くと、立ち上がり後ろを振り返った。そこには数多の官吏たちが整列している。宇春や藍藍たちもいた。
藍藍は瑞英と目が合うと、満面の笑みを浮かべる。
「わたしがそばにいますから、大丈夫ですよ」
そう言われているような気がして、瑞英の気持ちがふわりと浮き上がった。とん、と背中を押してもらえたような気がする。
竜宮を今まで支え、そしてこれからも支えていってくれる。
そんな彼らに向かって、瑞英は頭をさげた。
「ですからどうか、どうかお願いいたします。このようなことが二度と起こらぬように。純様の想いが、報われるように。此度のことを覚えておいてはいただけないでしょうか。紙に記さなくともいい、ただ覚えておいて欲しい、後の世に伝えて欲しいだけなのです」
どうか、どうか。お願い。お願いします。
そんな気持ちを抱えて頭をさげたとき、瑞英は昔のことを思い出していた。
(そういえばお母様は確かあの飢餓のとき、こんな風に頭をさげていたっけ……)
鼠族の王族は他獣族の王族とは違い、王族と民の命の重さは同等だと。そう断言するような血筋だった。だからだろうか。民に向かって、頭をさげることすら厭わない。
瑞英の母もその価値観を持ち、命じるのではなく頼んでいた。そのほうが、心に言葉がしみるからだと後に聞いた。
『どうかお願いいたします。鼠族が生き残るためには、皆の力が必要です。ですから、わたしのことを信じてはくださいませんか?』
瑞英が母親から学んだことは、反発が大きいときは無理矢理押し通すのではなく真摯になって頼み込むこと。ただそれだけ。
瑞英が惨めな姿になるだけで問題が解決するなら、本望だ。それに彼女はもともと、そこに価値を置いていない。
鼠族は、生き残るためならなんでもする獣族なのだから。
(命を犠牲にしてまで大事にしたい誇りなんて、わたしにはない)
純にはおそらく、そこが足りなかったのではないだろうか。そんなことを、瑞英は思った。
頭をさげるということも。またそれを公の場で発言する勇気も。彼女にはなかった。
瑞英が現実逃避のようにそんなことを考えていると、静かだった大広間に音が響いた。
それは、ひとり分の拍手である。
思わず顔を上げれば、ひとりの男が手を叩いていた。
それは、刑部尚書である栄仁だ。
満面の笑みを浮かべて手を叩く見知らぬ竜族に、瑞英はほうけた顔をした。
されど拍手はさらに伝播し、美雨や永福までもが手を叩く。それだけにとどまらず、拍手はあちこちで湧き上がった。
あの美紫までもが優雅に手を叩いている。それがどういう意味でやっているものなのか、瑞英には見当もつかなかった。
(え、えっ?)
瑞英が視線をあちこちに彷徨わせていると、雅文の目が合う。
彼は瑞英に向かって、とても優しい笑みを浮かべていた。
とろけそうなほど甘い甘い、笑みを。
瑞英は目を見開き、固まってしまう。そんな彼女を見つつ、雅文は叫んだ。
「静粛に!!」
雅文がそう言うと、辺りは一瞬で静まり返る。
彼は周囲をぐるりと見回すと、高らかに告げた。
「この件は後の会議にて決める! 皆の者、良いな?」
雅文の言葉に、一同は膝をつき平伏する。
瑞英はその様子を、ただ呆然と見つめる他なかった。
***
報告会が終わった後。瑞英たちは雅文から許可をもらい、大広間を後にした。
瑞英は前方を歩く国良に向かって口を開いた。
「ひとつ、聞いても良いですか?」
「おやおや。なんですか? 僕のやろうとしたことをさらっとやってのけてしまった鼠妃様?」
「……それ嫌味ですか? まぁいいですけど」
瑞英は後ろにいる他の面子を気にしつつ、後ろを見ることのない国良に向かって話しかける。
「薬の調合」
「……薬の調合、ですか?」
「なぜ分かったのか、聞いても?」
瑞英は、ずっと気になっていたことを口にした。
(この機会を逃せば、聞けなくなるし)
この報告が終わった際に必ず聞こうと、そう思っていたのだ。なんせ医官と絡む機会など、これからなくなるからである。
それにこの男は、こういう状況でなければ答えてくれそうになかった。
すると国良は立ち止まり、振り返る。
その顔は、ひどく楽しそうだった。
「おやおや。気づきましたか」
「……舐めてます?」
「まさか。んーそうですねぇ……今回の件でかなりの収穫を得ましたし、特別にお教えしましょう」
瑞英はその言葉を聞き、複雑な心境に陥った。
(なんだこの、敗北感……)
一部では確実に負かしたはずなのに、釈然としない心持ちにさせられる。
そもそもこの男の眼中に、瑞英は入っていなさそうだ。それがたまらなく悔しい。
そんな瑞英の気持ちを知ってか知らずか、国良は目を細めた。
「兎族に伝わる秘薬の作り方と、似ていたのですよ」
「……え?」
「特に、牡丹の生花を使うところが」
だから気づいたのだと、国良は言う。
瑞英の頭の中に、疑問符がいくつも湧いた。
(それってつまり……秘薬と解毒薬の調合が、同じってこと?)
それを聞く前に、国良はにっこりと微笑みそれを止める。
「はい。答えられる話は以上です」
「ええ!?」
「僕基本的に個人情報話さないんですから、今回の情報はかなり珍しいんですよ?」
だから納得しろと。そう言うことらしい。
瑞英が目線で不満を訴えたが、国良の目線は別のところへ向いていた。
瑞英が首をかしげそちらを向くと、そこには宇春がいる。
宇春はその視線に、怯えた表情を見せた。
しかしそれも一瞬だったらしい。国良は満面の笑みを浮かべると、ふわりと頭をさげる。
「それでは、僕はこの辺りで失礼させていただきますね」
止める間もなく。
国良は永福を引き連れ、廊下をそのまま歩いて行ってしまった。
颯爽と立ち去っていくその姿にぽかーんとしていた瑞英だったが、緊張が解けたのかなんだか疲れてきた。
(なんかもういいや……とりあえず、休もう)
ここ数日、いろいろなことがありすぎた。
それらを思い浮かべつつ、瑞英は振り返る。
「……部屋に、戻りましょうか」
瑞英のその言葉を機に。
一同は後宮へと帰還したのである。
それから少ししておこなわれた会議で「今回の件を記録に残す」ということが決められることを。
瑞英はまだ知らなかった。




