15.執着
村の長の屋敷に戻ると、夕餉が用意されていた。
それを作ったのは瑞英と宇春の侍女だというから驚きだ。なんと、国良が指示を出したらしい。
『僕、ここの村の人たちを信用してないので』
そう、いけしゃあしゃあと言ったと聞いたときは、顎が外れそうだった。
(いろんな意味ですごいな、ほんと)
確かに、原因がこの村の竜族にないとも限らない。が、そこまで疑ってかかられると、なんだかとても申し訳なく感じるし、悲しくなるのだ。鼠族は信頼関係の中で成り立っていただけあり、その寂しさは余計に募る。
(すべてを疑ってかからないといけないなんて、辛くないのかな?)
そう思う。そんな気持ちのまま食事を終えると、宇春と侍女たちともに部屋に戻ることになった。
その道中、瑞英はぽつりとこぼす。
「すべてを疑ってかかるのって、疲れないのでしょうか……」
「……もしかしなくともそれは、国良殿のことを指していますか?」
「はい……」
瑞英は力なく頷いた。すると宇春は、眩しそうに目を細める。
その視線に思わず、目を瞬かせた。
「瑞英様は、そのままでよろしいのだと思いますよ」
「……えっと、それは……どういう……?」
「わたしたちのような者と瑞英様方のような者、両方いるからこそ、強固になることもあるということです」
その言い方は、宇春が国良の同類だということを指し示していた。
わけが分からず、瑞英は混乱する。されど彼女は、ひたすらに笑っていた。
「なんだかんだ言って瑞英様は、陛下と似ていらっしゃるということですよ」
そう言われたときにちょうど、瑞英が泊まる部屋に着いてしまった。
宇春は「牡丹のことは、わたしの口から国良殿に伝えますので」と言い残し、さっさとその場から立ち去ってしまう。
瑞英は途方に暮れた。
(……どういうことなんだろう)
瑞英と雅文の似ている箇所など、どこにあるというのだろうか。まったくもって分からない。
湯浴みをし寝台で横になってからも、悶々とした胸のわだかまりは残ったまま。
外の風が強く吹き、木々を揺らしている音ばかりが耳に響き、余計に眠れなくなる。
瑞英はそれから半刻ほど、その疑問に悩まされることになるのだった。
***
瑞英と別れてから。
宇春は国良の部屋へと向かっていた。
場合によっては逢い引きと取られかねないことだったが、このことを話せるのは今しかないと思ったのだ。
されど扉の前に佇むと、体が勝手に震え出す。これはもう、仕方のないことであった。昔から根付いたものは、そうそう簡単に取れたりしないのだから。
意を決して戸を叩き名前を名乗れば、中から国良が顔を出す。
宇春が侍女をひとり連れてやってきたことに、彼は何ひとつとして驚きを表さなかった。
それどころかこの男は、
「そろそろいらっしゃる頃だと思っていました」
などとのたまい、中へ入るようにと促してくる。
宇春は警戒心を剥き出しにしながら、侍女に外にいるようにと命じた。彼女はそれに頷く。主人が何をしようとしているか、分かっているからだ。
宇春はおそるおそる、中へと進んだ。
部屋は宇春に与えられたものより狭いが、内装はなんら変わらない。中には国良以外おらず、とても静かだった。
向かい合うように椅子に腰掛けると、宇春は震える手を握り締め袖で隠す。
そして今日見た光景を、つぶさに報告した。
なんとか話し終えた頃には、だいぶ神経を使っていた。ここからが宇春にとっての本番なのに。そう思いながら、彼女は国良の返答を待つ。
「なるほど、牡丹ですか……きな臭くなってきましたねえ」
国良はそう楽しそうにつぶやいた。
そしてにっこりと笑う。
「ところで兎妃様。あなた様の本題は、そちらではありませんよね?」
どうやら国良以外には、何もかもお見通しであったようだ。
それが歯がゆくもあり、恐ろしくもある。それと同時に、確証を得られた。
やはりこの男は……兎族の中でも、優秀な人材だった。
でなければ、これほどまでに頭の回転が早いはずがなかった。だからこそ、余計に疑問が湧くのだ。
いつの間にか、宇春の手の震えは止まっていた。
手のひら同士をきつく握り締め、彼女は口を開く。
「あなたはどうして、竜族領にいるのですか」
その問いかけに、国良はよりいっそう笑みを深めた。
宇春の嫌いな、おぞましい笑みだ。それと同時に懐かしく、最も親しみのある笑みでもある。
兎族の男は大抵、このような笑みを浮かべていたのだから。
「やはり、気になりますよね。兎族の事情をよく知っていらっしゃるあなた様なら、そう仰ると思っていました」
「……気にならないというほうがおかしいと思いますが」
宇春は訝しげに瞳をすがめる。
彼女の頭の中には今、兎族の常識というものが濁流のごとき勢いで流れ込んできていた。
「兎族は、知識の提供はしても人材の輩出はしません。表向きは「竜族の覇気に耐えられないから」などとのたまっていますが、事実は違います」
「ええ、そうですね。事実は「他獣族に、自分たちの技術を提供したくないから」です。知識と人材そのものの提供は、似ているようでまったく違いますから」
そしてそこが、兎族の最大の特徴なのだ。
技術が外に漏れることを何よりも恐れる。それが強みであり、他獣族に唯一勝てる点だからだ。
その技術は時として、他獣族を死に至らしめることすらできる。それだけの技術が、今の兎族にはあった。宇春はそれを知っていた。
「だからあなたがここにいることは、おかしいのです」
きっぱりと言い切れば、国良は困ったように肩をすくめた。
「僕、あそこ嫌いなんですよね。だから逃げてきただけなのですが」
「それが難しいと言っているのです。他領に行かないよう、いくつもの関門があることなどご存知でしょう」
「ですねぇ。ほんと、身内に優しくないよなぁ、うちは」
随分と大きな独り言を述べると、国良はふと思い出したように告げた。
「そう言えば、まだあの人生きてるんでしたっけ?」
「……え?」
「嫌ですねぇ。あなたのお父上ですよ。王です。生きていますか?」
「……ええ」
「そうですか」
国良は反応しにくい言葉をつぶやいてから、やれやれと首を左右に振る。
「僕、あの人嫌いだったんですよね、ほんと。だから、死に物狂いで逃げたわけですけど」
「……それが、何か?」
宇春は片方の眉を持ち上げ、苛立たしげに言う。
その様子を見て、国良は声を上げて笑ったのだ。
「嫌だなぁ。昔の僕にそっくりで困ります」
「……はい?」
「妙に短気なところとか、すごく臆病なところとか。あ、あと、」
あの人からせっかく離れられたのに、心は未だにあの人のところに置き去りになっているところ、とか。
それを聞いた瞬間。
宇春は今までにないくらいの動揺を見せた。
頭の中でぐるぐると、文字が浮かぶ。
わたしが、お父様に未だに囚われている?
やっと離れられて安心しているというのに?
随分な見立て違いだ。宇春は今、とても幸せなのだ。兎族のしがらみから離れられて、ひどく幸せなのだ。
そう思い鼻で笑ってやろうと思ったのに。なぜかできなった。
「図星ですか〜やだなぁ、似てて」
――違う。そんな事実は、どこにもない。
いくら頭の中で否定しても、それが口をついて出ることはない。
つまりそれは、宇春自身がそれを認めているということだ。間違いなく、囚われたままだということだ。
その事実に気づいた瞬間、宇春は心の底から絶望した。
放心状態の宇春を見て、国良は肩をすくめる。
「過去は意外と、まとわりつくものなんですよねぇ。特に兎族は、アレですから。――言っておきますけど、あの人が僕たちのことを信じて認めてくれることなんて、これから先絶対にありませんよ?」
宇春は、漆黒のまなこを持ち上げた。
黒に沈んだ瞳が、国良の姿を写す。彼は人形のようになってしまった兎姫に向けて、困った顔をした。
「頑張ったとしても、認めてなんてもらえないんですよ。そしてそのことに囚われ続けていても、僕らは前に進めません。だから僕は、陛下にすべてを委ねることにしたんです。あの方は、こんな矮小で下賤な僕を認めてくれた。褒めてくれたんです。だから僕は、あの方だけに仕えることにしました」
この男は。
この、国良という兎族は。
どこまで言っても宇春に似ているのだと、改めて思い知らされた。それが憎らしく、悔しくもある。
そう。宇春は、誰かに……できることなら父親に、認めてもらいたかっただけだったのだ。
そんなこと、一度だってなかったのだけれど。
自分の愚かしさを鼻で笑いながら、宇春は言う。
「……つまり、執着する相手を変えろ、と? そういう意味ですか?」
「そうなりますね。なんせ僕らは、そういうことでしか安心感を得られない種族ですから」
宇春は押し黙った。ひどく歪んでいるが、そう言う獣族なのだ。兎族というものは。
矮小で意地汚くありながらも、誰かに認めてもらいたくて仕方がない。そして出来ることなら、そういった相手に執着して安心感を得たいと思う。
そんな感情が、忠誠心と同義なわけがない。ただ確かに、その相手が裏切らない限り絶対に裏切らないという面においては忠実であった。
そして宇春は今、その執着する相手がいないという状態にある。
まだ心のどこかで、父親に認められたいがために頑張っていたあの頃が残っているのだ。
「ほんと、嫌になっちゃいますねぇ」
そうケタケタと笑う国良だが、完全に他人事だった。それはそうだ。彼にはもう、その相手がいるのだから。
しかし忠告をしてくれた辺り、親切なのだろうとは思う。
「早くそういう相手を見つけてもらわないと、困るんですよねぇ。陛下の邪魔になりますし」
「……兎族らしい、とても模範的な回答でした」
「え? 何がです?」
訂正しよう。親切などとは口が裂けても言えない。
宇春は強く手を握り締めた。
認めてもらおうとする相手を。
褒めてもらおうと努力する相手を、変えろ。
つまりはそういうことだろう。そして今の宇春には、その相手というものに心当たりがあった。というより、彼女の中ではひとりしかいない。
されど、それを口にすることはためらわれた。
そんなことを思いながら、宇春は席を立つ。
「忠告ありがとうございました。それでは、わたしはこれで失礼させていただきます」
「はい。それでは、また明日」
満面の笑みを浮かべて見送ってくる影に、わずかばかりイラっときた。
それをおくびも出さず、宇春は部屋を出る。そして彼女は侍女を連れて、廊下を歩き出した。
その道中で、宇春はある部屋の前へと向かう。それは、瑞英がいる部屋だ。その前で少しばかり佇んだ宇春は、亜麻色の髪をなびかせながら今度こそ部屋へと戻る。
満天の夜空には、こぼれ落ちそうなほど太った月が、煌々ときらめいていた――




