9.道化
瑞英と宇春、そして医官である国良を交えたやり取りが終わってから、数刻後。
雅文は自身の執務室に、国良を呼び出していた。
椅子に深く腰掛け両手を組み、卓の上で頬杖をついている。その様は誰がどう見ても機嫌が悪かった。その視線だけで、ひとりやふたり楽に殺せる。
部屋全体もひりつくような覇気が充満し、呼吸をすることさえ躊躇う有様であった。
傍らに佇む幸倪は、そのことにハラハラしつつも何も言えなかった。事態が事態であったからだ。
そうこうしているうちに扉が叩かれ、国良が入ってくる。見た目だけなら愛らしい顔立ちをした兎族の男は、満面の笑みを浮かべたまま雅文の前まで歩いてきた。
「何かご用でしょうか、陛下」
そう言った瞬間、パキンッと音がする。雅文の口から、白い吐息が漏れ出ていた。
見れば辺り一帯が、薄っすらと氷で覆われている。雅文の力によるものだ。この力こそ、彼が『氷王』と呼ばれる所以である。部屋にあるものは全て凍りつき、白く染まっている。
執務室のみに広がる冬景色。
しかしそんな中でも国良は、笑ったままだった。
それが、雅文の癪に障る。
彼は低い声で告げた。
「ここに呼ばれた理由が、分からないのか?」
「寵妃様のことですか?」
「当たり前だ」
わざと空とぼける国良に、雅文は苛立たしげに告げる。
「お前はわたしにこう言ったな。「妃方の見聞を広めるためにも、彼女らに同行していただくというのはどうでしょう?」と。わたしはその考えに賛同し、許可を出した。違うか?」
「ええ、そうですね。その通りです我が君」
「にもかかわらず、お前は彼女たちに何を言った!!」
バンッ! と勢い良く卓を叩き立ち上がれば、それは真っ二つに割れた。しかし雅文の怒りはおさまらない。
「病を治せ、その原因を追究しろ? それは医官の仕事だ! 妃がやるようなことではない!」
「そうですね」
「しかも、瑞英のせいで過激派の活動が活発化した? 話を盛りすぎだ。奴らは鳥族さえ絡めば、昔からなんだってしていた。此度の件とてその一環だろう。決して彼女のせいではない」
「しかし陛下。過激派ばかりが、陛下の敵ではないのですよ?」
その言葉に、雅文は眉をひそめた。
国良は、薄っぺらい笑みを貼り付けたまま言う。
「彼女の存在により、陛下への不信感を覚えた者は確かにいます。そしてそういう奴らは、自分が別の派閥に属していることを表明はしない。陛下。我ら弱者はあなた方竜族とは違い、臆病でずる賢くまた強かなのです」
「どういう意味だ」
「そのままの意味です。今の竜宮はあなた様が思っているほど、統制がとれていないのですよ」
雅文と幸倪がともに怪訝な顔をする中、国良は少しばかり大袈裟な仕草で言葉を紡いだ。
「僕がそういう連中のひとりならば、彼女を真っ先に狙いますね。なんせ、あなた様の最愛であり弱点なのですから。溜まっていた不満をぶつけるきっかけは、なんでもいいんです。必要なのは、大義名分。そうですね、あなた様が妃にうつつを抜かしている、愚王だ。そして妃もそれに甘えている。そんな悪い噂が広まり信ぴょう性が高まれば、それが本当になる。そこに真実などいらないのですよ。――我らの全てが、自領が嫌で抜け出してきた者ばかりだと思わないでください」
国良は珍しく真面目な顔をして、髪についた霜を払った。
「ここは実力者至上主義の社会です。そして再拐の役という不測の事態が起きたことにより、竜宮は少し乱れています。弱っているところをつくのが一番効率的だと考えるのは、弱者にとっては普通なんですよ。そんな状態で悠長に妃教育などしていられません。それに昔からこの国では、妃であろうとなかろうと自身の能力を最大限発揮できる行動をおこなってきた。違いますか? 陛下」
雅文は押し黙る。そう、違わない。ここではどんな立ち位置にいる者であろうとも、自分の能力を最大限生かせる行動をしなければ生きていけないのだ。
今までとてそうである。兎族の妃が残したのは、その知識だ。薬学の知識。多種多様の種族がはびこる場にもかかわらず治療が難なくおこなわれているのは、彼女たちの功績であった。
しかし、そうだとしても。いくらなんでも乱暴すぎる。
雅文は拳をきつく握り締め、絞り出すような声をあげた。
「だとしても。危険だ」
「お言葉ですが陛下。今は竜宮の中にいる方が危険だと思いますよ」
「……どういうことだ」
「どういうことも何も。ここはいつ何時戦場になっても、おかしくないのですよ。内通者の件で、皆ピリピリしているのです。僕が内通者なら、そこで火を放ちますね。「穏健派から鳥族の間者が出た」という火を。そして内乱を起こす。内部分裂が起きてくれるなら僥倖。そこに鳥族がくれば、竜族領はあっけなく落ちます」
国良の口からぽろぽろと、言葉がこぼれていく。普段ならばそのようなもの一蹴していただろう。しかし現状を鑑みると、あり得ないとは言えなくなっていた。
「それに鼠妃様は、より多くの体験したほうがいい。あの方に足りないのは経験です。僕らが当たり前のように持つはずのそれが、圧倒的に足りていないのです。彼女は鼠族内でとても大切に、守られて育ってきたのでしょうね」
国良は妙に引っかかる言い方をして、笑った。雅文は瞳をすがめる。
「瑞英がどうしたというのだ」
「……そうですか。陛下は、おかしいと感じなかったのですね。それは残念」
いや、強者であるあなた方に、そんなこと分かるわけないか。
最後のほうはほとんど、独り言に近い。
しかし、なんとも含みのある言い方だった。
問いただそうとする雅文から逃れるように、国良は薄っぺらい笑みを浮かべた。
「すみません、確証がないので、口にできません」
「……お前は」
雅文は思わず、国良の首を掴む。兎族の細い首は、片手があれば楽に落ちるほど華奢であった。
その手を伝い、冷気が漏れ移る。国良の首筋辺りが、血の気をなくしていくのが見て取れた。
――しかし当の国良は、笑顔のままだ。こちらの怖気が湧くような、そんな笑顔のままだった。
「なんでしょう、陛下。あ、僕のこと、殺したくなってしまいましたか? あなた様が望むのであれば、この場で手を下してくださっても構いませんよ?」
彼はそんなことを、ケラケラと笑いながら言った。しかし目は本気だ。
いつ死んでも構わないと。否。雅文の手で殺されるというのであれば構わないと。そう、心の底から思っているのだ。
竜族ではあり得ない、狂った感覚の持ち主だ。
しかしこの男は。
国良は。昔からこういう男であった。
似非くさい笑顔も、人を煽るような口調も。すべてがすべてここに来たときのまま。しかしそれがすべて兎族領にいたときに身についたものだということを、雅文は知っていた。彼自身が話したからだ。
自分の身の上話をしたときの国良は、ひどく冷めていて。
誰も彼もが駒にしか見えないと。
兎族領に住む者は皆そうなのだと、どこかたがが外れているのだと。そう語っていた。
唯一駒に見えないのが、雅文であるらしい。
雅文には国良が、自分のどこを見てそう思ったのか分からなかった。それはそうだ。国良自身が言わないのだから。
彼は未だに、道化のままだ。道化は、ただひたすらに笑っている。それだけ。
ゆえに国良は、どんな場面においても笑みを崩さない。
「僕は、彼女が陛下の役に立つと思ったからこそ、外に出て経験を積んだ方がいいと思いました。ついでに信頼を勝ち取ることができれば万々歳。儲けものですよ」
「……国良。いい加減言葉を慎め。お前の口はどうしてそう軽いんだ」
「これはこれは太尉殿。申し訳ありません。生まれつき口が悪いのです。ご容赦を」
幸倪は、怒りを通り越して呆れていた。確かに気が高ぶっているときに聞くと怒りを助長する話し方だが、彼にとってはそれがいつも通りなのだ。
そこであ、と。国良が声をあげる。何事かと、雅文は片眉を釣り上げた。
「そういえば彼女、自分自身に関することでは怒らないのに、自分の存在が陛下の不信を煽っているって言った瞬間、すごく怒った顔をしたんですよ? 良かったですね陛下。愛されていて」
しかし、相変わらずの減らず口が出てきただけだ。雅文は深くため息を漏らした。そして投げやりに首筋から手を離す。ぱらぱらと、指先から氷の粒が落ちた。
離した首筋には痕が残っている。首を圧迫したときにできた痕と、首筋の温度が下がったことによる痕だった。国良はそれを確認すると、肩をすくめていた。
「……瑞英に何かあれば、お前を必ず殺す。いいな」
「仰せのままに、陛下」
道化師が舞台から降りるかのように。国良は深々と起拝の礼を取る。
そんな彼が去っていくのを見送った雅文は、椅子に腰掛けた。すると、部屋に暖かさが戻ってくる。
徐々にぬくもりを取り戻していく家具たちを視線の端に追いやりながら、雅文はため息を漏らした。
特別何があったわけでもないのに、とても気疲れしていた。美雨から話を聞いたときは、どうしたものかと思ったのだが。どうやら一応考えはあるらしい。瑞英を煽るのを兼ねて、誇大した言い方をしたようだ。それがいけないのだが、何か言う気も起きなかった。言ったところで、反省などしない。
あれでも一応、重宝している官吏のひとりなのだ。口が悪く腹黒い部分が最大の欠点だが、頭も良く回るし細かいことにも気づく。彼があそこまで言うのだから、竜宮は想像以上に危ない状態にあるのだろう。そう察せられるくらいには、長い付き合いだった。
そんなこともあり、殺すのは惜しい。しかし瑞英に関してのことは、未だに納得できていなかった。
瑞英に、会いたい。
しかし、どのような顔をして会いに行けばいいのか分からない。
竜宮内にいたら危険。
だが、手の届く範囲にいて欲しい。
様々な感情がせめぎ合い、混ざっていく。
雅文は目元を覆った。
「ままならないものだな……」
そうぼやけば、幸倪は目を伏せる。彼も彼なりに、思うところがあったのだろう。
政治と私情。どちらかを優先させれば、どちらかが軋むのだ。今軋んでいるのは間違いなく、瑞英だ。彼女はやはり、見つけるべきではなかったのだ。
「会いに行けば、よろしいのではないでしょうか」
しかしそんな雅文に、幸倪はそう告げる。雅文は少なからず驚いていた。
そんな自身の主に、幸倪は優しく笑いかける。
「ここは、あなた様の領地です。そして後宮は、あなた様の庭。好きに出入りして何がいけないのでしょう?」
「……それは」
「それに雅文様。今会わねば、何も言えぬまま終わってしまいますよ? ――後からでは、遅いのです」
雅文の背中を押すように。幸倪は言う。
後からでは遅い。
そう。言うならば今しかなかった。
彼は弾かれたように立ち上がり、部屋を出て行く。
幸倪はそんな、主であり親友でもある彼の背中を見送ってからつぶやいた。
「さて……この壊れた卓を変えないといけませんね」
最近何かと、ものが壊れることが多いなぁ、と思いつつ。
幸倪は部屋の片付けを始めた。




