8.招集
謹慎と閉鎖が明けたのは、それから二日後。珍しく、青空が覗いた清々しい日であった。草木が匂い立ち、緑が深まる。そんな、初夏らしい日だ。
それと同時に、瑞英は竜宮内の一室に呼び出された。呼び出してきたのは宦官だ。
何事かと、瑞英は思う。
しかし美雨はその意味が分かったらしく、その柳眉を歪めた。
「美雨、どうしたの?」
「……いえ。おそらく、面倒臭いことになるだろうと思いまして」
面倒臭いこと、とは一体全体どういうことなのだろうか。されどあの美雨が「面倒臭い」と断言するほどなのだから、それ相応のことなのだろう、と思う。しかし彼女は定かでないことを口にしたりはしなかった。
(面倒臭いこと、ねえ……)
嫌だなぁ、と思う。
念のために侍女を全員連れて行った瑞英は、一番乗りで部屋の中に入った。
呼んだ者どころか人が誰もいないため、暇である。そのため部屋の内装をしげしげと眺めた。
竜宮の内装は、その外壁に合わせて青色に揃えられていた。
青は竜王の色でもある。つまり、そういうことであろう。
飾りっ気はないが品の良い調度品が並び、ところどころに美しい銀細工が散りばめられている。椅子が五つあり、一対二の割合で、卓を挟んで向き合っていた。
その時点でなんとなく、予想がついた。が、実際どうなるのか分からなかったため口には出さないでおく。
ただ自分が座るべきなのはこの、二つに並んでいるほうなのだろうなーと思い、そちらに腰かけた。
改めてぐるりと見回し、さすが竜宮だなと思う。瑞英は、書庫以外で竜宮の室内に入ったことがない。そのためとても新鮮であった。
そんな風に観察を続けていると、兎姫が侍女を連れて入ってきた。瑞英の予感が的中する。
(ああ。これは確かに面倒臭いな)
宇春は瑞英の存在を認めると、目を瞬かせる。
「瑞英様も、こちらに?」
「はい。宇春様も、こちらに来るように言われたのですか?」
「はい。……ということは、陛下の妃という立場として何かあるということですね」
瑞英は無言で肯定する。そう。おそらくふたりは、妃としての仕事を行うために呼ばれたのだ。
ふたりは揃って椅子に腰掛けた。後にやってくるであろう誰かを待つのだ。
ふたりの間に、さしたる会話はない。なんとなく、口を開くのをためらったのだ。
(刑部尚書のあの態度を見る限りだと、不当な扱いも受けてないはずだし)
ただ、なんとなく気まずい。そのため沈黙が痛かった。
そんな微妙な空気の中少し経つと、扉が開かれる。
入ってきたのは、兎族の官吏と竜族の官吏だった。
柔らかな茶色の髪に、同色の耳がピンっと立っている。風貌はどちらかというと可愛らしく、体も小柄だ。髪さえ長ければ少女にも見えた。
しかしそれを見たとき、隣に座る宇春が一瞬震えたのが見えた。
(そうか……兎族の男性全般がダメなのか)
彼女の過去をなんとなく聞かされていた瑞英は、どうしたものかと眉を寄せる。しかし本人が何も言わないため、口にすることはためらわれた。ここでそれを言ってしまうと、彼女の沽券にも関わる。
瑞英は結局、何も言えなかった。
そんな事情などつゆ知らず、兎族の官吏はニコリと笑う。そして椅子の前まで歩くと、緩やかに頭を下げた。続いて、椅子の後ろに佇む竜族の官吏も、そっと頭を下げる。
「はじめまして、妃の皆様。僕は竜宮にて医官をやっている、国良と言います。そして彼が、今回の件で護衛を引き受けてくれることになった、武官の永福です」
「……はじめまして」
「……は、じめまして」
瑞英と宇春がそれぞれ、無難な言葉を返した。そして作法通りの会釈をする。宇春の声は少し硬かったものの、緊張しているのであれば当然、といった程度の違和感であった。
瑞英は、先ほどは注視していなかった竜族の武官・永福を見つめる。
竜族らしく、若草色の髪は長い。柔らかく波打つそれを首筋辺りでひとくくりにしていた。
瞳は深緑色だ。しかし大きい上に垂れ目なせいか、今まで見たどの竜族よりも柔和に見える。
武官であり竜族でもあるのに、おかしな話だ。そう思い、瑞英は警戒を強めた。
それは、気の抜けた笑顔を浮かべる医官とて同じ。
『獣人は決して、見た目で判断してはならない』
瑞英の頭にはそんな母の教えが、しっかりと刻み込まれていた。
国良への恐怖を拭えずにいる宇春に代わり、瑞英が口を開く。
「ところでこれは、どういった集まりでなのでしょうか?」
「はい。まぁ簡単に言うなら、していただきたい仕事ができた、と言った感じですね」
読み通りの展開に、瑞英は頭を働かせる。
そして国良が発する言葉の一言一句を聞き間違えないように、意識を集中させた。
そんな瑞英に向けて、明るい、まただらしないとも取れる笑みを浮かべた国良は言う。
「今回お二方にしていただくのは、今竜族領で密かに問題となっている、原因不明の病を突き止めるということです」
瑞英の思考が一瞬停止した。
しかしすぐに戻ってきた彼女は、言われた言葉を反復し愕然とする。
(そんなもの、妃がやるべき仕事じゃないでしょう!?)
医官がやるべき仕事だ。
薬学の心得がある宇春はともかく、瑞英などいても邪魔にしかならない。知識も経験も乏しいからだ。そんな重大な事項を任せるなど、正気の沙汰とは思えない。
そう言おうと思い口を開いたが、国良はそれすら許さないと言いたげに言葉をかぶせてきた。
「今回の件を成功させれば、お二方の竜宮での地位は確立することでしょう。特に鼠妃様は、さしたる前歴もないままこちらに上がってきた上に、陛下の番であられると言う。周囲からの反感が少なからずあるということは、ご自身も分かっているでしょう?」
「……そうですね」
そう。その通りだ。何も間違っていない。
にもかかわらずこんなにも腹が立つのは、この男の口調のせいなのだろうか。
瑞英は胃の辺りがムカムカするのを感じながら、笑顔で肯定する。
国良は、やれやれと言ったように肩をすくめ、首を横に振った。
「それに伴い、陛下ご自身の立場も危うくなっています。「こんな役に立たない、しかも最弱と有名な妃を持つ者が竜王で良いのか」。そういった風潮が、特に過激派の辺りから強くなってきているんです。――これは一体、誰のせいなんですかね?」
「それは……っ」
国良が先ほど明言していた通り、瑞英が悪いのだ。
そう、他ならぬ自分が、雅文の評価を下げている。
そのことに初めて気づいた瑞英は、手のひらを強く握り締めた。
しかしそれと同時に、憤りを覚える。目の前が黒く染まり、思考が真っ白になる。怒りのあまり、何がなんだか分からなくなっていた。
(雅文様は今まで、あれほどのことをしてきたじゃないか)
今の竜族領があるのは、そして今まで、さしたる大きな戦争もなく各領地が平和的に過ごせていたのは、他ならぬ雅文のお陰だ。彼はそのようにして、今の地位と名声を築きあげてきたのだから。
(それが、たったひとりの、取るに足らない妃のせいで崩壊する?)
その、なんと脆くなんと儚いことか。壊れるのはいつだって一瞬だ。
築きあげるのにかかる労力は、その倍以上かかるのに。
何より我慢ならないのは、その根幹にいるのが瑞英自身だということだ。
自分の存在が、雅文の邪魔になっているのだ。それは瑞英が一番恐れていた事態であった。
(わたしのせいで、雅文様の立場が危うくなっているというのなら。それならば、わたし自身がどうにかしなきゃいけない)
瑞英はもう、守られてばかりいるか弱い乙女ではないのだ。
雅文が暴走し、それを止めに入ったとき。瑞英は逃げることも、流されることもやめると決意した。
瑞英はようやく、一歩前に出る。
そして、俯いていた顔を持ち上げた。
顔を持ち上げてから気づく。
(ああ、わたし……今まで、下を向いて歩いてたんだ)
前を向いた瞬間、今までとはまるで違う光景が視界に広がった。
自分だけの世界に浸っていた頃とは違い、何もかもがまばゆく見える。しばらくはまだ、目が痛むことだろう。しかしそれは確かに、一歩進んだ瞬間であった。
国良と目を合わせた瑞英は、はっきりとした口調で言う。
「陛下の地位を揺るがす要因となっているのは、他ならぬわたしです。陛下の優しさに甘え続けた、わたしが悪いのです」
そんな瑞英に驚いたのか、宇春がかすれた声で名前を呼ぶのが聞こえた。
しかし瑞英は決して、国良から視線を逸らすことはしない。そんな彼女を、国良は楽しそうに見つめていた。
「ええ、そうです。他にも要因はあったにせよ、それに火種をつけたのはあなたですよ、鼠妃様。お陰で、勢い付いた過激派たちが大きな顔をしていて、現在竜宮内はとても不安定です」
その口調には「ほんと、誰のせいでこうなったのやら」と言った嫌味がこれでもかと込められている。
その言い方に、表情が引きつるのを感じた。瑞英の癪に障る部分を、的確についてくる言動だ。
(こいつ絶対に医官じゃない)
むしろ、こんな医官いてたまるか。患者の容態が逆に悪くなりそうだ。
本音がこぼれそうになるのをなんとか堪えつつ、瑞英は言った。言ってやった。
「此度の件、わたしたちが解決しましょう。ええ、あなたの思惑どおり!」
瞬間、国良がとても愉快そうに笑ったのだ。性格の悪いやつがする、意地の悪い笑顔だった。
そう。瑞英の家族を思い起こさせるような、そんな笑み。
嫌でもやる気が湧いてくる。
(この男、絶対に負かしてやる)
そして、地べたに這いつくばらせて土下座させるのだ。いつか絶対にやってやる。
その瞬間瑞英の、竜族表での最大の目標は『国良をうち負かすこと』になった。
内心怒り狂う瑞英の心にさらに油を注ぐかのように、国良は飄々と言ってのける。
「良い結果になるといいですね――竜王陛下の寵妃様?」
ぷちっ。
瑞英の中で、何かが切れる音がした。
あおられているのが分かるからこそ、心底腹立たしい。
喧嘩上等だ。売られた喧嘩は買う主義なのだ。それが瑞英でもできる土台ならなおさら。
「良い結果にしてみせますとも。雅文様の名誉を回復させるためにもね!」
それはまさしく、売り言葉に買い言葉であった。周りが口を挟む機会を掴めずぽかんと見つめる中、瑞英と国良の周りだけ火花が散っていた。
そんな状態で、彼らの顔合わせは終わる。
こうして件の病が広まる竜族領に出向くことになったのは、なんとも言えず珍妙でちぐはぐな面子であった。
顔合わせが終わってから出立のそのときまで、瑞英が書庫にある薬学書、医学書を片っ端から読み進めていたというのは、また別の話である――




