7.聴取
刑部尚書が瑞英のもとに来たのは、謹慎を命じられた次の日であった。彼女が直々にきたのは、妃に対する敬意と確実性を求めてのことだろう。
寝室の卓に向かい勉学に励んでいた瑞英は、筆などの片付けを侍女たちに頼み美紫のもとへ向かう。今回は聴取である。侍女は連れていけないのだ。否が応でも気が高まるのが分かった。
すでに客間として使っている部屋に通されていた美紫は、瑞英が入ってくると直ぐに立ち上がり簡略された起拝の礼をとる。
一対一のやり取りだ。
一度大きく息を吸い込んだ瑞英は、頭を上げるように促すと席に着いた。
続いて美紫も座る。そして、被っていた面紗を取り去った。
覗いたのは、想像以上に整ったかんばせと糸のように細くなった金色の瞳だ。瞳孔も細く尖り、よりいっそう威圧感を帯びている。瞳が見えるだけで、凄みが増したのだ。
それは、蛇族特有の目である。この目があるからこそ、彼らは他の獣族から恐れられていた。
『蛇族の瞳は、真実を見抜く。嘘をつけば、その心固まり灰と化す』
昔から、そんな言い伝えがあるのだ。
獣族の中にはそれぞれ、独自の特性を持つ種が一定数現れる。蛇族の特性は、その目であった。
かく言う鼠族は、その知識量である。どの一族も、その特性が強い者が頂点に立つとされていた。
そういう事情もあり思わず目にばかり視線が向いてしまうが、髪型も整っている。彼女の気質がよく現れていた。
布を被っていたというのにぴっちりとまとめられた髪には、飾り気のない簪が一本挿さっている。
瑞英がそんな風に様子をうかがっていると、彼女は早速口を開いた。
「この度はお時間をいただき、誠にありがとうございます。早速ですが、いくつか質問させていただきたく存じます。鼠妃様。狗妃様とは、どのようなお話をされるために、お会いになられていたのですか?」
「はい。かの方がいくら茶会に誘っても、ご出席なされなかったためです。わたしが口を出すのもどうかとは思いましたが、さすがに目に余りましたので」
「左様でしたか」
できる限り主観を削ぎながら、瑞英は事実を述べた。正直、平静を装うので精一杯だ。嘘なんて出てきそうにない。雅文たちにはない独特の雰囲気が、美紫にはあった。
彼女は瑞英の目を見て言う。
「その際、どのようなお話をなされたのでしょう?」
「その……お恥ずかしい話なのですが。佩芳様の本音を聞けたらと思い、とても挑発的な言葉を言いました」
「具体的な内容をお教えください。覚えている範囲で構いません」
「ええっと……「お前ごときに何がわかる」と言われましたので、わたしは分からないと言いました。さらに挑発すると、佩芳様は「なぜ自分がお前のような者を守らねばならないのだ!」とお怒りになられまして……」
「……なるほど。そういうことでしたか」
とても事務的なやりとりだ。が、美紫は決して、瑞英の精神を追い詰めようとはしなかった。口調も穏やかで、決して声を張り上げない。どうやら別に、疑っているわけではないらしい。
そのことに気づいた瑞英は、幾分か緊張が和らぐのを感じた。
(これはあくまで、確認のための事情聴取だ)
そう思う。疑いを晴らすための確認であり、はじめから疑ってかかっているわけではないのだ。
少しばかり心に余裕ができた瑞英は、さりげなく美紫を観察する。
その化粧も髪型も、袖も指先も。すべてがとても洗練されている。美雨も凜とした佇まいの美女だが、彼女には独特の落ち着きがあった。
年の功、というものだろう。瑞英たち鼠族では、決して辿り着くことのできない極致だ。
だからだろうか。ふつふつと、胸の内側から何かが湧いてくる。
(盗めるところは、盗まないと)
それはいわゆるところの、知的好奇心というものだった。年数で敵わないのであれば、何か別のもので補いたくなる。それが鼠族の本質である。
瑞英は、美紫の一挙一動に集中した。
そんな視線など気にせず、彼女は真紅の唇を開く。
「他の妃の方とは、どれくらいの頻度でお会いしているのですか?」
「三人で茶会を開いたのが、先日で五度目だったかと思います。ただ宇春様とは個人的に何度もお会いしていますし、夢花様とも食事を共にする機会が多いです。ただ佩芳様とは、二度しか会っておりません」
「後宮で、不審者を目撃したことはありますか?」
「ありません」
そう答えてから、瑞英は眉をひそめた。
(……あれ? そういえば、変な影は見たか?)
見えたのは衣の裾くらいであったが、独特な匂いがしたのだ。後宮に来てから一度も嗅いだことのない、変わった匂いである。されど実際に姿を見たわけではないため、すっかり記憶から抜け落ちていた。
美紫はその表情の違いに気づき、首を傾げた。
「どういたしましたか?」
「その……実際に姿を見たわけではないのですが、不思議な匂いを持つ方を見かけました」
「……不思議な匂い、ですか」
そのとき初めて、美紫が関心を見せた。わずかな違いだが、声音が高くなったのだ。感情を押し殺すのが上手い彼女が見せた表情の変化に、瑞英は内心ほう、と頷く。どうやら瑞英の言葉が、彼女の琴線に触れたらしい。
「どのような匂いか、覚えておりますか?」
「その……なんでしょうか。嗅いだことがない匂いでして……」
「後宮に来てから、一度もでしょうか?」
「はい。なんだかとても不思議な匂いでした。ただあれは、男の人の匂いだったと思います」
男と女でも、匂いは違う。それはどんなに香を焚きしめても変わらない。瑞英にもそれくらいは分かった。
今更ながら、もう少し関心を寄せておけば良かったと思う。
個人的にそれどころではなかったので、そのまま立ち去ってしまったのだ。
美紫は数度頷くと、再度質問を続ける。質問の内容は本当に他愛のないもので、瑞英は難なく答えていった。記憶力だけには自信がある彼女にとってそれは、さしたるものではなかったのだ。
そんなことを続けて、半刻を過ぎた辺りだろうか。質問が止まった。
美紫は脇に置いていた面紗を取り、頭にそっとかぶせる。どうやらもう見なくても良いらしい。
蛇族が何かと目元を隠すのは、その効力を抑えるためだという。見続けると疲れるゆえに、彼らは極力見ないように努めるのだ。
それを見た瑞英は「竜宮はなんというか、集まる獣人も規格外だなぁ」と思う。そういう獣人は、自領地では生きにくいのかもしれない。
そんなことを思いつつ、瑞英は口を開いた。
「お話は、これで終わりでしょうか?」
「はい。刑部尚書としての仕事は、これで終わりにございます」
その言い方に。
瑞英は首を傾げた。
(つまり……仕事は終わったけど、個人的に話したいことはあるってことかな?)
直感した通り、そういうことらしい。美紫は背筋を伸ばしたまま、瑞英に告げた。
「鼠妃様は、陛下の番であられるとお聞きいたしました」
「はい。そのようです」
先ほどなどよりもよっぽど、その態度は堅苦しい。こちらが本題であったと言われても、不思議ではなかった。
どちらかと言うと、雅文の母親を相手にしているようである。
否。現に彼女は、そのような心地でいるのだろう。瑞英は美紫の佇まいに自身の母の姿を重ね、そう思った。
「わたくしはあの方が、竜宮へいらしたときから知っております。会ってすぐ、この方は竜王になると。そう直感いたしました。それと同時に、大きな心の闇を抱えるのであろうと。ゆえにわたくしは、さしたる足しにはならないと思いながらもそばにお仕えさせていただいていたのです」
「……はい」
「そのためあの方に番が見つかったという話をお聞きした際、不覚にも安堵してしまったのです」
それは美紫の、悲痛な告白であった。
一家臣としては行き過ぎな、しかし一個人としては当然な。そんな告白。それだけ、思い入れが強いのだろう。それと同時に、雅文がどれほどまでに愛されているかを悟る。
(……雅文様は、本当に慕われているんだな)
竜族の特性がなければ、瑞英など必要とされていなかったほどに。彼は周囲の者を虜にしていた。周囲から必要とされていた。
しかし美紫の言葉は、ただの告白では終わらなかった。針のように鋭い気を感じ取り、瑞英の手に力がこもる。
「だからこそ。わたくしは、今のあなた様を認めるわけにはいかないのです」
それは、竜宮に来てから二回目となる否定であった。
しかも今回は、雅文のそばにいる期間が長い美紫からの言葉で。
自身の未熟さがより、浮き彫りになったと感じた。
(自分をすごいと思ったことは、なかったけど。さすがにこれはくるな……)
佩芳とは違いとても冷静に言ってくるというのも、瑞英の心を揺さぶる要因になっている。
瑞英は手のひらを握りこみ、深く息を吐き出した。
美紫はなおも告げる。
「陛下の唯一無二であることも、あなた様が必要であることも存じ上げております。しかし今のあなた様は、竜宮には必要ありません。それはご自身も、よく分かっていらっしゃるはず」
「……そうですね」
今の瑞英では、雅文個人を救うことはできても竜王を支える術は持ち合わせていない。周りとの交流を絶ち、自領のみにこもっていたしわ寄せがやってきたのだ。
返す言葉を探せないでいる瑞英に、美紫は緩やかに頭をさげる。
「どうかそれだけは、お忘れなきよう」
それだけ残し、美紫は去って行った。
彼女が消えた客間はよそよそしく、閑散としている。
目を閉じれば、聞こえてくるのは雨の音。
雨が土をえぐり、葉を叩き、屋根を打つ。そんな音だ。
雨は瞬く間に、見えている景色を隠してしまう。白くけぶり見えなくなっていくのを、瑞英はぼんやりと見つめていた。
普段ならば好ましく思う雨も、今日はなんとなく嫌いだ。
ぱたりぱたりと雫が伝い、視界が歪んでいく。
それからしばらく。
瑞英はただひとり、そこにいた。
***
美紫は、後宮の廊下を歩いていた。竜宮につながる道に辿り着けば、そこには刑部の官吏たちがいる。
一斉に頭をさげる彼らの横を通り抜け、美紫は後宮を後にした。
外を見れば、あいにくの雨模様だ。この季節は雨が多く、湿気も強い。美紫は、この時期があまり好きではなかった。
今日の雨は、特に嫌いだ。そんなことを思いながら、廊下を進む。
しかし途中で、ピタリと止まった。
彼女は怪訝な空気を身にまといながら、冷ややかな口調で言う。
「何かご用でしょうか」
「あはは。刑部尚書さんはほんと、つれませんねぇ」
飄々とした口調で笑う男は、柱に背中を預けながら肩をすくめていた。
茶色の髪の間からは、兎族の証である同色の耳がピンっと立っている。それは時々、本人の意思に合わせて動いていた。
見た目だけ見ればとても可愛らしい、兎族の官吏。しかし美紫は、煩わしい者に会ったとでもいうかのように不機嫌をあらわにした。
「何か、ご用でしょうか」
先ほどと同じ言葉を、先より強い口調で問う。すると男はまた笑った。他人の癪に障る行動が本当にうまいものだ、と美紫は尻尾を揺らす。
「いや、鼠族のお姫サマに会ってきたと聞いたので、感想でも聞こうかな、と。――彼女、使えそうでしょ? 少なくとも、育てたら化ける類いの人種だと思うんですよ。僕は」
不敬罪と受け止められても、なんらおかしくない失礼な言い草だ。しかしこの男を不敬罪にして困るのは雅文である。そのため、多少の失言には口をつぐむことにした。
美紫はかの姫のことを思い出し、思考する。
「確かにとても、記憶力の良い方でした。頭も良く回りますし、言わずとも言いたいことを悟ります。……ただ圧倒的に、経験が足りない」
「そう。その通り。そこさえどうにかなれば、彼女は陛下の役に立ちます」
まるで駒を扱うかのような、冷たい口調だった。されどこの男は、誰に対してもそうなのである。雅文以外の者はもの同然。彼の頭にあるのは、その獣人が雅文の役に立つか否か。それだけだ。
だからこそこの男は、今ここで笑っている。
美紫はため息を吐き出した。
そしてこの男の関心が、かの寵姫に向かっていることに対し、わずかばかり同情する。それを悟ったのか、男はヘラリと笑った。
「すべては我らの陛下のために、ですよ。刑部尚書?」
そんなこと、とうの昔から分かっている。
これ以上言葉を交わしていても意味がないと感じた美紫は、返答を述べることなく先を行く。
そう。すべては我らの、陛下のために。
そのためならば、利用できるものはなんでも利用しようではないか――
「すべては我らの、陛下のために」
まじないのような言葉を繰り返し、美紫は雨音を避けるように奥へ奥へと進んでいった。




