4.騒動
雅文に会った翌日。
瑞英はひとりで、佩芳の元にやってきていた。
外は珍しく晴れ模様を浮かべており、窓から覗く空は青い。夏に近づくに連れて雲が減り、青空がより深く色づくのだと鈴玉が楽しげに話してくれた。
湿った空気もさっぱりとし、ひんやりとした冷気が肌に触れる。緑の濃い匂いがし、瑞英は「これが夏の匂いか」と心をときめかせた。
そんな清々しい朝に瑞英が廊下を歩いているのには、理由がある。
それは言わずもがな、昨日の件であった。彼女の対応は確かに気になったが、それ以上に気になったのは彼女が瑞英個人に向けた視線だ。
(あの目には、敵意しかなかったよなあ……)
なんで嫌われたのかは分からないが、佩芳があそこまで反発する理由に、瑞英が関わっていそうな予感がする。いや、絶対に関わっていると、彼女の中には確信めいた何かがあった。
瑞英自身が嫌われるのならいくらでも構わないが、それで雅文に迷惑がかかるのだけはやめて欲しいのだ。
瑞英はここに来てから、彼のお荷物にしかなっていない。こんなにも色々なものをもらい不自由ない暮らしをさせてもらっているのにも関わらず、だ。
いくら雅文のほうが強かろうが地位が上だろうが、関係ない。瑞英はできる限り対等な位置に近づきたかった。
それに、彼に甘んじてなんの努力しないというのはいろんな意味で間違っている。
しかし夢花を連れて来たら、昨日のような状態になることは必至。されど宇春を連れて来れば、それを知った際夢花が怒るであろう。その様が容易に浮かぶ。
実に面倒臭い獣人だと思う。
結果瑞英は無難に、ひとりで向かうという選択肢を取った。
ひとり、と言っても本当の意味でのひとりではない。今回は藍藍の他に、鈴麗にまで来てもらっている。藍藍は戦闘においてのみ素晴らしい技術を発揮するし、鈴麗も強いというので何かあっても大丈夫であろうという魂胆だ。
そもそも暴力沙汰になるほうがおかしい。明らかに佩芳に非がある行為だ。もしそうなった場合、瑞英は自他共に認める弱小なため、逃げるしか方法がない。
そんなことをつらつら考えていると、佩芳のいるはずの部屋に着いた。
考え事をしすぎて、藍藍に声をかけられなければ通り過ぎそうだったが、それはご愛嬌ということにしよう。
ごくりと、唾を飲み込む。
見事に壊れている。まだ直せていないようだ。扉だったものはその横に置かれ、内側から布で覆い隠すことによってなんとか中が見えないようになっている。
頑張ったんだなぁ、と瑞英は遠い目をした。これも全部夢花のせいだ。わざわざ壊すこともなかったのに、壊したのがいけない。
そんなしょうもないことを考えながら彼女は、枠の横を叩き「すみません」と声をあげた。少しの間を置き、二枚の布の切れ目が開かれた。
出てきたのは、昨日夢花の侍女に足止めされていた不憫な侍女である。
彼女は瑞英の顔を見ると、露骨に顔を歪めた。
(うっわぁ……すごく嫌われてる)
主に嫌われているということは、それに付き従う侍女にも嫌われているだろうとは思っていたが、ここまでとは。瑞英としては苦笑いする他ない。
取り繕うために笑顔を浮かべた瑞英に、狗姫の侍女は低い声で告げた。
「いかようでしょう」
威嚇するような、低い声だ。顔が怖い。
が、本気で切れた母親より怖くはないし、鳥族に向けられた殺気に比べたら雲泥の差があるほど可愛らしい敵意だったので、さらっと流すことにする。
「佩芳様はいらっしゃいますか?」
思った反応と違ったため、驚いたのだろう。侍女が一度瞠目する。それを観察しつつ、瑞英は返答を待った。
上から威圧的な視線が降り注ぐが、お構いなしだ。我ながら肝が据わってるなぁ、と感心する瑞英を余所に、侍女は首を横に振った。
「我が君はいらっしゃいません。おかえりくださいませ」
「そうですか……おかしいですね。こんな時間にどちらへ行ったのでしょう」
そう。瑞英がやってきたのは、皆の朝食が済んだであろう時間帯である。こんな朝っぱらから外出するなど、普通はあり得ない。
ましてやここは後宮だ。外出する機会すら少ない。
瑞英はにっこりと笑った。
「陛下というお方がいらっしゃるにも関わらず、逢い引きでしょうか?」
「なっ……!!」
侍女が口をわななかせ絶句する。しかし瑞英は内心したり顔を浮かべていた。
(やっぱり狗族の侍女は、主の侮辱を怒るよね)
されど本当に聞かせたいのはそちらではない。侍女よりも気位が高いであろう、狗姫自身にだ。
「もしそれが本当ならば、由々しき事態ですね」
「たかが鼠族ごときが、我が君を侮辱するな!!」
「たかが鼠族で結構。自らの非力さは昔からわきまえています。ですがその鼠族にすら劣っているのが、今の佩芳様ではないのですか? ここでの地位を自ら危うくしている。そして、それは陛下の評価にも繋がります。そのような方が取る行動に、一体どのような力があるのでしょう。……良かったら教えてくれませんか?」
少し大きめな声で、なおかつ嫌味ったらしい口調で。瑞英はそう言う。すると侍女は眉をひそめ大きなシワを作ったものの、口をつぐんでしまった。
そんなとき、中から声がする。
『…………入れて差し上げろ』
その声はまさしく、佩芳のもので。
瑞英は後ろを振り返り、笑顔を浮かべる。
そこには「さすが瑞英様!」と拳を握り締める藍藍と、戸惑い顔の鈴麗が佇んでいた。
藍藍は長年の付き合いゆえ分かっているが、瑞英は意外と負けず嫌いで、なおかつ口喧嘩では勝つことが多かった。それは家族の多さが影響している。
(鼠族は力で弱い分口で喧嘩するから、自然と強くなるんだよね。……あとお母様が「怪我すると人手が減るから、やるなら口でやりなさい」って言ったのも影響してるな、つん)
瑞英はそれを思い出し、心の中で合掌する。まさか母親も、こんなところで役立つとは思うまい。教育方針の賜物だ。
特に今回のような状況だと、それはさらに効力を発揮する。
(佩芳様は格下の相手に卑下にされたら、絶対に出てくると思ってたんだよね)
この後どうなるかは基本考えてないが、会わないことには話にならない。危うげな橋であることは知りつつも、瑞英はそこを渡ったわけだ。
大して歓迎されないまま入れば、部屋の中央に佩芳がいる。
彼女は円卓に置かれた紙に向かいながら、声だけをこちらに向けた。
「わたしにいかようがあって、あのような言葉を言ったのだろうか」
「いかようも何も、先ほどの言葉通り何をしていらっしゃるのかな、と思いまして。部屋に閉じこもって、何をお待ちですか?」
ピリッと、肌に殺気が刺さる。
後ろで藍藍が動いたような気がしたが、気を回している暇はなかった。
ことりと、筆が置かれる。
「お前ごときに何が分かる」
「何が、と言いますと?」
「お前ごときに、わたしの気持ちの何が……!」
「分かりませんよ」
そんなこと、言ってもらわないと分からない。しかも彼女とは、ほぼ初対面なのだ。
(不満があるなら、ぶつければいいじゃないか)
不満の原因が瑞英自身にあるなら、彼女にはそれを吐き出す権利がある。
というより瑞英は、喧嘩というものはそう言うものだと思っている。口喧嘩において手加減する必要はない。思う存分ぶつけて殴り合うものだと。
「言ってもらわなくては分かりません。わたしに対して不満があるなら、どうぞ」
胸に手を当てて、不敵に笑う。久々にこんな状態になっている気がする。というより竜宮に来てからは静かでいることのほうが多かったので、そんな機会がなかったというべきだろうか。
夢花と口喧嘩なんてしたら面倒臭いことになるのは目に見えているので、一度たりともしたことがないし、宇春に関しては言わずもがな。
(いや、だからって佩芳様とそんなことになるとは思ってなかったけどね)
思っていた以上に自分が冷静なことに気づき、少し安堵する。余裕は十分だ。物理的な喧嘩にならないことだけを祈りつつ、瑞英は言葉を重ねる。
「それとも、言えないのですか? 狗族の方はそんなにも矮小でしたか?」
瞬間、佩芳の口元が震えた。かなりの怒りが溜まっていることが見て取れる。
瑞英はそろそろ来るかな、と思った。そのためひとつ深い呼吸をし、首をかしげる。
佩芳の怒声が響いたのは、それからだった。
「わたしは!!」
喉の奥から張り出すような、そんな声。
怒りが滲んだ真紅の瞳を真っ直ぐ見つめると、睨み返される。
「何故! 何故お前が、あの方の番なのだ!! 何故わたしは、お前を守らねばならない! 大した力もないお前を! 今まで外交に関してなんの努力もしていないお前を!! 何故っ!!」
瑞英は目を瞬かせた。
(えーっと、つまり。佩芳様はわたしが雅文様の番であることが許せない……?)
そこに関しては、瑞英は何も言えないため口をつぐんでおこう。そこは本当に偶然だったのだ。瑞英どころか雅文自身も予想していなかった。周りは当然のこと寝耳に水だ。
そしてぽっと出の姫がちやほやされているのに腹が立つ理由も、まぁ分かる。自分のことだから強く言えないが、そりゃあ苛立つだろう。今までの自分の努力が評価されず、たまたま居合わせた弱小一族が竜王の番であった。それだけの理由で、ここまで高等な待遇を受けているのだから。
だが、それ以外が分からない。
(佩芳様が、わたしを守らなくてはならない?)
一体全体どういうことだろうか。
守る守らないは個人の心情に基づくものであろう。つまり、彼女の意志が違うのであれば守らなくて良い。ましてや佩芳は姫だ。そんなことをしなくても良いはず。
何がなんだか分からない。さすがの瑞英も混乱する。
どういう意味かを聞こうとした矢先、外が騒がしくなった。
それを耳聡く聞き取った瑞英は、眉をひそめる。
(かなり多い? しかも、全員男の人のものだ)
歩幅が広く、独特の重い音を響かせるそれは男のものだ。
ますます分からない。この後宮という施設は、雅文の庭のようなものだ。つまり、他の男が土足で入り込めない。入れるのは性別を持たない宦官くらいなものなのだ。にも関わらず男が入ってくるとなると、それは相応の理由がある。
瑞英が後ろを向くと、佩芳は眉を寄せた。しかし直ぐに外の音を聞き取り、目を見開く。
足音は迫ってくる。瑞英の緊張が膨れ上がった。
布が乱雑に取り払われたのは、そんなときだ。
布を止めていたものが悲鳴をあげ弾け飛ぶ。
土足で入り込んできたのは、竜族の男たちであった。彼らは絡む布を鬱陶しげに払い、床に捨てた。
藍藍と鈴麗が、素早く瑞英を庇う。
「何者だっ!!」
佩芳が鋭い声で叫ぶ。
その声を聞き口を開いたのは、おそらくこの集団の中心人物であろう赤い髪の男であった。
男は腕を組み、大仰な態度のまま高圧的に言い放つ。
「狗族の姫。お前に間者の疑いがかかっている。――大人しくついてきてもらおうか」




