3.夕餉
気持ちに整理がつかないまま部屋に戻った瑞英は、私室の卓に向かいながら自主勉強をしていた。書庫から持ってきたたくさんの書物を広げ、読み込む。
ひと通り読み終えると、気になった文面を書き出し白紙の紙を黒く埋めていった。
学んでいることは、雅文が竜王になってから行われた政策や外交、その他諸々の功績についてだ。
(雅文様……こんなすごいことしてきたんだ)
紙に書き出して、瑞英はあらためて息を吐く。ここ数百年竜族領の治世が安定していたのは、間違いなく雅文のお陰だ。
「へえ……今の政治体制にしたのも、雅文様なんだ」
現在の竜宮の役職は、三公一省六部制に則って進められている。
三公とは、竜王陛下が最も信頼を置く官に送られる称号だ。丞相と呼ばれる宰相職、太尉と呼ばれる軍事職、そして最後に御史大夫と呼ばれる監察職である。これらは必ず付いていなければならない職種でない。現在は太尉として幸倪、そして御史大夫が付いているようだ。
一省とは中書省と呼ばれる、文書詔勅を作成する省のこと。
六部が、吏部、戸部、礼部、兵部、刑部、工部の六つから構成される官庁のことである。
これはもともとあった三省を一省に統括した、という点で優秀なのだという。
無駄を徹底的に削ぐその姿勢は、まさしく雅文だ。彼が竜王になってから、官の数が激減したのだという。そして彼は、他領からの官を増やした。それが一番の功績だろう。
「反発もあったんだろうなぁ……」
特に竜族領には、好戦的な者が多い。だからこそ、様々なことがあったんだと思う。それを抑え込んでいるのだから、雅文は相当慕われているのだろう。過激派が大きな顔をできないのも、彼という存在がいることが大きい。
紙を眺めていると、いつの間に部屋にいたのだろう。藍藍が困ったように、瑞英の背後で立ち尽くしている。
「あ、あのぅ……瑞英様?」
「え、あ、え!?」
「もう、夕餉の時間ですよ」
「え、本当!?」
瑞英が慌てて立ち上がると、確かに部屋が暗い。真っ暗だ。なぜ今まで気づかなかったのか不思議なくらい、そこには光がなかった。
どうやら思考を沈め過ぎたあまり、周りさえ見えなくなっていたらしい。
瑞英は、猛烈に反省する。本日二回目の反省となった。
藍藍がほっとしたように息を吐き部屋の明かりを入れる。そしてにこっと笑った。
「瑞英様。今日は陛下と夕餉をご一緒するそうですよ」
「…………へっ?」
藍藍のその言葉に。
瑞英は翡翠色の瞳を丸くし、椅子から転げ落ちた。
「お、お待たせしてしまいすみません……」
震え声とともに私室から出てきた瑞英は、周りからの生ぬるい視線をこらえながら雅文に頭を下げた。
一方の雅文は、首をかしげてこちらを向いている。
「いや、わたしのほうこそ、唐突に来てすまなかった。……ところで大きな音がしたようだが、大事はないのか?」
「な、ないです!」
瑞英は顔を真っ赤にして、首を勢い良く横に振る。
(やっぱりっ! やっぱり聞かれてたっ!!)
驚きのあまり椅子から落ちるなど、阿呆すぎる。しかもそれを雅文に聞かれていたなど、恥ずかし過ぎた。穴があったら埋まりたい、と切実に思う。
されど雅文は気にしていないらしく、長椅子に座り寛いでいる。
空いているのは、その隣りだけ。
周りで控えている侍女に視線を向けると、とても良い笑顔を浮かべていた。
視線だけで、「瑞英様のお席は陛下の隣りしかありませんよね?」と言われているようである。
(この状況を絶対に楽しんでるっ……!)
眼差しがとても優しいのだ。慈愛に満ちている。子供扱いされているようで納得いかないが、いつまでも立っているわけにはいかなかった。そのため瑞英は渋々、雅文の隣りに腰掛ける。
卓には、たくさんの料理が並んでいた。雅文もいるということで肉料理が多い。しかしいつもとは違う雰囲気に、瑞英は首を傾げた。
すると美雨が、嬉々とした様子で口を開く。
「此度は陛下もいらっしゃるとのことでしたので、温かい料理をお二人で食べてもらうべく、僭越ながらわたくしが調理させていただきました」
「これ全部、美雨が?」
「左様にございます」
「昔に比べて上達したな、美雨。昔は加減が分からず、食材をよく燃やしていた」
「……昔の話です、陛下」
バツが悪そうに、美雨が視線を逸らす。その頬はわずかに赤い。そんな美雨を見て、瑞英は驚いた。
まさか美雨に、そんな短所があったとは。
ただなぜか、胸がもやっとする。その感情がなんなのか、瑞英には分からなかった。ただおそらく、良い感情ではない気がする。
しかしそれもほんの一瞬。雅文が瑞英に声をかけた瞬間、霧散してしまった。
「瑞英、食べないのか?」
「え……あ、はい。食べます!」
そう言うと、雅文が小皿に数品の料理を取り分けてくれた。それを手渡された瑞英は、動揺しつつも箸を取る。
(ま、まさか、雅文様自ら取り分けてくれるとは……)
不思議な気分だ。しかも皿に乗せたものはどれも、瑞英が好きなものばかり。それに、不覚にも口元が緩む。
(会食したのは数回だけなのに、わたしの好きなものを覚えててくれたんだ)
先ほどのもやもやはどこへ行ったのやら。気分はとても晴れやかだ。料理を箸でつまめば、普段とは違うが確かに美味しい。素朴で優しい味だ。瑞英としてはこちらのほうが馴染み深く、ホッとさせられる。
竜宮の料理人が作る料理はいかんせん、格式が高すぎるのだ。
味付けなどは、各獣族の味である。ただ雰囲気というか、独特のむらっ気までは再現できない。
瑞英の実家である鼠族領で出される料理は大抵、薄味である。味付けのための調味料を一度に多く使うのがもったいないから、という貧乏臭い理由だったが、彼女にとってはそれが馴染みの味だった。質より量を取るのが、鼠族である。
「なんというか……懐かしい味がする」
思わずつぶやけば、美雨が目を丸くした。しかしすぐに破顔すると、穏やかな声で告げる。
「もったいのうお言葉にございます、瑞英様」
すると雅文が、いたずらっ子のような笑みを浮かべて言う。
「お揃いだな、瑞英」
「……え?」
「わたしとしても、懐かしい」
目を瞬かせた瑞英はようやく、その言葉を理解した。
(つまりそれは……わたしと一緒で嬉しいってことで……)
まるで子どものようだと思う。されどそれが無性に愛おしくなるから、困ったものだ。
口元を緩ませた瑞英は、ひとつ頷く。
「そう、ですね。お揃いです」
そんな雰囲気のまま、夕餉は終わった。
食後の茶を置いて行った後、侍女たちは揃って退出する。どうやら彼女たちなりの計らいであるらしい。
それが恥ずかしくはあったが、少しでも喋れる時間が増えるのは嬉しかった。
緑茶を一口含んだ瑞英は、雅文に向かって笑顔を浮かべる。
「雅文様。此度はどのようなことをしたのですか?」
しかしそれを聞いた瞬間、雅文の表情が固まってしまう。
瑞英は慌てた。
(え? わたしもしかして、何か変なこと言っちゃった……!?)
無神経にも、雅文の琴線に触れてしまうようなことを言ったのだろうか。ならば謝らなくてはならない。瑞英は呆然としたままの彼に対し、深く頭を下げる。
「もうしわけありません雅文様! な、何か、気に障るようなことでもありましたか……?」
「……いや、すまない。瑞英は、何も悪くないのだ」
悪いのはすべて、わたしなのだから。
そう固い声音で告げた雅文に、瑞英の不安が一気に増す。しかしものによっては言えないこともあるだろう、と思い直し、胸の内側でくすぶるそれを払拭する。
彼女は意を決して、手を伸ばした。
「雅文様」
「なんだ、ルェイ、イ……」
小さくて色白の手が、節くれだった大きな手に重ねられる。彼の目が見開かれ、腕に力がこもる。
雅文が驚くのを、瑞英は見逃さなかった。
「言えないこともあるかと思います。ですから、全部を教えて欲しいわけではありません。雅文様が本日過ごした時間を、わたしに教えてはくれませんか?」
少しでもいいから、あなたが過ごしてきた記憶が知りたいのだと、そう言外で言う。そして「わたしもだいぶ、雅文様に感化されたかな……」と内心で笑った。
そんな瑞英を見て、雅文はようやく緊張を解く。
「いずれ」
「はい」
「いずれ必ず、理由を話す。だから今は……」
「はい、分かりました」
いずれ必ず、とまで雅文が言ったのだ。必ず話してくれるのだろう。彼は嘘を吐かない。
少なくとも、瑞英が知っている雅文は嘘を吐いたりしなかった。
それから二人は、時間が許す限りお互いのことを語り合う。
雅文は珍しく、今日はともに寝ないとそう言って出て行った。
やはり様子が少し変だ、と瑞英は思う。
(様子がおかしいことがわかっているのに、雅文様に何もできないなんて……やっぱりだめだな、わたしは)
瑞英は自分の不甲斐なさを改めて痛感した。見た事項を頭に入れることばかりが先走り、具体的な行動に移せていない。それは、彼女の経験不足も理由であろう。瑞英に足りないのは、生の情報を取り入れる力だ。
そうは思ったものの、疲れてしまった。寝台に横になった彼女は、柔らかな感覚に身を委ねたまままどろむ。
(今日は少しだけ。少しだけ、肌寒い……)
そんな違いを感じながらも、瑞英の意識は途切れた。




