1.問題
第二部から先、政治的な話が多く混じってきますので、ガラッと雰囲気が変わります。主人公に好意的ではない登場人物が増えてきます。
恋愛やほのぼのした話だけが読みたい方にはちょっと違うな、というシナリオになってきますので、読者様の方、先を読むかは自己管理でよろしくお願いいたします。
雨が降っていた。
地面をえぐるほどの、強い強い雨だ。部屋の中にいても響いてくるその音に、竜族の男は目を覚ました。
怪訝そうに眉を寄せ、ゆっくりと身を立てる。そして顔にかかった自らの髪を避けた。黒みがかった銀色の髪が、わずかに差し込む光を浴びて鈍く光る。
ふと寝台に目をやれば、そこには可愛らしい姫がいた。
白銀の髪の間からちょこんと、小さな耳が覗いている。小さく開いた口からは穏やかな寝息が聞こえた。どうやら起こしてはいないらしい。
それを見た男は、二重の意味で安堵した。彼女が起きていないことと、そばにいたことに。
最近はわがままを言って、寝所を共にすることが多かった。もちろん手は出していない。今はそんな感情よりも、ただそばにいて欲しいという想いが強いからだ。
なら何故、ともに寝ているのか。
ひとりになるとどうしても、嫌なものを思い出してしまうからだった。愛おしい姫が、連れ去られた日のことを。
そして想像してしまう。――そんな姫が、この世で最もおぞましい目に合うことを。
彼は首を横に振った。そんなことはあってはいけない。させるわけにはいかないのだ。
今回の処置は、そんな感情を抑え込むためのものであった。
しかしそんなわがままも、そろそろ限界に近い。彼にもそれら分かっていた。
姫の頭を軽く撫でてから、男は名残惜しそうに寝台を後にする。
床はひどく冷たい。布靴を履いてもなお、その冷たさは痛いほど彼の足を突き刺した。それが指先を伝い、ゆっくりと染みてゆく。
身を柔らかく包んでいたぬくもりが、歩くたびに解けていくのを感じた。
その感覚を味わいながらも、彼は部屋を後にする。
そこは彼にとっての、唯一の安息地だった。
ひとたび扉から出てしまえば彼は――竜王以外の何者でもなかったから。
十三支国。
それは、十三の獣人たちがそれぞれの領地を治める国々だ。
その中でも頂点に君臨する領地でもある竜族領は今、雨季に見舞われていた。
地上よりも高い位置にある竜族領は、精霊たちの力を借りて守られているとはいえ雲にぶつかりやすい。この時期は特に雨雲にぶつかり、豪雨になるのだ。にもかかわらず、雨季が去れば暑い日差しが肌を焼く。竜族領の夏は、独特の暑さをあわせ持っていた。
青々とした緑の葉を、幾重にも連なる雨粒が叩いていく。雨を好まない竜族は皆雨季になると、こぞって外に出なくなる。故に辺りは静かだ。
そんな暑苦しい中でも、後宮はとても賑やかだった。
なんと言っても今の後宮には以前とは違い、四人もの姫たちが竜王の妃候補として暮らしている。その中でも仲が良い三姫は、何日かに一度集まり茶会を開いているのだ。
今日も今日とて鼠姫の部屋に三姫が揃い、円卓を囲んでいる。各国の姫たちは、思い思いの衣に身を包んでいた。それだけで場は華やぐというものだ。
しかし今回は何やら、不穏な空気が漂っていた。
卓の上にはそれぞれ、二つずつ器が乗っている。
片方は真っ黒く、もう片方は蜂蜜のように透き通った色をしていた。どちらも食べやすいようにと四角くく一口大に切られ、適度に盛られている。後者には小さな赤い実がちょこん、と乗っていた。どちらにも甘い蜜がかかっており、きらきらと輝いている。
「……これ、なんですか?」
開口一番に口を開いたのは、鼠姫の瑞英だった。
彼女の翡翠色の眼差しはひたすら、目の前の不審物に向けられている。匂いを嗅いでみたが、どちらも蜜の匂いが強いだけでこれと言った特徴はなかった。強いて言うのであれば、前者のほうが薬のような匂いが強く、後者は酸味のある匂いが強かった、というくらいである。
何か分からないのは猫姫である夢花も一緒ならしく、目をか細めながら器を持ち上げている。
するとそれを持ってきた主でもある兎姫の宇春は、可愛らしい顔を和らげてくすくすと笑った。
「それは、兎族でよく食べられる菓子なのです。どちらも薬膳菓子でして、美容に良いと評判なのですよ」
「そうなんですか」
「……美味しいんですの?」
「はい。黒いほうは独特の苦味があるのですが、蜜をかけると不思議と美味しく食べられるのです。ただどちらも癖がありますから、苦手なものがあるかもしれません」
瑞英はへえ、と感嘆の声をあげた。文化によって色々な食べ物があるということは知っていたものの、ここ最近出てくる料理は知らないものばかりである。好奇心が疼かないという方が無理な話であった。その証拠に、尻尾がゆらゆらと揺れる。
瑞英は、苦いと言われていた黒いほうの器を手に取った。そこでもう一度匂いを確認し、そして慎重に匙を使い口に運んでいく。
「これ、は……」
やってきたのは、なんとも形容しがたい食感だった。歯を当てれば少し抵抗するが、通れば直ぐに割れてしまう。舌を刺激するのは、わずかな薬っぽさだ。しかしそれも、蜜が混ざれば直ぐに流されてしまう。固いような柔らかいようなそれは、彼女が今まで食べた中にはないものだった。
苦味はあるものの、気になるほどではない。特にまずいわけでもなく、むしろ癖になる食感と匂いだった。瑞英は満面の笑みで、一つ目の器を完食した。
一方で夢花は、蜂蜜色のほうに手を出していた。
穴が空くほど観察しながらも、彼女は匙を口に入れる。
すると、彼女の耳と尻尾がピンっと立った。
(あ、美味しいんだ)
ここ最近食事を共にするようになって分かった、夢花の癖だ。美味しいものを食べると途端に、耳や尻尾が動き出す。
それから少しも経たないうちに完食した夢花は、頬をわずかに染めながらも宇春に言ってのけた。
「お、美味しいではありませんの。まずいもの出したら、文句でも言ってやろうと思っていましたのに」
「それはよろしかったです。お肌もさらに綺麗になりますよ」
「ふん。わたくしの肌は、いつも綺麗ですわ。しっかりお手入れしておりますもの。でも……もう少し酸っぱいほうが、わたくしの好みですわ」
「分かりました。次お出しする際にはそういたしますね」
「当たり前ですわ」
なんだかんだと悪態をつく夢花だが、宇春が笑顔で頷くと少しだけ嬉しそうに鼻を鳴らした。それを見て瑞英は、なんとなくほっとする。このやり取りにもすっかり慣れてきた。
傍に仕えている侍女たちも、穏やかな表情を浮かべて新たに茶を淹れている。
以前の騒ぎが嘘のような、静かで心地の良い昼下がりだった。
普段は大抵、二刻ほど他愛のない雑談をしてお開きになる茶会。しかし今回は少しだけ違った。明確な議題があったのだ。
ひと通り甘味を楽しんだ面々は、そこでふう、と息を吐く。そして本題に入ることにした。
口を開いたのは、今回の話を持ってきた夢花だ。
「さて、ここに集まったわけなのですけれど」
「はい」
「お二人は、狗族の姫……佩芳様のことを、どうお思いですの?」
佩芳。
その名は、今この場にいない最後の妃候補の名だった。
それを聞かれた瑞英は困惑した眼差しを向ける。その理由は、彼女と狗姫との関わりが皆無に近かったためだ。
顔を合わせたのは、一番はじめに部屋決めをしたそのときのみ。それ以降は見たことすらない。どうやら後宮では、ほぼ部屋にこもって生活しているようだった。
しかし宇春と夢花は違う。彼女たちは昔から、佩芳と関わりがあった。おもにいがみ合う、という意味での繋がりであったが、今となってはそれを続ける意味もない。そんな理由で、宇春と夢花の仲は良好へと向かった。
だが佩芳は未だ、こちらに姿を見せず。
一月以上経つ今でも、顔を合わせたことすらない。
瑞英はとりあえず、首をかしげてみた。
「わたしは佩芳様のことをあまり知らないんですが……一番始めの顔合わせのとき以来、お会いしていませんね」
「ええ、そうなんですの。そこが問題なのですわ」
「……ええ、そうですね。大問題です」
瑞英は思わず、え、と声を上げてしまった。しかしふたりは互いに顔を見合わせ、何度も頷き合う。珍しく以心伝心している様を見た瑞英は、二重の意味で驚いた。
(珍しい……)
いつもいがみ合っているか文句を言っているかしかしない関係なのに、こうも軟化するとは。
されど事態は、瑞英が感心しているよりも悪かったらしい。
「わたくしたちは、竜王陛下の妃候補ですわ。ある程度の仲を取り持つために、茶会などに出席するのは必然でしょう。にも関わらずあの方は、文を何通出しても来ませんでしたの。これは後宮内の、秩序の乱れにも繋がりますわ」
「それに、部屋から出てこないというのも妙な話です。しかも、自らが連れてきた侍女以外は部屋に入れないのです。そんな有様ですから、もとから竜族の方に仕えていた侍女や女官たちも不審に思っています。わたしはつい先日、侍女から嫌な噂を聞きました」
「……嫌な噂、ですか」
そうつぶやき、そこまで思考が及ばなかった自分に頭が痛くなる。雅文の力になりたいと思っていても、ふたりのようなことができないなら話にならなかった。
彼女のこの性格はおそらく、幼少期から根づいたものだ。好奇心に身を任せ周りに聞いて回っても、教えてくれるどころか怒られていた。それがこんな場所でも出てしまっていたようだ。
(ひきこもりのときからの性格がなかなか抜けない……わたしはもっと、周りを見るようにしなくちゃ。じゃないと雅文様のためになど働けない)
瑞英は改めて、己の心中に喝を入れた。
そんな彼女の心などつゆ知らず、宇春は噂の内容を口にする。
「佩芳様の部屋の前を夜通ると、変な呻き声がするそうです。そしてその呻き声はどうやら、佩芳様の部屋以外の場所でも聞こえるらしく」
「それは……まずい噂ですね」
「わたくしの侍女も言っておりましたわ。どうやら大分、佩芳様の良からぬ噂が立っているようですの。陛下が選んでくださった妃候補であるのに、それはいただけませんわ。ですから何か、手を打とうと思っておりまして」
夢花の言葉に、瑞英は腕を組んだ。そして首をひねる。こういうときこそ持ち合わせの知識を総動員するべきだと思ったからだ。
されど対人面に関しては、目の前のふたりほど経験を積んでいない。そうなると、本当に通じるのかどうかも分からぬ情報を信じることになってしまうのだ。
(そもそも、佩芳様はなぜ来ないんだ?)
瑞英が知る限り、佩芳は狗族の姫らしい凛とした佇まいの美女だ。それ相応の誇りもあり、妃候補が決まるまでの間はすべての茶会、夜会に出席していたと言う。仲裁の仕方はともかく、夢花の宇春の言い争いにも介入していた。社交性は高かったはずだ。
しかし妃候補に選ばれてからは、一度も顔を見かけていない。
そこでふと瑞英は、自らの胸のどこかに何かが引っかかる心地がした。しかしその何かが分からず、さらに首をひねってしまう。
その間にも、ふたりは議論を続けていた。
「いっそのこと、呼び出してしまうのはどうでしょう?」
「いやですわ。わたくし、あの方とは幼少の頃から旨が合いませんの。話に行ったって帰されるか、言い合いになるかのどちらかですわ。行くなら宇春様が行ってくださいまし」
「わたしもあまり得意ではありませんが……言い争いになって話が脱線するよりはましですね」
「……べ、別に、ついていかないなんて言っておりませんわ! 瑞英様はどういたしします?」
「……え、あ、わたし、は……」
別のことを考えている間に、唐突に話を振られてしまった。瑞英はあたふたするが、視線は突き刺さるばかりだ。
彼女は自分の肩をすくめると、こくりと頷く。
「一緒に行きます。役には立ちませんが……」
「まぁ、良かったですわ。瑞英様がいれば、百人力ですわね」
「そうですね。どんな弁舌をしてくれるのか楽しみです」
「……あの、わたしの話聞いていました?」
なぜか瑞英が説得することになっている。
そしてさほど弁舌もないのに、妙な期待されている。
(勘弁して欲しい……)
瑞英は心中で、ひっそりとため息を吐き出した。




