番外編4 遥か昔の竜族領にて
※以前掲載していた前半部と、今回あらためて書き上げた後半部をくっつけて投稿しております。理由は同じ番外編4なので、そちらの方がまとまりがいいかな、と思ったからです。
以前前半部を読んだ方はお手数ですが、スクロールして後半部をお読みください。
合わせて9000文字近くあります……。
大広間の扉が、音を立てて開く。
そこから現れたのは、黒銀の髪に涼やかな蒼の瞳を持つ竜だった。
史上最高の彫刻家ですら、彼ほど精緻で美麗な像は作れないだろう。すべての者を魅了してやまないその美しさは、強さの表れでもあった。
大広間に所狭しと集められていた竜宮勤めの竜族たちは、強さに憧れるがゆえにその姿に見惚れた。しかしその視線になど見向きもせず、彼は真っ直ぐと前を見つめた。
そして扉の入り口から玉座まで伸びる青い敷き布を、ゆっくりとした足取りで征く。
黒銀の髪が羽根が広がるように広がり、なびき、袖や裾が風を含んで後ろに流れる。
それを群衆に紛れて眺めていた黒竜――幸倪は皆が揃って見惚れる中、ひとり悲しそうな顔をする。幸倪の目には美しくなびく髪や衣がまるで、彼のことを引き止めているように見えた。
(行っては駄目だ。行ったら、戻れなくなる)
その声が自分のものであると気づいたとき、幸倪はそれが自分の願望であることを悟った。できることならその肩を掴み、「行くな」と言いたかった。しかしそのようなことなど、ここにいる者たちはおろか彼自身が望んでいない。幸倪は必死で己を律した。
そんな声を振り払うように、彼は玉座へと征く。その先には今代竜王である閃王が佇んでいた。金色の髪に琥珀色の瞳を持つ竜王はその手に、今まで自分が身につけていた冠を持っている。青みを帯びた銀色の冠には六種類の宝石がはめ込まれ、静かにその存在を誇示していた。
王は玉座に座らず、少し手前の脇に佇んでいる。
ようやく玉座の前にたどり着いた彼は、閃王の前に片膝をつきこうべを垂れた。王はひとつ頷くと、その頭に冠を乗せる。
その瞬間。
その瞬間、新たな竜王が誕生した。
竜王となった雅文という竜族は優雅に立ち上がる。そのとき、冠についている簪がしゃらんと鳴った。
新たな竜王が即位したことを祝うように、その場にいるすべての官たちが起拝の礼を取る。幸倪も例に漏れず両膝をつき、両手を胸の前で重ねてこうべを垂れた。
唯一立ったままだった前代竜王、閃王は最後の仕事を終える。
「此度、新たなる竜王が生まれた。皆、彼に付き従い、自らの職務に励め」
『御意』
それを言い終えると、閃王は大広間から姿を消してしまう。しかしそれは当然の行動だった。この王の間に、竜王はふたりも要らないのだから。
退席した直ぐ後、閃王は、先に死に絶えた番の後を追うように自害した。
その表情は、普段厳しい顔つきをしていた彼とは思えないほど満ち足りた、優しいものだったと言う。
***
今代竜王、雅文は、幸倪の幼馴染だった。
基本的に側近となる者は、古くからの馴染みであるほうが良い、とされてきた竜族社会だ。幸倪も例に漏れず、その役職に就くことに決めた。
そんな経緯と幸倪自身の並々ならぬ功績もあり、彼は雅文の側近としての立場を得たのだ。
竜王になりたての頃は特に、番を一生得られないという事実を突きつけられたことに絶望し荒れるのだという。
いっそのこと死にたくなるほどの孤独は、竜王の心をじわじわと、確かに蝕んでいくのだ。その感覚に襲われた竜王は、ほぼ必ず暴れてきた。幸倪の役割は、そんな王を抑え落ち着かせることだった。
竜族というのは、実に難儀な生き物だ。番が見つからないまま亡くなれば喪失感こそ感じるが、気が狂うことはないのだから。
前王は戦で番である竜を失くしたのだと言う。そのときばかりは彼の鉄仮面も歪み、涙が一筋頬を伝ったと言われていた。
そのときまで誰が自らの伴侶か知らなかった閃王の心境はいかほどだったのだろうか。少なくとも幸倪には、一生理解できない。
しかしこれから雅文は、それを理解してしまうだろう。それがたまらなく嫌だった。
彼はそんなことを思いながら、執務室で仕事をする雅文を見た。
「陛下。こちらが兵部からの報告書になります。こちらが吏部の官吏名簿、こちらが戸部からの前年度の決算書になります」
「ああ。そこに置いておいてくれ」
「……はい」
竜王になった雅文は、前と何も変わらない態度で責務を果たしていた。
そう。番を得られないという事実に打ちのめされることすらなく、彼は実に普通の態度を貫いていた。
数々の老中たちは、暴れない竜王に安堵を示していた。
確かに竜王が暴れると、まるで手がつけられなくなる。それに手をこまねいたことが伝わっているため、この時期の竜宮勤めの官たちは皆気を張っているのだ。
しかし幸倪には、それが不自然に見えてならない。むしろ泣いて喚いて、正気と狂気の狭間で揺れるのが普通なのだ。竜族にとっての番とは、それほどまでに大切なものなのだから。
そう思った幸倪は休憩中に、幼馴染である美雨と栄仁を空き部屋に呼び出した。
ここ最近忙しくて話せていなかった顔を見ると、不思議と安心する。その上美雨は、幸倪の番だった。会えなかった分心が満たされるのは当然のことだ。
開口一番に切り出したのは幸倪だ。
「ふたりは、雅文の様子がおかしいとは思わないか」
「幸倪。様付けくらいしたらどうですか?」
「そうだぜ幸倪。誰が見てんのか分かんねーんだし」
「あなたもその口調、どうにかしなさい」
おどける栄仁を、美雨が鋭くいさめる。そのやり取りは、村にいたときからなんら変わらないものだった。
しかし久方ぶりに顔を合わせた幼馴染の中に、雅文の姿はない。同じ村で生まれ共に遊び共に励み、共に官になり、今まですべて一緒にやってきた彼がいないことは、とても寂しく感じた。
彼らも同じ気持ちなのか、いつも通り他愛のない話で始まったそれは直ぐにやってきた沈黙によって止まる。
明るい空気から一変張り詰めた緊張感を漂わせながら、三人は椅子を寄せぽつりぽつりと話を始めた。
「幸倪。雅文の様子はどうだ?」
「……前と何も変わらない。それだけだ。ただわたしと接触することを避けている節がある。だから気にかかるんだ」
「そうですか。わたくしから見ても、以前と何も変わらないように見えます。……それが逆に不気味なのですが」
「だな。あいつ、とことん自分の感情吐き出さないからなー」
無言のまま肯定する幸倪はお手上げ状態のふたりに、頭を抱えるしかなかった。
確かに昔から、雅文は自身の心情や力を隠すことが上手かった。それは彼が昔から、とても強い個体だったからだろう。口喧嘩こそすれど、殴り合いや竜化した状態での喧嘩をした記憶は一度たりともない。
それはおそらく、雅文がすべてを悟って幸倪たちと接していたからだろう。雅文が本気で怒れば、幸倪など余裕で吹き飛んでしまう。
すっかり八方塞がりとなった状態を見て、栄仁は自棄気味にぼやく。
「もういっそのこと、いっぺん殴りてえな」
「……は?」
「栄仁、どうした。頭がおかしくなったのか?」
「ちげーよ。俺が言いたいのは、そういうことじゃねぇって。てかお前ら、揃いも揃って白い目で見んなっ。ほんと夫婦だなおい!」
美雨は、床にたまった塵を見るような目で栄仁を見ていた。一方の幸倪は、道に転がる石ころを見る目で彼を見る。見下し加減で言えば、美雨の方が上だ。
そんな非難の視線を一身に受けながら、栄仁ははあ、とため息を吐き出した。
「だってさあいつ、怒んねーじゃん。いっぺん殴れば怒って暴れて、本音でも吐いてくれっかなーって」
「馬鹿みたいに荒い方法ですね栄仁。さすが村で一番血の気が多い馬鹿だったと、有名なだけあります」
「褒めてねーだろ美雨」
「さあ。どうでしょう」
「……いや、その案はいいかもしれない」
『……は?』
栄仁の過激な発言を美雨はいさめたが、幸倪が肯定した。その発言に、提案した張本人までもが頭に疑問符を浮かべている。
「いや、どういうことだおい」
「どういうことも何も、お前が提案したんだろう、栄仁。何、簡単なことだ。俺たちとしては雅文の本音が聞きたい。向こうは何も言わない。ならいっそのこと拳をつき合わせて試合をするのも、ありかもな、と思ってな」
「おお! 幸倪、お前も男だな! そうだよ、男は拳で語るもんだぜ!!」
「ああ……馬鹿ばっか……」
栄仁は諸手を挙げて賛成したが、美雨は頭を抱えて嘆き出す。
二対一で可決されてしまった案は結局、明日の昼決行されることとなった。
***
次の日。
幸倪は訝しがる雅文を無理矢理引っ張り、誰も使っていない訓練場にやってきた。石造りの簡素な大部屋には、剣でついた傷や焦げたような跡が残っている。竜族とて、室内で戦闘があることを考慮し剣術や武術を学ぶ。ここはそのための場所であった。
大抵の竜族であれば竜化をしても問題ないだけの広さが、訓練場にはある。といってもここで竜化をすることは、滅多にないのだが。
そこにはすでに、美雨と栄仁がいる。どうやらなんだかんだ言っておきながら、ふたりの行方を見守る気らしい。
幼馴染たちの心配りに、幸倪は密かに笑った。
一方の雅文は、顔馴染みたちが集っていることに驚きと疑問を抱いている。
「……なんだお前たち。揃いも揃ってどうしたのだ」
「なんだ、ですか。そうですね強いて言えば……雅文、わたしと試合をしないか?」
いきなり素の口調に戻った幸倪に、竜王は顔色を変える。そして彼の顔を見た。黒竜は至極真面目な顔をしている。
言葉を選ぶように、雅文はゆっくりと口を開いた。
「それがどういう意味か、分かっていっているのか、幸倪」
「もちろんだ。でなければ、口調など崩しはしないさ」
試合、というからには、怪我をすることは必至。特に竜族同士の試合は、片方が落ちるまで殴り合うということもあった。血がたぎると、竜族はつい理性を失くす。
つまり雅文と試合をするということは、死ぬ覚悟がある、という意味でもあるのだ。
そんな番に、美雨がわずかに眉を寄せる。しかし言っても聞かないことなど、昔からの付き合いでよく分かっている。
その上彼女には、幸倪の感情が流れ込んできていた。普段なら分からないそれが伝わるということは、相当高ぶっている証だ。そのため目を伏せるだけにとどめた。
そんな嫁の心境も知らず、真顔で頷く幸倪。そんな幼馴染に、雅文はため息を漏らす。何か言われそうな気がした幸倪は、間髪入れずに言い放つ。
「それともなんだ、逃げるのか? 最強と名高い竜王陛下がそのざまじゃあ、これからの統治がどうなるか不安だな」
鼻で笑う。なぜわざわざあおったのかというと、そのほうが効果的だと踏んだからだ。
雅文は竜王になることが決まってから、竜王として強くなることを己に課している節があった。それならば竜王という立場を侮辱すれば、乗らないわけがないと考えたのだ。すべては、雅文のことを知っている幸倪だからこそ思いついた策だ。
その予想違わず、雅文の眉がぴくりと動く。
それから何か口にすることもなく、衣をなびかせながら間合いをとった。
「素手での試合で構わんな?」
「ああ。判定は美雨と栄仁、頼む」
「承りました」
「任せとけ」
それっきり、その場から音が消える。微かに漏れ聞こえる呼吸音だけが、嫌に響いて聞こえた。
蒼と黒の瞳が交差する。
「――始め」
栄仁の掛け声とともに開始した試合で先に動いたのは、雅文のほうだった。
先手必勝、とばかりに繰り出された拳を、幸倪は落ち着いて避ける。もともと予想していたため、避けることは容易かった。
しかし間を置かず、雅文の拳がとんでくる。
(まぁ、そうくると思っていたが)
幸倪は急所である頭と首に向けられた攻撃だけを防ぎ、あとは攻撃に回った。雅文と本気でぶつかり合うためには、これくらいしなければ意味がない。
体のあちこちが痛みを訴えたが、彼はそれを無視して雅文の動きを観察した。
雅文の拳はどれも重たく鋭い。幸倪が打ち込んでも簡単に流され、その隙に攻撃がくる。
しかしいつもと違い、なぜか焦って見えた。
(雅文はきっと、この試合を早く終わらせたいはずだ)
そう。蓋をしているどす黒い部分が、本能にやられて溢れ出さないために。
雅文は焦っている。
そこが隙だ。幸倪はそのときを、ただひたすらに待った。
竜族の強靭な体が、拳ひとつで腫れ上がる。くすんだ床に血が跳ねた。それを見た雅文の動きが、わずかに鈍る。
ここだ。
そう思った幸倪は、今までため続けてきた右の拳で、雅文の顔を思いきり殴り飛ばした。
端正な顔が歪み、勢い余って倒れ込む。
幸倪はそんな雅文に馬乗りになった。
胸倉を掴みながら頭突きをかます。そして、頑なに閉ざされた幼馴染の心に響くように願いながら叫んだ。
「どうして今、わたしを殴ることを躊躇った!! 手加減できなくなると感じたのか!?」
額から血を流しながら、幸倪はなおも言う。
「お前は昔からそうだ、どんなに喧嘩をしようが、いつだって我慢していた、手加減していた。それが配慮だと思っていたのか? それは配慮じゃなく、わたしたちを馬鹿にしているのと同じなんだよ雅文!!」
全身に怪我を負いながら、黒竜は叫び続ける。そんな彼を、竜王は目を見開いたまま見つめていた。
それに少し満足したのか、幸倪の溜飲が下がる。そのため、先ほどとは違い乞うような響きをにじませて目を伏せる。
「辛いなら、苦しいなら、泣いてくれよ、叫んでくれ。じゃないとわたしは分からない。それともお前はそんなにも、わたしたちのことを信頼していないのか? わたしたちの関係はそんな、儚いものだったのか……?」
違うと言ってくれよ、雅文……。
襟元を掴む手は震えている。
顔を落としているため、雅文が今どんな顔をして自分を見ているのか、幸倪には分からなかった。なぜだか分からないが、見れなかったのだ。それは己の不甲斐なさに対する憤りからきていた。
すると、手に冷たいものが落ちる。
え、と声を漏らし顔を上げると。
――雅文が、泣いていた。
腫らした頬を、大粒の雫が滑る。それは顎を伝い、襟元を掴む手に落ちてきていた。
初めて見るその光景に、幸倪は瞠目する。そして馬乗りの体勢を止め、傍らに正座した。
予想だにしない展開に、美雨と栄仁までもが駆け足でやってくる。そして同様に、雅文を囲うように膝をついた。
「……雅文?」
「おい、どうした雅文。どっか痛えのか?」
「雅文、どうしたのですか?」
三人は揃って、竜王の名を呼ぶ。しかし彼は答えない。泣き声をあげることもなく、ただただ涙を流している。それは決壊した堤防のように、とどまることがなかった。
幸倪にはそれが、今まで溜め込んできたものが溢れ出たように見える。
三人はそれきり黙ったまま、雅文が何か言うのを待っていた。
ふと、雅文の薄い唇が震える。
「わたしは……わたしは、どうすればいいのだろうか」
掠れた声とともに吐き出されたのは、彼の確かな本音だった。
「番を得ることができないと聞いたとき、どうしようもなく空っぽな自分に気づいた。金輪際この穴に、何も満たされることがないと悟ったとき、気が狂いそうだった。しかしわたしは竜王だ。それを他者にぶつけるのは、いけない」
一度口をついて出た心の声は止まらない。三人は懺悔のような告白に耳を傾けながら、雅文の体に触れた。
ひたすらに泣き続ける姿は、雪の中ひとり残された幼子のようだった。
せめてぬくもりが伝われば良いと、本当の意味で独りではないことを分かってもらおうと、三人は体温を与え続ける。
俯いた拍子にさらりと、銀色の髪がこぼれた。
「わたしは、わたしの暴力で、仲間が傷つくのは嫌だ。しかし心のどこかで、すべて壊してしまえという自分がいることも、知っている。そんな醜い姿を、仲の良いお前たちに見せたくはなかった。……お前たちは昔から、わたしに怖がることなく共にいてくれる、大切な存在だから」
ようやく聞き出せた雅文の声は、強者なりの葛藤が含まれていた。確かに雅文は強靭な肉体と尋常ではない力を持っていたゆえに、一部の者からは敬遠されていたのだ。三人からしてみたら取るに足らないことを、他者の声に人一倍敏感であった竜王は過敏に感じ取ってしまっていた。
長い間それに気づけなかったことに苛立ちを覚えながら、幸倪はそれをぶつけるかのごとく雅文の髪をかき混ぜ始めた。
「いきなり何をやりだすんですかあなたは」という美雨の呆れ声も聞かず、わしゃわしゃと混ぜる。頭に巣ができたところでようやく、怒りをおさめた。ぽかん、とした間抜け顔が、幸倪の沸点をさらに抑えてくれる。
彼は涙を浮かべながら言う。
「その程度のことで離れていくくらいなら、お前と友だちになどなっていない」
「そうだぜ、雅文。お前は俺らのことを、ちっとばかし矮小に見過ぎてるよ。俺たちからしてみても、お前は大事な仲間なんだからな」
栄仁も肩を叩きながら笑った。美雨もやれやれ、と首を振りながらも頷く。
「そうですよ、雅文。わたくしたちは仲間です、親友です。番の代わりには到底なれませんが……もう少し、頼ってはくださいませんか? わたくしとしては、そちらのほうが悲しいです。だって弱みを見せないということは、信頼されていないと同義ですから」
「……そんなつもりではなかったのだ。本当に、すまない」
「いえ。むしろお前のその闇に気づけなかったわたしたちにこそ、比がある。……今まですまなかった、雅文。こんなにもそばにいたのに、何ひとつ気づいてやれなくて」
幸倪の謝罪を聞き、他のふたりも頭を下げる。雅文はやめてくれと言ったが、これは三人なりのけじめであった。
竜族は総じて強者の多い種族ゆえに、弱みを見せることを躊躇う傾向にある。それと同時に、他者に介入しないという暗黙の了解もあったのだ。
しかし雅文のような者の場合、それだけではいけないのだろう。三人はあらためて、それを悟った。
「本当に悪かった、雅文。番を得ることができないっつー恐怖を、俺は本当の意味で理解してなかった」
「わたくしもです、雅文。少し考えれば、理解するとまではいかずとも分かったはずなのに」
「……やめてくれ、三人とも。わたしが怖がって、口にしなかったこともいけないのだ。だから謝罪される覚えはない」
頑なに謝罪を受け取らない雅文に、幸倪は肩をすくめる。そして少しばかり調子を戻し、あおるように言う。
「いいか、雅文。わたしたちはお前が許してくれるまで、一生この罪を抱えて生きていくことになる。本当にわたしたちのことを思うなら、受け取ってくれ。わたしたちはまた雅文と、後腐れなく過ごしたいんだ」
雅文は息を詰まらせた。頬には涙の跡が残っている。彼はそれを袖で拭ってから、きつく瞼を結んだ。
「……許す」
そしてゆっくりと、そうこぼす。
三人はようやく笑みを浮かべた。
すると気が抜けたのか、幸倪が後ろに倒れ込む。今まで感じていなかった痛みがぶり返してきた。ジンジンと響く。頭が痛い。その上全身が腫れて熱かった。
三人が驚愕の声をあげていたが、それに答える間もない。
幸倪はそのまま、意識を失った。
そんな記憶が蘇ったのは、美雨から雅文と瑞英の関係がどのように進展したのか、という話を聞いていたときだった。
思わず笑えば、妻は訝しむように眉を寄せる。
「何か?」
「いや。雅文と殴り合いをしたときのことを思い出してしまってな」
そう言うと、美雨はさらに顔を歪める。どうやら彼女からしてみたら、思い出したくもない忌々しいことらしい。
「あの後、本当に大変だったのですからね。あなたときたら、二日経っても起きませんし。最後の最後くらい、ビシッと決められなかったのですかビシッと」
「と言われてもな……わたしもいっぱいいっぱいだったんだ」
妻からの追求にたじろぎつつも、幸倪は困ったように眉をハの字にする。
そう。あのときはどうやれば雅文の本音が聞けるか、ということしか考えていなかった。
しかしあのときの最善はそれだったのだ。今思い返してみても、あれ以外の方法は思い浮かばない。
押されっぱなしの夫に、妻は半眼を向けた。
「わたくしも肝を冷やしました。本当に」
「……悪かったよ、美雨」
ひたすらに謝る。しかしそんなに怒っていないことを、幸倪は知っていた。長年番をやっているのだ。心の機敏は容易に感じ取れる。
そこでふと、竜王とその花嫁になった姫の存在が浮かんだ。
「……なんだろうな。今の雅文を見ていると、ものすごく安心する」
「……それはそうでしょう。瑞英様のお陰で、雅文は本当に安定しましたから」
雅文を今の今まで支え続けてきたふたりには、彼の不安定さがよく分かっていた。
しかしそれが番を得ただけで、もともとそうであったかのように落ち着いたのだ。竜王がどれほどまでに番を渇望していたのか、分からない者はいないであろう。
だからこそ、思う。竜族内に、竜王の番が鼠姫だとばれてしまった今、さらなる警戒が必要だと。
我を忘れそうになった雅文のことを落ち着かせるために必要であったこととは言え、今回の不確定要素はそれほどまでに痛手であったのだ。
しかし広まってしまった以上仕方あるまい。そのことを踏まえた対策を練るべきだと、幸倪は考える。
「問題は山積みだな……」
そんなことをつぶやいた後、幸倪は久方ぶりのふたりきりの逢瀬を楽しむかのように、美雨に口づけを落とした。




