24.前進
夜。
瑞英は精神的に負った傷を癒すように、寝台に身を沈めていた。
「もうやだ。ほんとやだ……」
そんな愚痴を吐きつつも、彼女は寝ずにごろごろと寝台の上で転がる。このままだと、疲れて寝てしまいそうだったのだ。
そんなときでも頭に浮かぶのは、昼間問い詰められ、仕方なく話し盛り上がり、結果伝授された男性への接触方法だった。
「〜〜〜っっ!! そんな恥ずかしいことができるわけない……!!」
瑞英は奥手だ。自他共に認める奥手だ。特に恋愛面に関しては潔癖的で、節度ある関係しか知らない。一歩踏み出した関係というものが、まるで想像できないのだ。
それゆえに、務めだからという理由で閨での技術を知る彼女たちからありとあらゆることを教わったところで、行動に移せるわけがない。その上自身の心境の変化を知ったのは、ごく最近である。
しかもそれは、恋心と呼ぶべきか迷う類いの、「ずっとそばにいたい」という感情で。
それが瑞英を、余計に困惑させた。
ぼんやりと天井を見つめていると、扉が叩かれる。それに彼女は飛び起き、慌てて身嗜みを整える。ごろごろと寝転がっていたため、髪が少し跳ねていた。それを手櫛で直したところで、声がかかる。
「瑞英、入るぞ」
「え、あ、はいっ!」
返答の直ぐ後に、扉が開かれた。
入ってきたのは、雅文だった。
そう。ここ最近は特に、彼は他の妃たちを気にせず瑞英のもとにやってくる。しかも毎日だ。
美雨曰く「どうやら一度空いてしまった喪失感を埋めるには、共にいる時間を長くしないといけないようですね」とのこと。
そのため普通なら咎められる行為でも、雅文のために許されているらしい。その辺りの感覚は、瑞英には分からない。
ただまずないことを前提として考えるが、雅文が誘拐されたり死んだりしてしまったら、悲しいし辛いと思う。瑞英はそういう感情を、竜族は強く感じるのだろうな、ということで理解することにした。
共に寝ると言っても、ふたりの間にそういった行為はない。
男女の関係にあるにもかかわらずそれはどうなのか、と言われたら元も子もないが、雅文は決して手を出してこようとはしなかったし、瑞英も羞恥心が勝りそれを言い出せなかった。
どうやらふたりの距離が縮まるのは、もう少し時間を要するようだった。
共に寝台に腰掛けると、ふたりはいつものように話を始めた。
話、と言っても、そんなに複雑な話題ではない。ただ「今日はどんなことをした」といった、世間話のようなものをつらつらと言い合うのだ。特に雅文のほうは、政治面に関しての話をしてくれる。瑞英はそれがたまらなく嬉しかった。
瑞英は、今日茶会が開かれたことを話した。
「ああ、そういえば雅文様。夢花様と宇春様はどうやら、既にわたしたちの関係に気づいているようです」
「左様か。まぁあれだけの騒ぎの中共に帰還したとあれば、広まるのは必然か」
「そうみたいですね……あの、なんだかわたしとの関係を隠していたようですが、ばれてしまっていいのでしょうか?」
瑞英は、最も懸念していた事柄を問うた。瑞英という存在が『番』なのだと知られた結果、雅文に迷惑がかかるのだけは避けたかったのだ。しかし既に、竜族領では周知の事実と化しているようだった。それにより彼が困る展開になるのだけは嫌だった。
されど竜王は黒銀の髪をさらりと揺らし、首をかしげる。
「そもそも竜族たちには、ほぼばれていた。今さら知られたところでなんら問題はない」
「……そう、だったのですか?」
「ああ。番という存在の意味を知り得ているのは竜族のみ。そして彼らはそれに関しての裏切りを、最も忌み嫌う。口外することはあるまい」
「そうですか……なら、いいのです」
釈然としない心持ちのまま、瑞英は頷いた。その気持ちが顔に出ていたらしく、雅文が困った顔をする。
「不安か?」
「え? いえ、そういうわけでは」
「では何が気にかかるのだ?」
雅文が、瑞英の頬に手を伸ばした。片方の頬を優しく包むように、細く長い指が動く。労わるように指の腹で目の下を撫でられ、瑞英は顔を上げた。
そこには優しく微笑む雅文がいる。
そのあたたかな視線に促されるように、瑞英はぽつりぽつりと本音をこぼした。
「わたしは、雅文様の弱点になりたくないのです」
添えられた手に己の手を重ね、瑞英は目を伏せる。その指先がわずかに震えていることに気づき、雅文は息を詰めた。
「政治というのは、様々な思惑が絡み合うものです。そして雅文様は竜王という立場。最強を誇る竜族の長です。いつだってその足元には、弱みにつけ込もうとする輩がいるはず。……そんなあなた様の弱点がわたしと知れれば、彼らはわたしを介してあなた様を引きずり降ろそうとすることでしょう。それでは、何のお役にも立っていません」
饒舌に語る瑞英の言葉ひとつひとつを、宝物のように扱いながら聞き入る雅文。
言葉を紡げば紡ぐほど落ち込んでいく鼠姫を、彼は抱き締めた。そして共に寝台に横になる。
突然のことに、瑞英は目を白黒とさせた。
「雅文様?」
「瑞英。そなたは、わたしの弱点であっても欠点ではない」
視線がかち合う。晴れた日の青空を思わせる切れ長の瞳は、実に真摯だった。
それゆえに瑞英も、その瞳を真っ直ぐと見返す。
「そなたがわたしのために、普段よりも勉強していることは美雨から聞いている。率先して、我が竜族に関する勉強をしているそうだな。そんなそなたが、わたしの欠点になることなど決してない。そうであろう?」
「それ、は……」
「それに瑞英。そなたは決して諦めない。知ることを止めようとしない。それがどれほど難しいことか、そなたには分かるか?」
「……え?」
緩く弧を描いた唇が、ゆっくりと近づいてくる。
雅文はそのまま、瑞英の頬に口づけを落とした。瑞英の顔が赤く染まっていく。
そんな反応を楽しむように、彼は耳元に口を寄せた。
「普通ならば逃げたいと思うところを、瑞英は逃げずに立ち向かうことを選んだ。そなたは弱い。力でねじ伏せられれば、直ぐに消えてしまうほどには弱い。しかしそなたには、心の強さと賢さがある。……それでわたしを支えてはくれまいか?」
「それは……もちろんです、雅文様」
「そうか、それは良かった。兎にも角にもそなたは、わたしたちでは分からない感覚や視点で物事を見ることができる。そなたのそれは必ず、わたしの役に立つはずだ」
雅文自身からその言葉を聞き、瑞英はくすぐったいような気恥ずかしいような感覚に襲われた。顔が赤くなっているのがよく分かる。しかしその反応を楽しんでいる節があるのが、少しばかり気に入らない。
(今日こそは、何か反撃を)
そう思った瑞英の頭に浮かんだのは、昼間の出来事。そう、そこで伝授された、殿方の意識を自分に向ける、とかいう行為だ。代わりに瑞英にはとんでもないくらいの恥ずかしさが返ってくるが、ここでやらなければどこでやるのだろう。
瑞英はは腹をくくる。
そして雅文の顔元に近づくべく、わずかに身じろいだ。
唐突な行動に、雅文が目を見開く。しかし何か言われる前に、瑞英は行動に移した。
自ら、雅文の頬に口づけを落としたのだ。
それと同時に口を開いた瑞英は、目をきつく結びながら震える声で言う。
「雅文様……今までの、お返し、です」
しかし瑞英が言葉を発することができたのは、そこまでだった。
ぐるりと視界が回る。気づけば仰向けに寝転がっていた瑞英は、流れ落ちてくる黒銀の髪をただただ見つめることしかできない。
気づけば、麗しくも端正な顔が間近にある。
瑞英は、接吻されていた。
驚いた瑞英の口を割り、舌が入ってくる。それはゆっくりと、しかしときに激しく彼女の口内を蹂躙した。
いつもの口づけとはまるで違う、貪るようなそれに思考が鈍る。どちらのものか分からない唾液が、瑞英の口からこぼれていった。
呼吸ができない辛さに胸を叩いて抗議したが、その手は次第に力なく落ちる。頃合いを見計らい息継ぎをさせてもらえたが、接吻は長い間続けられた。頬が上気し、瞳がとろりと溶ける。
鼠姫の翡翠の瞳が潤み虚ろになった頃、口づけはようやくやめられた。
今までおこなわれていた情事の証と言わんばかりに、ふたりの唇を銀色の糸が引く。
やっとの事で解放された瑞英は、大きく息をした。しかしそんな間すら与えず、雅文が極上の笑みを浮かべて瑞英を見下ろしていた。
「すまぬ。あまりにも可愛らしいことを言うものだから、少しばかり手が出てしまった」
「〜〜〜〜っっっ!?」
仕返しをしようとしたら、倍になって返ってきた。
声にならない悲鳴が瑞英の口からこぼれる。
そんな彼女を楽しそうに見つめ、雅文が抱き寄せた。
「今宵はもう何もせぬから、わたしの腕の中で寝るといい」
「いや、いやいやっ! こんな状況では寝れません!!」
「なら子守唄でも唄うか?」
「いりません! っていうか雅文様、子守唄唄えるんですか!?」
「唄えるが」
腕からなんとか逃れようとする鼠姫と、それを楽しそうに見つめながらも離そうとしない竜王。
ふたりの攻防戦は続く。
今宵は満月。
ふたりの戦いがいつまで続いたかは――満月だけが知ることであった。
第一部、これにて終了です。
番外編を五話ほどはさみ、第二部へと移行します。
このまでお読みくださった皆様、本当にありがとうございました。




