19.分裂 *
――痛い。冷たい。
そんな感覚とともに、瑞英の意識は浮上した。
目を開けた彼女の視界に最初に映ったのは、雨で濡れそぼる緑と、雫を吸い込みとめどなく滴り落ちる白銀の毛先だった。服はじっとりと濡れ、彼女の体に重たく貼り付いている。小柄な体はすっかり冷えていた。首筋辺りから湧き上がってくる寒気に、思わず肩をすくめて身を震わせる。
そこで瑞英は、目を見開いた。誘拐されたことを思い出したのだ。
自らの身に降りかかった現状を顧み、じわじわと湧き上がる恐怖を一度目をつむることによって耐える。そして再び目を開けると、彼女は辺りを見回し現状把握を試みた。
身を固めたまま目線だけを左右に揺らす。どうやら外にいるようだった。恐慌状態に陥らなかったのは、順応性と冷静さが成せる技だ。されど冷や汗は酷い。こんな状態でなければ、今すぐ倒れたい気持ちでいっぱいだった。
そんなことを考えながら、瑞英は自身の状況を把握する。彼女は手を後ろ手に縛られ足も縛られ、誰かの肩に担がれているようだった。
その証拠に、腹部が肩に食い込みとても痛い。それに顔をしかめながら、彼女は極力動かないままでいた。
耳をそばだたせる。すると、足音が複数聞こえてきた。どうやら少なくとも、鳥族は四人いるらしい。そんな瑞英の予想違わず。鳥族は合わせて四人いた。
そのうちのふたりは、姫をそれぞれ抱えている。
『おい、竜族が出てきたぞ! どうする!?』
『どうしたもこうしたもねーよ、俺たちの役目は妃の誘拐だ。とっとと行け!!』
何やら鳥族の者たちが騒いでいるが、瑞英にはそれが理解できなかった。そこで彼女は気づく。鳥族は、竜語を話していなかったのだ。
この十三支国での共通言語は、竜族が国を統一した後から竜語となった。だからこそ瑞英もその他の者たちも、竜語を喋っていることになんら違和感を持たなかったのだ。
しかし竜族と対立関係にある鳥族が、その制度に従うとは思えない。つまり彼らが話しているのは鳥語なのだろう。瑞英はそう結論づけ、別のことに意識を向けた。
別のところに意識を向ければ、何やら空気がごうごうと音を立てている。雨を弾くような音も聞こえた。それと同時に木々が震え上がり、葉を鳴らしている。大気が震え、低く張った咆哮が長く伸びるように響く。
何が起きているのか。瑞英は言い知れぬ怖気を感じた。
そこでまたひとり、鳥族の男がしゃべり出す。
『このままだと、策通りにことが運ばん』
『そもそも、人質はふたりいるのか? 必要だったのは兎姫だけだろう。鼠姫など取るに足らん命だ。進行を早めるためにも、殺してしまうのはどうだ』
『それは良い案かもな』
『いい加減にしろ、餓鬼どもが!!』
何やら不穏な気配が漂う中、瑞英を抱えていた男が激怒する。その男は、浅黒い肌に短い黒髪をも持っていた。小柄だが、歳は鳥族の中でもかなり年長に見える。
ゆったりとした立ち襟の上衣は深く切れ目が入っており、そこからは腰から生える一対の翼が覗いている。鳥族の証だ。男の羽根は、褐色を元に白や黒、灰色のまだら模様になっていた。男は、梟と呼ばれる種の鳥族だった。その下には白の下衣を履いている。
どこか鼠族の衣装に似ているが、それよりもゆったりとした作りをしていた。
大きな声に思わず体を震わせた瑞英だったが、歩を止めた鳥族には別の振動として伝わったようだった。それに安堵したのも束の間、肌で感じられるほどの視線が突き刺さった。
歩みを止めた一同に、瑞英は唇を噛み締めて恐怖をこらえる。明らかに何かがおかしいのだ。しかし彼女にできることは、それをただ聞き感じ取るだけであった。
『なんだよ』
『いい加減にしろと言ったのだ。そもそも今回の策は、あくまで兎姫の誘拐のみ。にもかかわらずお前たちは一体何をした? 狗族の侍女を殺す必要があったのか? どさくさに紛れて殺人を楽しむな、たわけが』
『……うるせえジジイだな』
瑞英は、冷や汗が止まらなくなった。
これがおそらく、『覇気に当てられる』ということなのだろう。普段はそんなものを感じない彼女でも、今回ばかりは本能で感じ取った。覇気は覇気でもそれは、殺意のこもった覇気だ。彼女がいつも感じているものとは全く違う。
一気に険悪な雰囲気に染まったそこでは確実に、年長の男が爪弾きにされていた。
それもそのはず。男以外の鳥族は、血気盛んな若者たちだったのだ。誰も彼も、竜族を八つ裂きにしたいと思っているような者たちばかり。むしろ彼らは、竜族領にいる者ならば容赦せず潰そうとすら思っていたのだ。
嫌悪感を隠そうともせず、若者のひとりが嘲笑を浮かべながら吐き捨てる。
『抵抗したから殺しただけだろ? それの何が悪い』
『既に縛られ転がされていた者を殺しただろうが』
『うるせえんだよ。竜族領にいるやつなんて、誰もが敵だろうが』
『それがおかしいと言っているのだ! お前たちが今やっていることは、暴力にものを言わせて我らの領地を破壊し尽くした竜族どもと一緒だ! そう、あの日、わたしの妻と娘を殺したあいつらと!!』
叫び、年配の男が鋭い視線を向けた。ずぶ濡れの男たちが対峙する。
ただならぬ様子に逃げる機会を窺っていた瑞英は、無理そうだと判断した。なんせ今の彼女は、両手と両足を縛られている。この森の中でなら「逃げられる」という無駄な自信があったが、それ以前の問題であった。
しばらく睨み合っていると、何やら雲行きの怪しさを肌で感じ始める。
『……それならお前も死んでおけよ』
『やれるものならやってみろ。森での戦闘方法すら心得ない小童どもが』
その会話が、戦闘開始の合図。
それとほぼ同時に、瑞英の体は浮いていた。
生まれて二度目の浮遊体験に、瑞英は思わず体を跳ね上げる。「あ」と声を上げたときにはもう遅かった。
抱えていた男が目を見開くが、彼は器用にも羽根を使い、枝を伝って逃走していく。その最中で瑞英は、後ろ手に縛られていた縄が切られるのを感じた。男が手にした短刀で縄を解いたのだ。
急に拘束が解かれたせいなのか、瑞英の体は固まったまま動かない。腕がまるで別物になったようだと瑞英は感じた。
気づけば、体勢は横抱きに変わっている。目がばっちり合ったが、彼は眉をひそめただけで進行方向へと視線を戻した。
『待ちやがれ!』
『待てと言われて待つ馬鹿がいるか』
何やら叫び、ふたりの鳥族が追ってくる。どうやら宇春を抱えている男はいないらしい。瑞英は賢明な判断だと思った。それと同時に、宇春が誘拐されてしまうことに並々ならぬ恐怖を感じる。しかしここでもがくのは、どう考えても得策とは言えなかった。
瑞英を抱える男は俊敏にも、木々の合間を器用に縫って逃げていく。圧倒的な数の利が向こうにあるにもかかわらず、男は賢かった。雨という天候も後押しして、男はみるみる後ろとの差を開いていく。
何故逃げているのかは分からないが、瑞英は、持ち前の勘の良さで鳥族同士の仲の悪さを悟る。どうやら鳥族側も、ある程度勢力が分かれているようだ。竜族もそうだが、強者というものはいかんせん協調性が弱い。それさえなければさらに強くなれるはずなのに、と瑞英はどこか達観した心持ちで観察していた。
どちらにしても今分かることは、この年配の男は瑞英のことを助けようとしてくれている、ということだけ。それだけが、彼女の心に希望を与えていた。
瑞英の腕の強張りが解け始めた頃、ふたりは道無き道をひたすらに進んでいた。しかしその最中、何かが落ちてきた。
瑞英たちの目の前に、回り込んだ男が立ち塞がっていたのだ。
『ちっ。上に飛んだのか』
不平を述べた男はそう言うや否、軽く羽根を広げ方向転換をする。瑞英としては遠慮したい浮遊感だった。空を自由に翔ける手段を持つ者たちとは、分かり合えそうにない。お世辞にも、他人を慮るための浮遊ではないことも一因であった。
しかしそれが、この場においての勝敗を左右した。
男の翼を、迫ってきた男が狙ったのだ。
鳥族が命と同等に大事にするものこそ、その両翼だ。彼らは飛べなくなることで大きな機動力を失うことになる。飛べなくなることは、死に直結する重大な事態なのである。
そしてそれは、本能的に理解していることだ。男は反射的に体を回し、背中から地に落ちる。ばさばさと音がし、羽根が数枚舞い踊った。
しかし瑞英はその反動の際に腕からすり抜け、茂みに投げ出されることとなる。
「っあっ!」
細かな枝が、白い肌に赤い筋を作る。髪にも枝が絡み、瑞英は痛みに顔を歪めた。
ようやく勢いが収まったが、足の自由がきかないことに気づき顔を青くする。
足の縄を解こうと横向きの状態で格闘していたところで、誰かが覆いかぶさってきた。
それは先ほど、瑞英を抱えて逃げ出した男だった。
え、と声を上げる。目が合った。男の漆黒の瞳が見開かれたかと思うと、ひどく優しげに緩む。
その顔がなんとなく、瑞英のことを心配しているときの父親の姿を彷彿とさせ。
瑞英は、無意識につぶやいていた。
「おとう、さま?」
言語は違っても、何かが伝わったのだろう。男の顔が泣きそうに歪んだ。
ぽたりと、瑞英の頬に雫が落ちる。
間を置かず。
男の腹に、鋭い剣先が突き立っていた。
右の腹に突き刺さった剣先は、横を向く瑞英の背中すれすれに落ちてきた。年配の男の背後では、勝ち誇ったように笑う鳥族の若者がいる。彼は上からさらに体重をかけていた。唇が歪み、まるで呪詛のような言葉を吐く。
『死ね』
刺されている男の顔が歪む。しかし彼はその痛みを振り払うように、自らの左腰に佩いた短剣を抜き去り勢い良く後ろに振った。
投げつけるように振り抜かれた剣は、若い男の右腕に突き刺さる。血飛沫とともに短な悲鳴が上がった。
若者が剣から手を離した隙に、男は腹から剣を引き抜く。瞬間、勢い良く血が噴き出した。瑞英の足元を、鮮血がゆっくりと染めていく。
服に降りかかったそれを、瑞英は呆然とした様子で見つめていた。
人が、目の前で殺し合いをおこなう。
その様子を見たのは、今回が初めてだった。
もちろん、餓死していく者を見たことはあった。しかしそれとこれとは全然違う。人が人の命を殺すという光景は、瑞英に並並ならぬ衝撃を与えていた。
「あ、あああ」
喉がひくつき、音とも言えない声が漏れる。それは確かな悲鳴だった。わけも分からないまま目尻に雫がたまり、こぼれ落ちる。それは雨と混じり頬を伝って落ちた。
『くそ、ふざけんな!!』
若い男が、腕から剣を引き抜きながら目を血走らせている。明らかに、正常な判断ができていなかった。利き腕を封じられた男は目を剥きながら、慣れない左手で短剣を抜き放ちがむしゃらに振り回す。
一方の年配の男は、実に冷静だった。致命傷に近い傷を負っているにもかかわらず、彼は痛がる素振りひとつ見せずゆらりと立ち上がった。
腰に佩いている長剣を抜くと、間合いを確かめながら正確に動きを封じていく。もとより剣の長さで勝っている年配の男は、余裕を持って若者を追い詰めた。短剣を持った手首ごと剣先ですくうように斬り飛ばすと、左首筋目がけて突きを入れる。
体が後ろに傾いだ若者は、血を撒き散らしながら倒れ込み、次第に動かなくなった。
その様子を上半身だけ起こし、吸い寄せられるように見つめていた瑞英は、振り返った年配の男の顔を見つめ固まった。彼は瑞英を見ると、ひどく安堵したように息を吐く。そして唇が開いた。
その後ろに迫る光景を見て、瑞英が首を横に振る。駄目だと、本能が告げていた。震えが止まない唇を懸命に動かし、彼女は言葉を発する。
「うし、ろ、」
狂気に染まった顔をした若者が、唇を歪めて長剣を振り抜く。それは、もうひとりの追っ手だった。
しかし、瑞英の言葉は届かない。
年配の男は後ろの敵に気づくことなく、やすやすと首を斬られた。
ごろりと、瑞英の足元に首が転がってくる。じわじわと広がる鮮血は、咲き誇る花のようだった。生々しい血の匂いが鼻を突き、否が応でも死を突き付けてくる。
(あ、わたし、死ぬんだな)
瑞英はそんなことを、他人事のように思った。
匂いも音も、今となってはひどく遠い。迫り来る死は、鼠姫の感覚を麻痺させていた。
ただ目につくのは、彼女を殺そうとするであろう剣先が雨粒を弾いて迫ってくるその光景だけ。
そんな中でさえ浮かんだのは、甘やかに笑む雅文の姿だった。
(あの、強くて優しくて儚くて弱い竜を、置いて逝くのか)
そんなことを思う。そう思った後に浮かんだのは、「それは嫌だなぁ」という感情だった。
できることなら、ずっとそばにいたい。あの竜をそばで支えたい。そう強く想う。
しかし今さらそれを自覚したところで、何もかもが遅い。死は目前にまで迫ってきていた。
「瑞英様!!!」
瑞英が我に返ったのはそんな、聞き慣れた声が響いたときだった。
それと同時に、何かが降ってくる。普段は頼りなさげに見える姿は一変、ひどく殺気を帯びて尖っていた。
彼女は腰の剣を振り抜くと、全身を使い男の剣を受ける。若者は慌てた様子で羽根を広げ、後ろに後退した。
藍色の髪を濡らした侍女はぬかるむ地面に柔らかく着地すると、普段の侍女服とは違う動きやすい衣装を濡らしながら追撃を始める。
それは、藍藍だった。