18.焦燥
手にしている茶器がぱきん、という音を立ててひび割れる。
その直ぐ後に茶器が割れ、中に入っていたお茶もろとも卓の上に落ちた。
それは、雅文がちょうど昼休憩のために別卓で茶を飲んでいたときのことだった。
「雅文様っ?」
幸倪がぎょっとした様子で声をあげる。しかし雅文は、それどころではなかった。
無意識のうちに、逆鱗があった首筋辺りに手を伸ばす。普段なら何もないはずのそこは、今はじんわりと熱を持っていた。遠く遠くへと、何かが過ぎ去る感覚がある。
雅文様――!!
悲鳴のような声が幻聴として耳に届く。どくりと、心臓が飛び跳ねた。
浮かんだのは、愛おしい姫の笑みだった。
「……瑞英?」
名を口にした瞬間、一気に焦燥が駆け上がる。
自らの一部が掻き消えたように疼き出す胸の痛みは、想像を絶するほどの恐怖を竜王に与えた。
胸元を掻き抱き、せり上がる痛みをこらえる。
「雅文様? 瑞英様がどうしました?」
忠臣の声も、今はひどく遠い。まるで自分だけ別の世界にいるかのような感覚に、雅文は身を震わせた。
「――失礼致します、陛下。美雨です。緊急のご報告がございます」
雅文を現実に引き戻したのは、扉越しにかけられた硬質な声だ。返答も待たず直様入室した美雨は、殺気をたぎらせながら眉を寄せていた。戦に出る前のような表情だった。
「先ほど、瑞英様を護衛していた双子から報告があがりました。宇春様と瑞英様が、鳥族の男たちによって連れ去られたようです」
「……なんだと? 後宮の警備はどうなっているんだ!!」
幸倪が珍しく口調を崩し、声を荒げる。しかし美雨の声は、できる限り怒りを抑えようと努めたものだった。
「それと同時に宇春様付きの侍女、八人のうち四人が殺されました。今そちらに人を回しましたが、この雨の中です。匂いを追っての捜索は難しいかと存じます」
それを聞き、雅文はこうべを垂れる。部屋の中に、殺気とも言えない何かが膨れ上がった。湧き上がる覇気は普段の比ではない。幸倪と美雨でなければ、その場にいることなどできなかっただろう。
そんな最悪の報告を聞いた直ぐ後、再び扉が叩かれた。
「雅文、俺だ。栄仁だ。入るぞ」
切羽詰まった様子でそう言い放ち入ってきたのは、兵部尚書だった。
彼は入ってきた瞬間、尋常ではない覇気とその場に集まる人物たちを見て眉をしかめる。しかし怯えることなく歩を進めた。
栄仁は、雅文や幸倪、美雨の同期だ。その中でもこの男は、雅文の覇気に耐え切れる希少な人材である。口調が砕けていたのは、それだけ付き合いが長いことを指している。ただそうだとしても、こういった場で口調を崩すのは珍しい。
彼は整えていた髪を乱暴に掻くと、低い声で告げた。
「――鳥族の奴らが攻め込んできやがった」
場に戦慄が走る。そしてその謀ったような頃合いに、それが意図して起こしたことだと三人は気づいた。
「数は」
言葉少なに雅文が問う。が、栄仁は首を横に振った。
「悪いが、雨のせいで正確な数が分からん。ただかなりの数いることを念頭に、今は対応している」
「わざとですね」
「ええ、わざとでしょう。本来の目的は、兎族の姫の誘拐かと」
「……おい待て。兎姫が誘拐されたのか? まさかあいつら、前と同じことをするんじゃねえよなっ?」
「いえ、事態はさらに深刻です。雅文様の番であられる瑞英様も、共に誘拐されました」
姫君が誘拐されたということは、鳥族は人質として扱うつもりなのだ。その中でも兎姫を選んだのは、かの一族が一番花嫁に選ばれていたからだろう。しかしそれならばまだ良かった。
いったい誰が、鼠姫が巻き込まれて共に誘拐される未来を想定しただろう。
栄仁が息を飲んだ。彼にもすでに、唯一無二の存在がいる。それが近くからいなくなると考えただけで気が狂いそうなのに、雅文にそれが起きてしまったのだ。
栄仁は雅文を見た。
雅文は両手を固く握り締め、堪えるように下を向いている。
「……そんな状態で言えることじゃねえが、雅文。総指揮を頼む。俺は二姫奪還のための編成班を作る」
「いえ、その編成班はいりません。わたくしと瑞英様の侍女たちを、奪還のための極秘班として向かわせてくださいませ」
「だけどこの天候だぞ。そんな少数精鋭で見つかるのか?」
「多人数を裂けるような状態ではありません。ましてや、瑞英様の存在を向こうに知られるわけにはいかないのです。派手に動けば動くほど、ばれる確率が高くなるとわたくしは思います」
「んな面目よりも重要なのは、雅文の心の安寧だろうが! こいつの心境を考えろよ!!」
「そのようなこと分かっております。ですがそれでは、今までの偽装工作が無になります。あなたはその行動で、瑞英様にどれだけの危険が降りかかるか分かっていらっしゃるのですか!」
「そもそもお前の守りが悪かったから、鼠姫が誘拐されたんじゃねえのかよ!」
「ふたりとも落ち着けっ!! 雅文様が耐えているのに、お前たちが言い争ってどうする!」
幸倪の仲介により、ふたりはようやく我に返った。目を見開き、一斉に視線を竜王に向ける。
美雨は栄仁から言われた最後の一言に、その通りだと唇を噛んだ。遠くから護衛として双子の侍女を置いていたが、それだけでは足りなかったのだ。悔やんだところでどうにもならない。しかし部屋の中に押し込んでいたら良かったか、と問われれば、彼女は頑として否定する。あの姫に、今までと同様の苦痛を与えることはできなかった。
雅文は今直ぐにでも駆けつけたい気持ちを理性で抑え込み、組んでいる手の力を強めた。
そして美雨の気持ちを悟ったように、彼女に向けて命ずる。
「美雨。そなたに瑞英のことを任せる。わたしならば、彼女がどこにいるか粗方見当がつく。直ぐに班を編成し、捜索に向かえ。この天候では、あまり遠くにはいけん。速やかに奪還せよ。姫たちが無事ならば何をしても構わぬ」
「御意に、竜王陛下」
「……あまり自分を責めるな、美雨。瑞英を自由に歩き回らせていたのは、決して悪いことではない。あの姫に笑みが増えたのは、間違いなくそなたの配慮のおかげだ」
「……はい」
美雨は裾を払い下腹部に手を当て、軽く膝を曲げる。万福礼と呼ばれる起拝の簡易礼だ。普段ならばそつのないその動作は、少しばかり震えている。
栄仁は雅文の言葉でようやく、自らの失言に気づいた。思わず口を押さえた彼を、美雨の番である幸倪が冷めた目で見る。突き刺さるような視線に、兵部尚書は「すまん」と絞り出すような声をあげた。
雅文は簡潔に、瑞英の気配がする場所を言った。このときほど、自身の逆鱗を飲ませておいて良かったと思ったことはない。おかげで雅文には、鼠姫の居場所が手に取るように分かった。
それは竜族領にほど近い小さな浮遊島だ。どうやら小島と小島を渡りながら逃走しているらしい旨を伝えると、琥珀の竜姫は頷いた。その目には闘志が宿っている。
長い袖を振り、美雨はすぐさま部屋を後にした。
その後ろ姿が見えなくなった頃、雅文は幸倪の目を見た。
「幸倪は軍部に通達。鳥族と交戦を始めると伝えよ。わたしも直ぐに向かう。向こうが優先しているのは姫の誘拐だ。ゆえにあまり過度に攻めてはこないだろう。前線に出る者には、あまり前に出すぎるなと言い含めておけ。軍部の指揮は任せた」
「応」
それから栄仁の翡翠色の目を見ると、
「栄仁、竜宮内に厳戒態勢を引け。各尚書に通達後、竜宮の近衛兵を動かせ。領への被害を最小限にとどめよ」
と言った。栄仁は瞳孔を細めるとひとつ頷く。
「心得た」
そう言い終えると、足早にその場を後にした。
命令を伝えるために部屋を出て行こうとした幸倪は、ふと後ろを見る。そこには未だに固く両手を握り締め、俯く雅文の姿があった。
今まで見たことがないほど、竜王の姿は弱々しい。幸倪は息を飲んだ。思わず声が出る。
「雅文様」
「……なんだ」
「たとえ何があっても、負の感情にだけは囚われないでください」
黒竜はそれだけ言うと、一礼してから立ち去った。
ようやくひとりになった雅文は、瞼をきつく結ぶ。自らの無力さを実感したのは、これが初めてだった。
瑞英を秘匿し続けるならば、彼はこれからもその痛みに苛まれる。立場の違いというものを痛感する。そしてそれは直接、瑞英の竜宮内での立場を決めることにもなるのだ。
胸の内に、どろどろとした感情が落ちてゆく。埋まったはずの虚が渇いていった。
「瑞英。わたしは、どうすればいい……?」
雨音がささやかに聞こえる部屋で、雅文の悲嘆に暮れた声が響く。そのすぐ後にやってきたのは、鳥族に対する怒りだった。ふつふつと湧き上がるそれはやがて、大きな岩漿のようにたぎる。それと同時に、感情が凍りついていくのを感じた。
自身が最も愛する番をかどわかされた竜王は、底冷えするような威圧で大気を震わせる。
窓硝子が派手な音を立てて割れる。
手元にあった茶器たちは見るも無惨に散り散りになり、卓の上に転がった。
調度品という調度品が破壊され、部屋は荒らされたような風貌に様変わりする。
ゆらりと立ち上がった雅文は、幸倪からの言葉を思い出す。古くからの側近は彼に、狂うなと言いたかったのだろう。
しかし止まらない。止められない。
虚が埋まらない限り、雅文の渇きは満たされない。
欲しいのは紛れもなく、あの可愛らしい姫だけだった。彼女さえいれば、雅文はもう何もいらない。
いつになく冷たい顔をした竜王は長い裾を翻し、足元に転がっていた木片を踏み潰した。
曇天の空から、雨がぽつぽつと降り注ぐ。
次第に強さを増していく雨の中、広場には数百の兵士たちが整列していた。
その端には美雨と藍藍、鈴麗、鈴玉もいる。彼女たちはいつになく固い顔をして唇を引き結んでいた。
それはそうだろう。特に双子は、姫たちが連れて行かれるのを目の前で見ているのだ。怒りを抱かないわけがない。
それを一瞥した雅文は、袖を払い兵士たちの前へと向かった。
そこには既に幸倪がいる。彼は漆黒の髪を雨粒で輝かせながら、気遣わしげに雅文を見つめている。
それを見たせいか、先ほどよりも理性の方が上回った。怒りをできる限り抑え込み、彼は兵士たちの顔を確認するために視線をぐるりと回す。彼らは無言のまま視線を向け、竜王からの命令を待ち望んでいた。
それに応えるように、竜王は粛々と言葉を発する。
「此度の鳥族の襲撃により、我が後宮で咲く花が二輪、彼奴らに奪われた。これは由々しき事態だ」
それを聞いた兵士たちがにわかに騒がしくなる。雅文から発せられた言葉に動揺しているのだろう。互いに顔を見合わせ、困惑げな表情を浮かべていた。
その不安の波紋が広がりきる前に、雅文がひときわ声を張り上げる。
「以前のような悲劇を繰り返して良いわけがない。そうであろう、皆。此度の暴挙、決して許せることではない。そのために、皆の力を借り受けたい」
凛とした声音が動揺を掻き消し、場に新たな波を生み出した。兵士たちが次々に同意の雄叫びをあげる中、氷王は濡れた袖を横に振るう。
「我ら竜族、最強の覇者。負けは要らぬ! そうであろう!」
「応!」
「ゆえに此度の件をもって、奴らに再び知らしめよう! ――空を制するのは、我ら竜族だ!!」
『応!!』
竜王直々の宣誓に、兵士たちの士気は最高潮に達した。
銅鑼を一斉にかき鳴らしたような声が広がる。それは地を震わせ、空を震わせ、確かな威圧となって世界に広がった。
兵士たちが、光の粒を撒き散らしながら竜化する。野太い雄叫びが響き渡った。
それを見届けると、雅文も竜化する。大きな風が一陣巻き上がり、純白の光が弾けた。
瞬きほどの後そこにいたのは、黒銀の鱗を持った巨大な竜だった。
他の兵士たちと比べても群を抜いて大きく美しい竜王は、ひとつ大きく吼える。それは、瑞英を攫った鳥族たちに向けた咆哮であった。孤島が震えるほどの威圧を放った雅文は、大きな翼を広げはためかせると空へと飛び立つ。
これでもう、怒りを抑える意味もなくなった。
雅文は黒竜とともに飛び立つと、眼前に向けて視線をやる。そこには武器を所持した鳥族たちがいた。浅黒い肌に腰辺りから生える翼はまさしく、鳥族のそれだ。
それを認めた瞬間、内側にくすぶる怒気が爆発した。一度たがが外れたそれを、戻すことは容易ではない。だからこそ雅文は、心ゆくまで開放することにした。
『我が麗しに手を出したこと、地獄の底で後悔するがいい』
低い声でそう唸った氷王はその顎を開き、絶対零度の炎を吐き出した。