16.静穏
今日は雨が降っていた。空には陰気な雲がかかり、ざあざあと降り注ぐ雨粒は幾度も窓を叩いている。
瑞英は滅多に見ることのない雨を見て、とても感激していた。それを見た侍女たちが微笑ましそうに見つめるのも、もはやここでは日常茶飯事である。
そんな、雨の日だった。
「瑞英様。本日、陛下の渡りがございます」
「……夜、陛下がいらっしゃるのですか?」
瑞英が、渡りの知らせを聞かされたのは。
時間帯で言うなら、夕餉が終わり茶を飲んでいたときだった。美雨がそう言ってきたのだ。
目を白黒とさせた鼠姫に、侍女たちは皆表情を緩めて頷く。
「とうとう、とうとうやってきましたね、瑞英様!」
「ですね! 楽しみですね!」
鈴麗と鈴玉が満面の笑みをたたえて瑞英を見る。彼女はいたたまれなくなり、目を逸らした。そんなに喜ばれるとは思わなかったのだ。因みにとうとうという言葉には、竜王の渡りの順番にある。彼はすでに、他の姫との渡りを済ませていた。
さらに言えばここ十日ほど、瑞英と雅文が顔を合わせる機会はなかった。雅文が、書庫に来なくなったのだ。
雅文が書庫にこなくなった件に関して美雨は、
「ええ、どうやら、色々と忙しくなったようでして」
と言葉を濁した。どうやら開けっぴろげに言える内容ではないらしい。
それを言われる前に感づいた瑞英は、その件に関しての穿鑿をするのはやめようと胸に誓った。何かあるようなら言ってくれるだろう、と思っているのもある。つまり、現状を楽観視していたわけだ。
瑞英があからさまに目を逸らし出された茶を飲んでいると、藍藍が尻尾を振りながら笑みを浮かべる。
「陛下と会う機会が減ってから、少し落胆してましたもんね。良かったですね、瑞英様!」
「ら、藍藍は余計なことを言わなくて良いから!!」
古くから仕えているからか、瑞英の違いを感じ取っていた藍藍は少しにやついた顔で手を叩く。慌てて藍藍を叱りつけたが、しかしときすでに遅し。他の侍女たちもそれを聞き、柔らかな眼差しを向けていた。
顔を真っ赤にして藍藍を睨んだが、どこ吹く風だ。どうやら竜族領にきて、悪い意味でも成長したらしい。
そっぽを向いた瑞英は、なんだかんだ言って会うことが嬉しい自分がいることに気づき、内心で頭を抱えた。
***
侍女たちにあらかた弄られた後、湯浴みを終えた瑞英はひとり寝台でそわそわと体を揺らしていた。
寝室に放り込まれたのはいいが、手持ち無沙汰だ。手は自然と、例の飴色の書に向く。開けば、かろうじて解読できた部分が綴られた紙が挟まっていた。内容が内容なだけあり、隠し難い木簡に書き込むのはさすがにためらった。そのため、泣く泣く紙に書いたという経緯があったりする。
ただこんなブツ切れで、内容が読めるはずもない。瑞英はぴらぴらと紙を揺らしながら、どうしたものかと首をかしげる。
ぱらぱらと頁を何度かめくったが、気がおさまったのはそこまでだった。
扉が叩かれたのだ。
びくりと身を震わせた瑞英は、開いていた書に栞よろしく書きかけの紙を挟み込み、近くに置いてある卓に置く。そして再び寝台に腰かけた。
「ど、どうぞ!」
声が裏返ってしまったのは、それだけ緊張がぶり返したということだ。
ひとつ間を置いて、竜王が入室する。
「瑞英」
「え?」
名を呼ばれると同時に、瑞英の体は真後ろに倒れ込んだ。
雅文の腕が、瑞英の頭の横に突く。さらりと、肩から銀髪が流れた。彼にしては珍しく、衣から白檀の香りがした。
真上には、美麗なかんばせが見える。しかしその顔は、見たことがないほどやつれ憂いを帯びていた。
どくりと、胸が大きく鳴る。
歴代最強と名高い竜王とは思えないほど弱い姿を目の当たりにした瑞英は、思わず口を開いていた。
「雅文、さま?」
名を呼んだ瞬間、彼の顔が泣きそうに歪む。しかし口元には、堪え切れない笑みが浮かんでいて。安堵したような表情に、瑞英の心も少しばかり満たされる。
そっと手を伸ばし、彼の頬に触れる。相変わらずの冷たい温度が、指を伝って落ちてきた。
その手の上から大きな手を重ね、雅文は甘えるように頬を擦り寄せる。
「瑞英。顔を合わせるのは、久方ぶりだな」
「……そうですか? 十日ぶりですので、そこまででもないかと思いますが」
「わたしは寂しかった」
「それ、は」
「瑞英は。わたしと会えずとも、良かったのか?」
瑞英の顔が、羞恥でみるみる赤く染まる。顔を隠そうにも右手は彼の頬に。左手は、それを悟ったかのように掴まれてしまった。
仰向けに寝ている状態では、髪で隠すこともできない。鼠姫は身悶えた。しかし逃れようがない。
答えを求めるような視線に耐え兼ね、瑞英はゆっくりと口を開いていく。
「わた、しも……さみし、かったです」
言って、余計に顔が赤くなる。今の瑞英は柘榴のように熟れた顔をしていた。
王はそれを聞き、瞳をとろりと緩ませる。そして至極自然に、瑞英を抱き締めた。
「そうか。ならば良かった……」
上に乗っているからといって押しつぶすわけでなく、むしろ包み込むような柔らかい抱擁だった。白檀に混じり、緑の匂いがふわりと香る。
それにくすぐったさを感じながら、ふたりは横向きに寝て向かい合った。
幸せそうに微笑む雅文に、しかし瑞英は眉を寄せる。
「雅文様。顔色が悪いですが、寝ていますか?」
「……わたしはそんなに、疲れた顔をしているか?」
「はい、かなり。それに、最近政務が忙しいと聞きました。……あまり、無理をしないでください」
また今のような顔をされると、とても心苦しい。そういうと、雅文は穏やかな顔をした。
「ならば、今日はここで寝ても良いか?」
「えっ!?」
竜王は、柔らかい顔でとんでもないことを言った。
瑞英は顔を真っ赤に染めながら口を開閉させる。彼女が慌てていることをいいことに、雅文は姫を抱きかかえながら寝台にもぐりこんだ。掛け布をしっかりとかけ、瑞英の髪を梳く。
我に返った鼠姫は、首を左右に勢い良く振った。
「駄目、駄目、絶対に駄目です!!」
「なぜだ。そなたはわたしの番であろう?」
「た、確かにそうですが……!」
両腕をまっすぐ伸ばし、なんとか抵抗しようと足掻く瑞英。だが、わずかに悲しそうな顔を見せられうっ、と喉を詰まらせる。
「瑞英はわたしが嫌いか?」
「そ、そういうわけではないんですが……」
「ならば――そばにいてくれ」
瑞英はくらくらした。
哀愁漂う声音と憂いを帯びた表情。それをこの顔の整った王がやると、とんでもないくらいの破壊力がある。
結局、瑞英は折れた。折れざる得なかった。
こくりと頷いた鼠姫に、竜王は嬉しそうな顔をする。
そして少しも経たないうちに。
「……眠ってしまわれた」
雨音だけが響く静かな部屋に、途方に暮れたような声がひっそりと広がった。
瑞英は瞼を閉ざしてもなお美しいかんばせをじっと見つめる。
端正な顔は目鼻立ちがくっきりとしていて、肌も白い。なんとはなしに髪に手を伸ばし、そっと触れてみた。少し硬いが滑らかな感触がした。
そんなとき、瑞英の頭に先ほどのことが浮かぶ。
『そばにいてくれ』
雅文は、哀しそうな顔をしてそう言った。
あの、氷王と名高い竜族が。
弱小鼠姫に、そう願ったのだ。
瑞英の胸が、引き絞られるように痛み出す。
この感情がなんなのか、彼女には分からなかった。しかし衝動的に両腕を伸ばし、雅文を抱き締める。そうすると、なぜが心がとても落ち着いた。
鼠姫は唇をほころばせ、うっそりとつぶやく。
「おやすみなさい、雅文様……」
目を閉ざすと、だんだんと雨音が遠退いていく。
その心地良い音を聞きながら、眠りにつく。
気がつけば、普通ならば目に見えない者たちによって灯りが落とされていた。
人ならざる者たちは、そんなふたりの姿を見て密かに空気を揺らす。
そして異なる輝きを放つ銀髪をひと撫でし、その場から姿を消した。
雨上がりの朝の空は、すっかり青空を覗かせている。
そんな中、普段通りの時間に起床し姫の部屋にやってきた美雨は、部屋の前で立ち往生している侍女たちを見て首をかしげた。
「どうしたのですか?」
「お、おはようございます、美雨様」
「おはようございますです、美雨様」
「おはようございますです、美雨様。えっとですねー……覇気が強くて、入れないのです」
「……ああ、確かに」
そこまで来て、美雨はようやく気づいた。そういえば昨日、陛下が渡りにきたのだと。
最近ひどく忙しく瑞英に会えていなかった雅文のことだ。共に寝ているのかもしれない、と思い、美雨は部屋の前に侍女たちを待たせ自らのみ中に入る。
そこから寝室の扉を開き――言葉を失った。
竜王と鼠姫が、寝台で眠っていたのだ。
何よりも驚いたのは、ふたりがあまりにも穏やかに、仲睦まじく眠っていたことである。
まるで、守っているかのように。
華奢な姫は、自らの体をめいっぱい使い王を抱き締めている。
美雨は、雅文が穏やかに眠っているのを初めて見た。普段ならば、足音や羽音が聞こえただけで起きるのだ。それほどまでに警戒心が強いあの王が、姫がいるだけで柔らかい表情をする。
その光景に釘付けにさせられた美雨は、袖を引っ張られ我に返る。
見ればそこには、竜族だけしか見えない精霊がいた。
美しい衣をなびかせた水の精霊は、優しく笑み唇に立てた人差し指を添える。そして首を横に振った。美雨は目を見開き、ひとつ頷いた。
そのまま扉をゆっくりと閉ざした竜姫は、外で待つ侍女たちに向けて言う。
「今日だけは。ゆっくりと眠らせて差し上げましょう」
顔を見合わせた侍女たちは、笑みを浮かべ頷く。
そして各々の仕事をやり始めた。
洗濯物を洗うために水場にやってきた藍藍は、燦々と差し込む太陽を見上げる。
「ここでなら。……瑞英様は、幸せになれるかな?」
誰に問うでもなくそうぶつやくと、彼女は水を汲み始めた。