15.宇春
夜。宇春は、先ほどお達しがあった竜王の渡りのために、客間の長椅子に沈み込み身を固めていた。その様は何やら決意したような意気込みが感じ取れる。
実を言うと、宇春が竜王と面と向かって顔を合わせるのは初めてではない。兎族はその性質柄、竜族に多くの献上をし、自身の一族の中でもとびきり麗しい姫を会わせて覇気に慣れさせるよう訓練していた。
宇春はその際、一度だけ雅文と会うことができたのだ。
最強の竜王の渡りのため、侍女たちはすでにいない。いても使い物にならなくなるだけだからだ。そのため私室は普段以上に静かで、外から吹き荒ぶ風の音が妙に大きく響いた。
びゅうびゅうと音が鳴るたびに、宇春の緊張が高まる。がたりと窓が悲鳴をあげると、その華奢な肩が震えた。綿のように柔らかい耳をいじりながら、宇春は気を紛らわせる。そして自分自身に言い聞かせるように、心中で言葉を繰り返す。
わたしは、陛下とお話がしたいのです。だから、早々に倒れるわけにはいきません。
決意も新たに身を正したとき、扉が四回叩かれた。宇春の耳がピンっと張り棒のようになる。扉越しですら感じ取れるぴりりとした痛みに、宇春は玉を飲み込むように息を吸い込んだ。
ほどなくして声がかけられる。宇春は膝をつき、起拝の形を取った。
「わたしだ。入るぞ」
「……どうぞ、陛下」
返答が聞こえて直ぐに雅文が入室した。それと同時に、先ほどとは比べ物にならない圧が宇春の身を押し潰す。
喉の奥から漏れそうになる声をなんとか押しとどめ、宇春は自らの本能を押し殺した。
一般的な竜族の覇気が慣れで緩まるのとは違い、竜王のそれは慣れるまでには相当の時間を食うものだった。特に弱者である兎族は、自らの脅威に敏感だ。
それを一度会って知っていた宇春は、湧き上がる逃避本能を強かな精神で抑え込んだ。兎族は、見た目の割に狡猾なのだ。でなければ獣族の順列で言えば下から二番目の彼らが、並みいる上位獣族を押し退け図々しくも竜族との拝顔を願ってまで覇気を慣れさせようとなどしない。
されど震える手は抑えられず、宇春は唇を噛み締めながら口を開いた。
「へ、いか。こ、こちらの、お席へ、どう、ぞ」
「ああ」
宇春は自身の向かい側に位置する椅子へと雅文を誘導する。彼はひとつ頷き、そちらに腰掛けた。宇春の耳に、彼の足音が響く。
氷王。
その名に違わぬ氷のような眼差しと、研ぎ澄まされた刃を思わせる銀髪。何をとっても完璧な竜王は、宇春にとっての希望だった。
宇春は知っている。なぜ今まで、兎族の姫がこれほどまでに多く花嫁に選ばれてきたのか。誰も口にしたことはないが、分かっていた。宇春が分かっているということは、今まで花嫁として生きてきた他の兎族の姫たちも、それを悟っているということでもある。
それは、一番御しやすいからだ。竜族は別に、妃に意見を挙げることを求めていなかった。欲しいのは、ひときわ見目の良く従順な娘だったのだ。
その中でも特に兎族は、竜族内の政治について口を出さない。それは兎族が、どう足掻いても竜族に勝てないことを悟っているからである。
その上兎族は他の獣族たちとは違い、武力でなく知力で生き残ってきた種族だ。いざとなれば兎族は、領地を丸ごと蹂躙され殺されてしまうだろう。彼らは賢く狡猾だが、ひときわ臆病だった。
だからこそ竜族に嫁ぐための教育を受ける姫は、人形のように美しく物言わぬことを刷り込まれていた。
兎族のみに限らず、竜族に婚姻を申し込んでくる獣族の目的は彼らの加護だ。それさえあれば特に何も求めない。他獣族が竜族と交わっても、子を成すことはないのだ。竜族もそれは求めていない。渡りと言っても、竜王と会話する機会があるだけである。
四姫の召し上げという前代未聞な事態に、各獣族がさほど慌てないのもそのためだった。たとえ四姫であろうと一姫であろうと、加護が与えられることは変わらない。竜族はそう言った通達を姫君たちの王族に出したという。
後宮内で過度な凌ぎ合いが起こらないのも、それが理由である。――兎族とは隣になりたくないと文句を垂れた割に、猫族は何かと絡んでくるが。
それを思い出し、宇春は微妙な顔をした。
「どうした、宇春」
「い、いえ!」
雅文が不思議そうな顔をしたのを見て、宇春は慌てる。だが先ほどより緊張がほぐれていた。今日ばかりは猫族の姫に感謝しなくてはならない。
改めて深呼吸をした宇春は、軽く頭を下げる。
「竜王陛下。此度はご拝顔叶い、嬉しゅうございます」
「ああ。そなたも座れ」
「はい、失礼いたします」
不思議と、先ほどよりも覇気を感じなくなっていた。ゆったりとした動作で腰掛けた宇春は、視線を彼の首元に向ける。
「久しいな、宇春。息災にしていたか」
「はい、陛下。……あなた様のおかげで、こうして自由に学ぶことも叶いました。感謝してもしきれません。本当に、ありがとうございます」
「そうか。それならば良い。ゆるりと励め」
「はい」
そう。宇春がこうして薬学を学べているのは、雅文のおかげだった。一度だけ顔を合わせた際、宇春が彼に懇願したのだ。それが理由かは分からないが、宇春はこうしてここにいられている。彼女にとってそれは、何ものにも変えがたい希望だ。彼女のその気持ちを知っているからこそ、幼い頃から仕えてくれている侍女たちも自由に行動させてくれている。
何より嬉しかったのは、雅文がそれを覚えていたことだ。
宇春は一歩踏み出せたような気がして、わずかにはにかんだ。
そこで思い出したのは、昼間に出会った鼠姫。
宇春よりさらに小柄な彼の姫は、宇春に初めてできた友人だ。
普段の宇春ならば、触れてはいけないことだと悟り何も言わないだろう。しかし友人になったからこそ、彼女には気にかかることがあった。
宇春は、そんな鼠姫に関する疑問を雅文にぶつけた。
「陛下、聞きたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「構わぬ。どうした」
「鼠族の姫……瑞英様を、陛下はどうして見初めたのでしょうか」
言い終える前にびりりと、背筋に悪寒が走る。
はっと目を見開いた宇春は、凍てついた眼差しを向ける雅文に畏怖した。かちかちと歯の根が鳴る。堪えきれない目眩がしてきたところで、雅文が口を開いた。
「なぜ、そのような問いをする」
「それ、は……おかしいと、そう、思ったからです」
息を切らしながらも、宇春は気丈に言葉を発する。
多くの獣族は、鼠族など気にも留めないことだろう。覇気に当てられても気を保つことができたという珍獣的な扱いで、竜王の気まぐれを起こしたと思うかもしれない。
しかし弱者だからこそ、宇春には分かる。それがどれだけ異常なことかを。
「わたしたち下位の獣族は、本当に弱いのです。だからこそ、強者には敏感です。それが生きるために必要不可欠なものだから。だからわたしは、瑞英様がおかしいと感じました」
何の訓練もなく覇気に耐え切れるなどということは、ほぼあり得ないのだ。それがあり得たのなら、兎族はここまで苦労していない。特に本能は、生物の根幹に位置する重要な機関だ。それが動くからこそ正常なのである。
雅文は黙ったまま、宇春の話を聞いていた。
「だからわたしは、考えました。もし、瑞英様が、陛下が求めている方ならば、好いている方ならば、と。それなら、あり得るのではないかと思ったのです」
「……その話は、他の者にしたか」
淡々とした声音で、雅文が問う。宇春は首を横に振った。実を言うと今日瑞英に会うまで、宇春も気に留めたことがなかった。宇春が気付いていなかったならば、他の者たちが気づくはずもないだろう。弱者の感覚が分からないのだ。
面と向かって顔を合わせ、宇春は感じた。鼠姫は、一般的な姫と何かが違うと。
雅文が溜息を吐き出した。その視線が横にある卓へと注がれる。
それを見、雅文の表情が変わった。
「あの書は」
「え?」
「あの書は、瑞英から借りたものか?」
宇春は、慌てて後ろを振り返った。そこに置かれていた植物図録が目に入り、あ、と声をあげる。
借りたのはいいがどこに置いたらいいか分からず、こちらに持ってきてしまったものだ。雅文が来る少し前まで、彼女はそれを読んで心を落ち着かせていた。
「はい。今日の昼、お会いして……友人に、なりました」
宇春が瑞英に抱いた気持ちは、嫉妬でも羨望でもなく。ただただ共に学びたいと思う、学友のような関係だった。女としての幸せを求めるより、宇春は学ぶことの幸福を願っていたからだ。
むしろ友人として、瑞英の恋愛を応援したい気持ちすらある。兎姫は予想を超えてかなり淡泊だった。
「初めてできた友人を、わたしは大切にしたいと思っています。彼女は、優しい方でしたから」
「左様か。……その言葉、ゆめゆめ忘れるなよ」
「承りましてございます、陛下」
そう言い終えると、雅文は立ち上がり退席してしまう。宇春は無礼なことも忘れ、そのまま椅子に腰掛けていた。
彼がかなり遠くに行ったとき、ようやく意識を現実に戻す。
「わたし……はな、せた?」
あの、竜王陛下をお相手にして?
宇春はぽつりとぼやいた。
彼女はふらふらと寝室の扉を開き、寝台に飛び込んだ。寝巻きに着替えることも忘れて日の光を浴びた布にくるまる。どことなく、安心する匂いだ。
一気に気が抜けた宇春は、寝台に沈み込んだまま目を閉じる。珍しく眠気がやってきたのだ。
ここにきてから、宇春は悪夢に苛まれ続けていた。それは彼女が兎族領で受けてきた、数々の折檻と名ばかりの教育に関してだ。
幼少の頃から、彼女は完璧な淑女になるべく教育され続けていた。ひとつでも間違えれば暴力を振るわれ、二度と同じことがないように言葉で脅される。何度も何度も虐待を受け、美しくたおやかな女性になるための努力を強要され続けてきた。その中でも一番優秀だった宇春は、こうして竜王の花嫁に選ばれた。他の姫を踏み台にして。
夢に現れるのは、痛みと恐怖の記憶と選ばれなかった姫君たちの責め苦だった。
幾度、声をあげて泣いただろう。
幾度、折檻に抗おうと心を奮い立たせたろう。
やがて諦めることを知った姫は、心の底から笑うことも泣くこともなくなった。
「……ふ、ぅ……っ」
そのはずなのに。
なぜだろう。こんなにも涙が溢れるのは。
なぜだろう。化粧で仮面をつけたはずの心が、こんなにも痛むのは。
宇春は、今まで押し殺していた感情をようやく吐露した。
掛け布に顔を押し付けた兎姫は、化粧で整えた顔がぐちゃぐちゃになることも厭わず声をこらえて咽び泣く。
泣き疲れた姫はそのまま、深い眠りに落ちた。侍女たちが再びやってきても、臆病で神経質な姫が起きることはない。その顔は涙で濡れていたが、幸せそうにほころんでもいた。
宇春が眠る前に浮かんだのは、「行ってらっしゃい」と微笑む選ばれなかった姫君たちの、優しい言葉だったのだから――