12.逢着
花嫁候補たちの大移動が終わってから五日後。どうやら猫族の夢花のもとに、竜王陛下の渡りがあったらしい。
瑞英がそれを知ったのは次の日の昼、夢花自身が得意げに、その件について話をしにきたためである。
「瑞英様、聞いてくださいまし! 昨夜、陛下の渡りがあったんですの!」
「はあ」
美雨の教育が終わった直後、突如としてやってきた夢花の第一声はそれだった。とは言ったものの、瑞英の反応は至極淡白だ。ちらりと美雨が瑞英のことを一瞥したのが見て取れたが、瑞英としては別に気にするようなことでもなかった。
その理由は明確。瑞英が毎日のように、書庫で雅文と顔を合わせているからである。
瑞英のここ最近の習慣はこうだ。午前中に美雨の指導、午後に書庫へ向かう。予定を詰めると言っていた美雨だが、どうせすることが勉強だと分かったからかなのか、自由な時間のほうが多かった。
この渡りで瑞英のみに降りかかる愛が分散しないかと考えたが、以前聞いた美雨の話を聞く限り無理だろう。瑞英は少しだけ遠い目をした。
むしろ渡りがあったというのは、実に好ましい事態だ。雅文は、他の姫を蔑ろにするつもりではない、ということである。政略結婚が多いこの世では、嫁ぎ先で空気のように扱われることも少なくない。それがなんとなく嬉しく思えた。
何より嬉しいのが一番はじめの渡りに、夢花を選んでくれたことである。
自らを適当に扱われると怒り出すくせに、自分からは決して動こうとはしないのが猫族だ。好きな者をいじめて気を引こうとし、結果嫌われる、という失敗を繰り返しそうな性格である。
瑞英の願い通りとても嬉しそうな夢花は、辺りに花を散らせながら夢中で話をしていた。
「と言いましても、一言二言お話ししただけで、わたくしのほうが耐えきれずに倒れてしまったのですが」
「そ、うですか」
それはどうなんだ、と瑞英は内心でつっこみをかます。ただ覇気に当てられてぶっ倒れたのだろうから、夢花がどうこうできる問題ではないだろう。
後で雅文を慰めたほうがいいのだろうか。いや、別に気にしていなさそうだ、と瑞英は開き直る。ただ気にはなるので、後で話を聞こうとは思った。
「間近で拝顔した陛下のお顔は、本当に美しかったですわ。氷のような眼差しにしなやかで筋肉質なお身体。黒銀に輝く美しい御髪。決してお笑いにならないところもまた素敵でした」
「そうでしたか。良かったですね、夢花様」
「ええ! それだけでも、わたくしこちらに来た甲斐があったと思いますの!」
夢花は、恋する乙女よろしくとろけたような顔でそう告げた。
雅文の容姿に関しては、概ね同感だ。涼やかな眼差しは吸い込まれそうなほど美しいし、いくら小さく細身とはいえ、一釣八斤はある瑞英を軽々と抱き上げられるのは、並大抵のことではないだろう。黒みを帯びた長い銀髪は解れもなくさらさらで、女が羨ましくなるほどの艶を放っている。さすが最強と謳われている竜王なだけある。美しさは芸術品と同等だ。
されど瑞英には、ひとつだけ分からないことがある。そのため「あの陛下が笑ってないことなんてあったか?」と首をかしげた。少なくとも彼女は、そんな姿を見たことは一度もない。むしろいつも愉しそうに瑞英を弄っていた。
瑞英がそう言ったとき、美雨は「瑞英様のお陰ですよ」と嬉しそうに笑った。現に薄っすらと笑みを浮かべながら困惑している瑞英に、美雨は微笑みを浮かべながら茶の用意をしている。
藍藍が、普通ならば下女がやるべき掃除や洗濯をやるのは、鼠族の経済状況的に仕方ないことだが、美雨や双子たちがそれをやることは瑞英にとっては意外だった。されど美雨が言うに、相当忙しいときでない限りある程度は侍女がやるのだとか。これも竜族領ならではの価値観だろう。
瑞英は美雨の近侍という立ち位置をいまいち理解できずにいるがどうやら、侍女であり護衛であり教育係でもある立場らしい。侍女と言い方を分けているのは、美雨が竜族だからだと言う。どちらにしたところで美雨は、どの分野においてもとても優秀だ。
今日の茶は白茶だった。茶菓子には山査子の砂糖漬けが出される。
白茶など、瑞英が普通に生きていればお目にかかることのない高級茶だ。瑞英はそわそわしながら茶器に口に近づけた。
ふわりと、春草のような柔らかく甘い香りが広がる。
口に含めば、自然な甘さが鼻腔を抜けた。
今までにない味に、瑞英は目を潤ませて感動する。
(この世に、こんなに美味しいものがあるとは)
山査子の砂糖漬けは赤い実が雪が降った後のように砂糖で覆われ、見た目も可愛らしい。口に含めば山査子の酸味と砂糖の甘さが広がり、思わず顔が綻んでしまった。
夢花も好物ならしく、幸せそうに菓子を食べている。
上機嫌で茶を飲み干した夢花は、それから一刻ほど話し込んだ後意気揚々と帰っていった。
瑞英は「元気だなぁ」とその背を見送りながら思う。
その後、彼女はいつものように書庫へと向かった。
書庫に来る際、侍女たちが付いてくることはない。どうやら雅文がいるということを見越しての行動であるようだ。
そのため開放感を感じながら、瑞英は手慣れた様子で書庫の扉を開く。
入ったところではたりと、首をかしげた。
中に誰もいなかったからだ。
普段ならば改めて置かれた卓に大量の紙を乗せ、椅子に腰掛け執務をしているのだが、今日はそれがない。ただ机の上に、小さな紙が寂しげに乗っていた。
それを手を伸ばして取ると、瑞英は「ああ」と納得する。
紙は雅文が置いたものだった。
内容は「急な会議があるため、こちらに来られなくなった」というもの。そんなことを知らせなくともいいであろうに、鼠姫にべったりな竜王はやけに律儀だった。
紙を折りたたみ懐に忍ばせた瑞英は、どうしたものかと顎に手を当てる。
普段ならばここで書物を読み、適当な時間に部屋に戻る。それは雅文がいたためだ。されど毎日同じ場所だとつまらない。瑞英は気分的に外で書物を読みたい、と思った。
特に深い意味はない。ただ先日見た桜の散り際を目に焼き付けたいと、そう思ったのだ。鈴麗と鈴玉が、そろそろ散り時だと教えてくれた。
決断した鼠姫の行動は早かった。
彼女は直ぐさま読みたい書物を数冊を選び取ると、書庫を飛び出す。
両腕で数冊の書物を抱きかかえた瑞英は、ぱたぱたと足を進めた。
その道中、瑞英はふと廊下の端に映る人影を見る。地味な色の衣だった。独特の匂いがする。
「……ん?」
しかし一瞬だったため、衣装の特徴や人物までは分からなかった。
疑問に思いつつも、瑞英は廊下を駆けて行った。
***
瑞英が来たのは、以前訪れた桜の森より手前にある庭だった。
そこには桜の木や色とりどりの牡丹が植えられ、大輪の花を誇らしげに咲かせている。若葉混じりの桜が降りしきる中咲く牡丹はこれまたいっそう見事で、瑞英は感動のあまりその場に立ち尽くしてしまった。
やっぱり外の世界は、素敵なものばかりだ。
表情をだらしなく緩め、瑞英はしっぽを振る。そしてこの辺りで書を読もう、と決めた。
手頃なところに日陰を見つけ、そこに腰を下ろす。大切な書物は汚さないよう、膝の上に置いた。服が汚れる分には構わないが、書物が痛むのは我慢ならない。ここでも、瑞英の書物に対する愛がいかんなく発揮された。因みに書物の風化は、精霊たちの息吹が注ぎ込まれた植物を使って紙を作るため、ひどくゆっくりとしたものになるらしい。瑞英としては自然の神秘としか言いようがない。
ようやく落ち着けたところで書物の一頁目を開く。
「……ん?」
そこで瑞英の耳は、何かをとらえた。
聞き耳を立てていると、女性のものらしい声が節をつけて流れている。どうやら誰かが唄っているらしい。
書物を大事に抱え込み立ち上がった瑞英は、そっと足を忍ばせ声のするほうへと歩いた。
唄は、庭の少し奥まったところから聴こえていた。
草木の間を縫うように足を運ぶ瑞英は、だんだんと見えてくる人影を見て目を見開く。唄を唄っている相手は地面にしゃがみ込んでいた。その背には見覚えがある。
瑞英同様小柄な体格に、その肢体を包み込む、上衣の薄紅色と下衣の桃色の色合いが美しい華やかな服装。亜麻色の髪は長く、緩やかに波打っている。髪の間からは、雪のように白く長い垂れ耳が顔を覗かせていた。
「月夜の兎……名前を取られ……寂しそうに、餅をつく」
か細い声が、そんな唄を唄う。童歌の一種だろうか。ぽつりぽつりと紡がれるそれはなんとなく寂しげで。それでいて優しくて。
瑞英はそれに惹かれて無意識に一歩、足を踏み出していた。
かさりと、服が草を擦る。刹那、音に気付いた彼女は飛び上がり、辺りを見回した。それと同時に大きな音がして、足元に何かが転がった。
それに小さく悲鳴をあげた彼女は、慌てた様子で落としたものを拾い始める。
その隙に、瑞英は彼女のそばまで駆ける。
そして顔の位置を合わせるために、そっとしゃがみ込んだ。
「こんにちは、宇春様。お手伝いさせていただいてもいいですか?」
「え……」
ガラス玉のように丸い黒目が見開かれ、瑞英のことを写し出す。ふっくらとした頬がだんだんと、薔薇色に染まっていった。
「は、い」
兎族の姫は可愛らしいかんばせを熟れた林檎のように紅く染めながら、俯きがちに頷いた。