10.翹望(ぎょうぼう)
その夜。雅文は自室で物思いにふけっていた。長椅子に腰掛け、遠いところを見つめる。
その後ろでは幸倪が、櫛を片手にわずかに濡れた髪を梳かしていた。
幸倪は太尉と呼ばれる、軍事の最高位を担う宰相だ。雅文が最も重宝している腹心である。そんな彼が本来侍女がやるべき仕事を進んで行っているのは、雅文に近寄れる者の少なさを指し示している。集会など、覇気が多数に分裂する場合ならともかく、面と向かっての相対ができる者など両手で数えられるほどしかいない。むしろそのような侍女を探すことのほうが手間なので、ある程度のことは幸倪か雅文自身がやっていた。
特に身嗜みに関しては、雅文は無関心だ。そのため幸倪が率先して行なっている。
そんなとき、扉が叩かれる。
外から聞こえてきた声は、ふたりからしてみればとても聞き慣れたものだった。
「雅文様、美雨です。入ってもよろしいでしょうか?」
雅文は思考を現実に引き戻すと、「入れ」と短く告げる。そつのない動きで入室した美雨は、静々とこうべを垂れた。
「夜分に失礼いたします、雅文様。本日のご報告をしようと思い、参りました」
「そうか」
雅文はひとつ頷くと、無表情のまま口を開く。
「そなたから見た瑞英は、いかがなものだったか?」
美雨は「はい」と短く返事をし、自身が感じたことを隠さずに述べる。
「わたくしのことを見ても怯えない辺りはやはり、雅文様の番なのだと納得いたしました。わたくしが見た限り、好奇心旺盛で明るい方かと存じます。ただいかんせん、まだ初日ですので、なんとも言い難いというのが本音でしょうか」
「そうか。これからのことに不安を感じるか?」
「いえ。ただ少し、違った意味で不安にはなりました」
眉を寄せながら目を伏せた腹心の片割れに、雅文は片眉をつりあげる。その瞳を真正面から受け止めた琥珀の竜姫は、自らが見聞きしたことを余すことなく告げていった。
「むしろこちらが不安になるほど、文句や不満をこぼすことのない方でした。その上彼女の侍女から聞いた話によりますと、地下の自領からあまり出たことがないようです。むしろ地下から出ることを、固く禁じられていたのだとか。本日の昼散策はどうかと聞いた際も、外に出れるというだけで瞳を輝かせておりました」
「それは、また、なんと言いますか……」
幸倪が困り顔を浮かべ、逡巡する。雅文は何も言わず、思慮を深めていた。
幸倪が戸惑うのも無理はない。美雨とて、そんなことがあるとは藍藍から聞くまで想像していなかった。
『瑞英様は生まれてこの方、片手で数えられるほどしか外に出たことがないのです』
そう掠れた声でつぶやいた藍藍の表情は、ひどく暗かった。彼女自身も思うところがあるのだろう。とても複雑な顔をして、困ったように笑っていた。
十六年もの歳月を、地下にこもって過ごす。それがいかに辛いことか、竜族には分かるまい。
しかも瑞英は、好奇心旺盛だ。外の世界に強い憧れを抱いていてもおかしくはない。
確かに弱者である鼠族は、外に出るだけで狙われる。しかしそれを差し引いたとしてもやり過ぎなように思えるのは、美雨が竜族だからなのだろうか。
美雨は鼠族の対応に疑問を持ち始めていた。
「わたくしから言えることは、以上です」
美雨はそう締めくくると、一礼し退出しようとする。しかしそれを制する声がかかる。
「美雨。少し待ってください。わたしからも、雅文様にお聞きしたいことがあるので」
「……幸倪が雅文様に、聞きたいこと、ですか?」
「なんだ、幸倪」
漆黒の竜はそう前置くと、険しい表情で雅文の髪をまとめて上げる。美雨が無礼な行いに声を荒げようとしたが、覗いたうなじを見て息を止めた。
雅文のうなじには、何もなかったのだ。
竜族ならばあるはずの逆鱗は、跡形もなく消えている。
幸倪が手を離す。そして眉を立てたまま、硬い声音で問う。
「つい先ほど、髪を梳かしている際に気がつきました。――雅文様。いつからですか」
されど問われた本人は、口を結んだまま目を伏せるばかり。
美雨は怒気を抑えるあまり、ぶるぶると体を震わせている。握り込めすぎた拳から、赤い雫がこぼれ落ちた。
「恐れ、ながら、雅文様。不躾な問いをいたします。逆鱗を……瑞英様に飲ませましたね?」
「――ああ」
その答えに、幸倪と美雨が揃って気を高ぶらせた。瞳孔が萎縮し、糸のように細くなる。体の周りが薄っすらと光り、髪が生き物のようにうねった。美雨の髪をまとめていた留め物が、小さく悲鳴をあげて吹き飛ぶ。
合わせれば雅文の覇気にすら匹敵するそれに、されど竜王は穏やかな表情のまま目を伏せた。
普段は冷静沈着な幸倪が、おそるおそる口を開く。言葉の端々に怒気がにじみ出ていた。
「雅文様。それがどれだけ危険なことか、あなた様は分かっておられるのでしょう? 我らにとって逆鱗は、誓約の証です。竜族同士でもそうそうやらない『婚印』を、なぜ異種族である瑞英様に行ったのですか」
「なぜだろうな」
「雅文様、真面目に答えてください」
「……わたしは正直、どちらでも良いと思ったのだ」
怒りを抑えようと声を低める美雨に、雅文はぽつりと哀しげにこぼす。それを聞いた腹心たちは瞠目した。そこでようやく、自らの主が抱いていた想いに気づく。
「あの姫がいかような者でも、たとえわたしを必要としない者でも。どちらでも良かった。ただ、あの温もりが消えることだけは、耐えられなかった」
瑞英がこの世からいなくなるくらいなら、共に死ぬ道を選ぶと。雅文は暗に言っていた。
竜族にとって『番』というものは、唯一無二の絶対。それでいて、生涯を共にする己の半身だ。心の拠り所、と言っても良い。彼らは番を見つけてようやく、何をしても埋まることのなかった心の虚の渇きを潤すことができる。
――にもかかわらず雅文は、強すぎた。
強すぎたからこそ、番を求めてはいけない竜王になり、永遠の孤独に蝕まれることになったのだ。
そこに水が注がれた。一度味わってしまった歓喜を、断てる者は少ない。渇望が大きすぎた雅文が、それをやすやすと手放せるわけがなかった。
雅文が首の後ろに手を伸ばす。そして逆鱗の跡を指でなぞった。
「初めて、衝動的に動いた。あの姫を独占したいと思ったのだ。だから無意識のうちに行動していた。瑞英とともに生きられれば、わたしは他に何もいらぬ」
黒銀に輝く髪を鬱陶しげに流してから、雅文は穏やかな表情を浮かべた。
竜族が揃って髪を伸ばし、決して上げることをしない理由は、逆鱗を人目に触れせないようにするためだ。
お互いの逆鱗を飲み込み、より深い関係を望む。それにより竜族は、相方が危険な目に遭ったときはそれをすぐに察知し、またどのような場所にいても分かるようになるのだ。そして自身の唯一無二が死するとき、自らもともに命を散らす。その儀式を、竜族では『婚印』と呼ぶ。
愛しい伴侶に手を出せば、片割れの逆鱗に触れる。
逆鱗は、何があっても別たれることがないように互いの繋がりを深めるために存在している。
だがそれを行うのは、本当にまれだ。むしろ互いに想い合っているため、婚印をやるまでもないということもある。
そう。これをやるのは、ともに死ぬという誓いを立てた者だけだった。
雅文の想いの強さを汲み取った腹心たちは、それに眉をひそめながらも頷く。このふたりは、番なのだ。その苦しみや孤独は痛いほど分かる。
だが、今回の婚印において大きな危険を犯しているのは、間違いなく雅文だけだ。瑞英には今、最強の竜王の全てが委ねられている。ふたりはそれを懸念していた。
「雅文様の御心は、よく分かりました。ですが異種族であられる瑞英様と、直ぐに婚印をなさってしまったことは、危険が伴うことだとわたくしは思います」
「その件に関してだが」
尚も雅文の身を案じる美雨に、雅文は笑った。苦笑のような笑みに、ふたりはぎょっと目を見開く。雅文が笑うことなど、見たことがなかったからだ。特にこのふたりは、雅文が幼い頃から共にいる。そのときから、その鉄仮面が動いた試しがなかった。
今日一日動揺しっぱなしのふたりを尻目に、雅文は昼のことを思い出す。そしてまた笑った。
ふたりが「雅文様が、あの雅文様が笑っていらっしゃる……?」「笑っていますよ幸倪! あの雅文様が!!」と騒ぐ。それにうろんげな眼差しを向けながら、雅文は言葉を繋げた。
「今日の昼、瑞英に聞いてみたのだ。「そなたは、我らの加護についてどう思っているか?」と。そうしたらあの姫は「便利そうだけど自力で立てなくなりそうだから、なくても良い」と言うた」
「……鼠族の姫君が、そのようなことを?」
「ああ。その上であの姫はわたしからの告白に、わたしを知る時間をくれ、と言った。適当に返答することも、できたであろうに」
「……わたくしの見立て通り、真面目な方なのですね。瑞英様は」
「ああ」
あの姫は、他の獣族とは違うやもしれぬ。
言外でそう告げる雅文の心を、ふたりは正確に汲み取った。
そして緩やかだが確かに訪れた自身の主の変化を、嬉しそうに眺める。
「どちらにせよ、わたしのとる行動に変わりはありません、陛下。あなた様が伴侶を亡くすときはおそらく、わたしも一緒ですので」
「ええ、そうですよ、陛下。瑞英様はわたくしが、命に代えてもお守りいたします」
「……ああ」
三人の親友は、互いを思い合ってそう言い合う。
「そのためにはできるだけ、瑞英様の存在を秘匿せねばなりませんね。内部でいつかばれるのは仕方ありませんが……それでも、奴らだけには」
「そうです、美雨。もう二度と、竜鳥の乱のようなことだけはないように」
「それだけは、絶対にさせぬ」
顔を見合わせ決意を固めた三人は、目を細めて顔を見合わせる。
それから彼らは夜が更けるまで、これからのことについて話し合っていた。
翹望:首を長くして待ち望むこと。
〈広辞苑より参照〉