悲しいお話と
「綺麗な字」
僕が顔を上げると、彼女はそこにいた。僕は彼女を見なかったことにしてまた原稿用紙に向かう。
「無視しないでよ」
「……僕に話しかけているの?」
「君しかここにはいないと思うんだけど」
放課後の図書室にはいつも通りに僕一人。異質な存在が紛れ込んでしまっているけれど。
「何を書いているの?」
「……お話」
「いつも一人でいる思ったら小説なんて書いていたんだね」
おかげさまで筆が進まなくなって困っている。
「ねぇってば」
「何」
「読んでもいい?」
「好きにすれば」
そう言うと彼女は僕の横に回り込んで、書いているのを覗き込む。気になって仕方がない。
「なんで書いている端から読むのさ」
「だってそうしないと読めないし。私のことは気にせず書いていて」
無茶言うなよと思いながらも、しばらくすると少し慣れてきて筆を走らす。彼女はずっと横からそれを覗き込んでいた。
いつの間にそんな時間になっていたのか、七時を知らせる鐘が鳴り響く。僕は道具を片付ける。立ち上がり鞄を背負っていると、僕がそれまでに座っていた席に座った彼女が口を開いた。
「帰っちゃうの?」
「そう。さようなら」
「ばいばい、また明日」
宣言通り、彼女は次の日の放課後も図書室にいた。僕は極力普段通りを装って、彼女を気にしないようにいつもの席でいつも通りの態勢で原稿用紙に向かう。
「ちょっと、見えてるでしょ? 私のこと。無視しないでよ」
しばらく書いていると、また横から覗き込んでいた彼女が、今度は僕の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。
「……何だよ」
「昨日と違うお話だよね、これ」
「今二つ書いているから」
「どうして悲しいお話ばかり書くの?」
「書いていたら駄目なの?」
「駄目じゃないけれど……どうしてか気になったから」
そう言って彼女は覗き込む顔を引っ込めて、また原稿用紙に視線を移す。
「……悲しい気持ちの人のために書いているから」
しばらく経って、自分でもどうして答える気になったのか解らないけれど、そう説明した。
「えっ?」
「さっきの答えだよ。悲しい気持ちの人が読むために書いているから」
「……どうして悲しい気持ちの人のために悲しいお話を書くの?」
彼女は不思議そうな顔でこちらを覗き込んだ。
「悲しい人に読んでもらうなら、楽しいお話とか幸せなお話を書いた方が……」
「どうしてそう思うの」
「どうしてって……普通はそう思うから? 悲しい人が悲しいお話なんて読んだら悲しくなっちゃうよ。もっと心が温まるようなお話とかさ、気分が明るくなるようなお話を書きなよ」
「それは心が明るい人の考えだよ」
「どういうこと?」
「本当に悲しい気分の人は、明るいお話とか感動するようなお話なんて求めていないんだ。そんなお話を読んでしまったらもっと悲しくなってしまうから」
彼女はそれを聞くと酷く悲しそうな表情を見せ、また原稿用紙へと顔を引っ込めた。その日は彼女はもう喋らなかったが、次の日も、その次の日も彼女は無言で僕の書くお話を覗き込みに来た。
「何の用なの」
三日振りに唐突に話しかけられた彼女は少し驚いた顔をした。
「君みたいな人はそういう人達のところに行くべきじゃないの?」
「私みたいな人って?」
「キラキラした人だよ。どこにいてもその人を中心に周りが明るくなっていたような人が、僕みたいなどこにいてもいなくても何も変わらないような人のところに出てくるのは、何て言うか違和感があるから」
「そんなことないよ。私はキラキラしてる人なんかじゃないよ。それに君も周りに何も影響していないような人じゃないよ」
「綺麗事言うなよ。知っているだろう、僕が周りの人から避けられていることを」
「それは……君がいつでも一人でいるから、皆近寄りづらいって思っているだけだよ」
「近寄りづらいにせよ、嫌われているにせよ、僕の周りには人は集まらないし明るくなんてなり得ない、それだけのことだろう。大した違いはないじゃないか」
「私は君のことずっと気になっていたよ」
「からかうなよ。第一君は確か彼氏がいただろう」
「彼氏がいても誰かが気になることくらいあるよ」
「勝手だな」
「勝手だよ。皆勝手に生きているんだもん」
「君は死んでいるじゃないか」
「……」
「……何で飛び降りたりしたんだよ。君はキラキラして生きている側の人間だったのに。飛び降りるのは僕の側の人間だ」
「……わからなくなったから」
「何がだよ」
「生きている意味がわからなくなっちゃったから」
「楽しく生きている人は楽しく生きていればそれだけでいいだろう」
「よくないよ。私は君みたいに生きたかった。もう疲れちゃったんだ私が私として生きることに」
「意味が判らない」
「君は君のまま生きて。私は私として生きられなかったから」
彼女はそういうと僕の隣から歩き遠ざかっていく。
「おい、どこに行くんだよ」
「君と話してみたかった。未練はそれだけだったみたい。生きているうちに君と話せば良かった。そのお話すごくいいと思うよ。君が書いて広げているところしか読めなかったけれど、私は悲しい気分の人だったみたい」
彼女はそれを言い残すと消えてしまった。窓から入ってきた風が僕の物語を床に広げた。
ショートショート調なものを書いてみました。