後書き
後妻打ちという習慣のことを知ったのは永井路子女史の歴史を騒がせた女たちシリーズでした。
要は自分のところから出てほかの女に男が走った場合、出て行かれた女が男の生き先に殴り込みをかけるという風俗です。
しかし、資料それ以外全くありませんでした。こんな変わった風俗なのだから資料も探せばあるはずだと思ったのですが、全くありません。
何故でしょうね。ただそれでも中世という時代は。ある意味男女同権の時代だったんだなと思います。
何故なら、結婚しても夫婦はそれぞれ資産を持ち。それを相手に譲ることはまずありませんでした。
同居しないことも多かった。ですから離婚率は相当なもので、ほとんどの男女が、数回相手を入れ替えているような状態だったようです。
子供は、それぞれの相談のうえ、父か母の財産を相続。場合によっては父親の雇用主と、母親の雇用主が話し合いの場所に現れることもあったとか。
当時使用人も世襲が主で途中採用がほぼなかったからでしょう。
うわなり打ちという習慣は戦国時代からぱたっと消えてしまいます。
戦国時代になると、現在の結婚様式に近い形になり、うわなりうちが成立する余地がなくなるからでしょう。
女性が男性のところに嫁入りする形、実は戦争に強い社会を作るために必要なのだと某生物学者がいっておりました。
そして男女フリーに相手をとっかえひっかえして子供を作る形、これは自然の伝染病などに強い形なのだとか。
封建社会が最も厳しかった時代は実は明治時代なのです。明治がどういう時代だったかというと、海外の造船技術が発達し、太平洋が防壁とならなくなり、世界規模の戦争に何度も巻き込まれていく。そんな時代でした。だからこそ、戦争に強い形に家族の形を変えねばならなかったのでしょう。
実は封建社会は江戸時代のほうがルーズだったんです。
常識は時代ごとに変化する。だから、より古い時代のほうが、封建社会は厳しかったはずだ。というのが昨今の常識のようですが、実は逆です。
追記
閑話一はもしかして、うわなり打ちって、実は娯楽の側面もあったのではという想像から書いてみました。いつでもどこでも他人の家の修羅場ほど面白い見世物はないのです。
そして、うわなり打ちをやった階級はおそらく。最上級の貴族や皇族ではないでしょう。こういう人たちが気楽に結婚したり離婚したりは今も昔も無理です。
そして最下層の平民でもないでしょう。家財道具を壊されるような損害に耐えられる資産状況じゃないから。というわけで、中級の貴族から、富裕な商人階級。あたりでしょう。永井路子女史の話では平安時代の御堂関白記にうわなり打ちの記述があり、女房ですから当時の中級貴族の女性がやったと記されているらしいです。
平安後期から戦国初期までの長い時間行われてきたこの奇習が何故忘れられてしまったのか。それはわかりませんが、こういうこともあったのだということは記憶のどこかにとどめておいてください。
くだくだしく書いてしまいましたが読んでくださりありがとうございます。