1.寝ぼけ眼なネコがいる
月曜日、午前6時半。
学生にとって一日が始まる時間帯である。
築7年のとある分譲マンションの一室に住むこの少年もその一人である。彼の名は「望月 安司」。市内の高校に通う17歳の少年である。小柄ではあるが不思議とひ弱な印象は無い、どこにでもいそうでどこにもいない。そんな少年だ。
起床後彼はまず新聞受けに新聞を取りに行く。とはいえここ数週間自分が見に行った時に新聞が入っていた例はない。ついでに言うと昨晩確実に施錠したはずの玄関もすでに鍵が開いている。
居間へ足を踏み入れると、そこには案の定巨大な猫が新聞を見るともなしに広げていた。もっとも「猫」というのはあくまでも比喩表現であり、実際そこにいるのは安司と近い年恰好の制服姿の少女である。もっと詳しく描写するなら眠たげな細い眼をした、いまいち表情から感情を読みにくい少女である。特筆すべきは彼女が持つ雰囲気。例えるなら街中を徘徊する野良猫を思わせる。
そんなネコ少女と安司の視線がぶつかった。
しばし見つめ合う。その様子はまさに街中で野良猫と目が合ってしまったときのそれである。
「・・・おなかすいた。朝ごはん。」
妙な緊張から解放された空気のなか、ネコ少女はやはり人間だったことが確認された。今にも「にゃあ」と鳴きそうな場面でしっかり人語を話し沈黙を破ったのだから。とはいえ内容はいかがなものではあるが。
そんな「いつも通り」の展開に安司は苦笑を浮かべた。
「おはよう喬華。そんなにおなか空いてるなら自分で何か作ってくれても良かったんだよ。」
「・・・いや。めんどう。」
こんな具合にこれまた「いつも通り」な会話を交わしながらキッチンへと入る安司。それを横目に今度はテレビを見始めたネコ少女こと喬華。リビングにて「そこが自分の縄張り」が如く寛いでいるが、顔立ちは安司とは似ても似つかないので家族とは思えない。
「わざわざおなか空かせてまで早くから家に来なくても良いっていつも言ってるのに。来るにしろ自分の家でゆっくり朝食を食べてから来れば良い。」
表面上、口調だけを取り上げるなら少々あきれながら安司はたしなめる。が、嫌がっていないのはよく分かる。その程度のことはわかるぐらいには同じ時間を二人は過ごしてきている。
「・・・家のより安司が作ってくれた朝ごはんがいい。おふくろの味。」
「それを言うなら幼馴染の味、だろ?」
そう、二人は幼稚園から高校まで同じ、いわゆる幼馴染という関係にある。もっとも常に同じクラスだったり、ましてや四六時中一緒だったわけでは無い。付き合いが薄くなった時期もあったが、お互いに意識して探せばすぐにもう一方を見つけられる、そんな距離間で過ごしてきた二人なのだ。親同士もほどほどに仲が良く、会えば長々と話しをするので互いの子供の事もそれなりに知っている。
そんな関係に一度目の転機が訪れたのは二人が中学2年のころだ。
どの部活にも入らずにブラブラしていた喬華を見かねて担任の教師が自分が顧問を務める部活に彼女を勧誘したのである。折しもその年、安司は件の部で新部長に任命されていた。かくして二人はその後2年間同じ部活で活動することとなり、互いの距離や人格を再確認することとなった。
そして訪れた2度目の転機。
遡る事2ヶ月前、安司の父親の出張が決まり、半年ほどこの町を離れなければならなくなった。母も向こうでの生活が安定するまでは父の転勤先に付いていくことになったのだ。とはいえ安司一人なら、言いかえれば男子高校生一人なら家に放置していても特に問題はなかったが、この家には現在小学生の弟もいる為完全に放置というわけにはいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが先ほどから朝の優雅な時間を満喫しているネコ少女こと「弓塚 喬華」である。
彼女は今この場では縁側の野良猫状態だが、やろうと思えば家事全般を特に問題なくこなす事が出来る。あくまでもやろうと思えばの話だが。
そういった事情から名目上は男子高校生と男子小学生の世話、実態としては男子高校生に食事をたかる、という生活を送っている。しかも合いカギまで所有し自由にこの家に出入りすることができる権利を持っているので今朝の様な光景がこの数週間、毎朝繰り広げられているのである。
そうこうしている間に時刻は7時、朝食が出来上がった。白米と味噌汁。これだけを聞くとなんとも質素な朝食かと思われるがそんなことはない。なぜなら味噌汁の中にわかめ・ニンジン・玉ねぎ・いんげん・刻みネギに豆腐まで入っているのである。具材は日によって違うが、具材の量は変わらない。これが喬華のいう「おふくろの味」であり、安司が作る朝食には必ず登場する代物である。
「おようござます、おっちゃん、きっさん。」
若干ふらつきながら少々ぶっとんだ挨拶をしたのは「望月 和人」、件の現在小学生な安司の弟である。
「おはよう、かず。とりあえず顔洗っといで。」
「・・・おはよう、かずと。何度も言ってるけどわたしのことはお姉ちゃんでいい。」
そんな二人の言葉を聞いているのかいないのか判然としないまま、やはりふらふらと洗面所へ向かう和人。しばし水音が洗面所からリビングへと流れたかと思うと、さっきとは打って変わった機敏な動きで和人はリビングの定位置へと腰かけた。
「おはようございます!お兄ちゃん、喬華さん!」
これまた先ほどとは打って変わってハツラツとした、或いは「アホの子」と言っても問題の無い声と表情で朝の挨拶をする和人。しかしそんな和人に喬華はただでさえ細い眼を更に細めて口を出す。
「・・・かずと、わざと言ってる?」
「何の話ですか?」
聞いていなかったのか、そもそも聞こえていなかったのか。先の喬華の発言を無かったかのように和人はただニコニコしながら「近所のおねえさん」と微妙な空気の会話を繰り広げる。
「さて、みんな揃ったし朝食にしようか。」
不穏な空気を破るように、安司は弟そっくりのにこやかな表情で二人に告げる。それに対し和人は相変わらずニコニコと、喬華はやや不満げに頷き手を合わせる。
「いただきます」
「・・・いただきます」
「いただきまぁす!」
三人の声が唱和する。
これが今のこの家での日常。仮初の、と付くものではあったが。