10.受難
その日シェリルの部屋に、唐突に宰相であるタウロンがやって来た。
「本日はお忙しい中お時間を取っていただき、誠にありがとうございます」
「いえ、大して忙しくもありませんでしたし、お気になさらず……」
最初の挨拶を社交辞令で返したシェリルだったが、急かされてドレスを身に着けた彼女の本音は(今日は何も予定が無かったし、猫の姿のままお庭に散歩したかった)であった。そんな彼女の心の中を読んだように、タウロンが窓の外に視線を向けながら、何気ない口調で言い出す。
「今日は良い日和ですね。木漏れ日の漏れる枝の上でそよ風を受けながらお昼寝などされたら、さぞかし気持ち良く熟睡できるでしょう」
「はい、それはもう! ここのお庭には良く手入れがされて、枝振りが良い木が何本も」
ついうっかり本音をダダ漏れさせたシェリルが慌てて口を噤んでタウロンの方を見やると、相手は穏やかな表情を浮かべたまま両眼を光らせながら軽く威嚇してくる。
「姫……。あなたのこれまでの境遇は十分理解していますし、心よりご同情申し上げますが、外聞を憚る言動はお慎みください。猫になるなとは申しませんが、節度を守っていただかないと困ります」
「……気を付けます」
「ところで今日こちらにお伺いした理由ですが、そろそろ姫のお披露目の準備を進めたいと思います。具体的には、貴族名鑑の暗記とダンスです」
「はい?」
予想外の単語を耳にして、シェリルは本気で面食らった。そんな彼女の戸惑いは想定内だったらしく、タウロンが淡々と詳細を説明する。
「姫様を再来月の陛下の即位二十周年記念式典日の夜会でご紹介する事になりましたが、全く予備知識なしに皆様と応対などできません。最低限の方のお名前と爵位と領地名と家族構成に容貌程度は、頭に入れておいていただきます。更に最初のダンスは王族の方が行うのが前提ですから、今回はレオン殿下とシェリル様のお二人で、踊っていただきます」
形は一応依頼するものだったが、にこやかに微笑んでいるタウロンの目は全く笑っておらず、暗に(しっかりご精進を)と厳命していた。それを容易に察したシェリルの顔が盛大に引き攣る。
「因みに貴族名鑑と言うのは、どれ位の分量で……」
戸惑った声のシェリルに、タウロンは自分の横に無造作に置いておいた紐で綴った用紙の束を取り上げ、二人の間に置かれていたテーブルに載せる。
「こちらで厳選しておきました。ダンスの教師については、こちらで手配致しますのでご安心を」
「ありがとう、ございます」
「それでは失礼致します」
どうやら宰相業務はそれなりに忙しいらしく、タウロンはシェリルにリストを渡すとあっさりと辞去していった。その途端シェリルはソファーに突っ伏したが、近寄って来たリリスが興味津々にリストを取り上げ、パラパラと捲ってから彼女に慰めの言葉をかける。
「姫様、元気を出してください! タウロン様も鬼じゃありません。このリストは本当に厳選してありますから、覚えやすいですよ?」
「リリスは、それに載っている人達を知っているの?」
「はい。一応家が伯爵家ですから、最低限のお付き合いをする上でそれらの知識は必要ですし」
「やっぱり良いお家のお嬢様だったのね」
思わずシェリルが遠い目をすると、リリスはそんな彼女を励ますように声を張り上げた。
「さあ、下手をすると間に合いません。早速、暗記を始めましょう!」
「ええ!? お散歩に行きたかったのに!!」
「そんなのは後です、後!」
そんなシェリルの予期せぬ受難は、その後も続いた。
※※※
シェリルはもとよりエリーシアもダンスの経験は皆無であり、夜会の話が持ち上がった翌日には、早速練習の日程が組まれた。そして朝からドレスを着せられた二人は、戦々恐々としながらカレンに先導されて練習場へと向かった。
「宜しくお願いします」
「本当に何も分からないので、ご迷惑をおかけすると思います」
「分からない方にお教えするのが、私の仕事ですのでご安心ください。すぐに踊れるようにして差し上げますわ!」
にこやかに微笑んでくれたダンス講師のグレイル夫人に安堵しつつ、シェリルは夜会でのパートナー兼、練習相手として引っ張り出された二人に向き直って詫びを入れた。
「レオンもジェリドさんにも、時間を取らせてしまってごめんなさい」
対する二人は、夫人同様大らかに笑って応じる。
「シェリル達がダンスの経験がないのは、ちゃんと分かっているよ」
「お二人ができるだけ早く取得できるよう、私たちも努めますので、頑張りましょう」
「ありがとうございます」
そこでグレイル夫人が早速指示を出した。
「それでは二組に別れて、練習を始めましょう。最初は基本的なステップを手拍子でゆっくり練習して一通り動けるようになったら、音楽を付けて通してみましょう。先に姫様の方を、重点的に見させていただきます」
「そうですね。それでは私とエリーシア殿は、向こうの方で練習しております」
「それじゃあシェリル、後でね」
そうして断りを入れたジェリドに連れられて、エリーシアは少し離れた場所に移動してから二人で腕を組んで練習を始めた。
「それではまず、組む時の腕の位置と足の状態から……」
やはり生まれながらの高位の貴族らしく、ジェリドの立ち居振る舞いには隙がなかった。当然ダンスなども微塵も躊躇うことなく、順序立ててエリーシアに指導していく。
「それでは私の足の動きと同時に、右足を引いて、次に左足を斜め前に」
「えっと……、こんな感じでしょうか?」
「はい、もっと踏み込んでも大丈夫ですよ? 御婦人に足を踏まれた位で叫び声を上げるような、やわな鍛え方はしておりません」
「それは、ありがとうございます」
意外とスムーズにエリーシアが動きをマスターしていくのと同時に、時折シェリル達の方に視線を向けていたジェリドの顔つきが、徐々に不機嫌な物になってくる。それを見たエリーシアは、溜め息交じりに声をかけた。
「あの……、この組み合わせが不満なのは私も理解していますが、できればもう少し、友好的な表情をしていただけませんか?」
そう言われて、慌ててエリーシアに顔を向けたジェリドは口ごもった。
「え? まさかエリーシア殿の相手役が、不満などとは……」
「そうですか? 先程から『練習位、姫と組ませてくれても良いだろうが、このシスコン王子が!!』とでも言いたそうな顔をなさっておられますので」
真顔で思うところを述べたエリーシアに、ジェリドは苦笑いするしかできなかった。
「否定はしません。ですが当日を含めて精一杯、エリーシア殿のお相手を務めますので」
「ありがとうございます。それに当分シェリルの相手役は、殿下に任せておいた方が正解ですよ?」
「それはどういう意味かな?」
悪戯っぽく笑ったエリーシアにジェリドは当惑した表情で問い返したが、すぐに彼女の台詞の意味が理解できた。
「いっつぅ!」
「きゃあぁっ、ごめんなさい! レオン、大丈夫!?」
突然発生した叫び声にジェリドが思わず目を向けると、片膝を付いたレオンが右足を手で押さえ、それを覗き込んでいるシェリルが涙目で謝っているのが目に入った。
「はは……、予想外の所で踏まれたのでちょっと驚いただけで、大して痛くはない。気にしないでくれ、シェリル」
「さあ、姫様。気にせずに、今の所をもう一度やってみましょう」
「え、ええ」
王太子が呻いてもさっさと練習を続行させるグレイル夫人に、ジェリドはうすら寒い物を覚えながら目下のパートナーに向き直った。すると彼女が無言で肩を竦めてから、しみじみと告げる。
「シェリルは基本的に二本足で歩く事は以前からしていましたけど、こういう動きは皆無だったし、流石に難易度が高いですよ。下手したらシェリルがまともに踊れるようになる前に、王太子殿下の両足が使い物にならなくなるかも。そうなったら当日あなたの希望通り、シェリルの相手役が回ってくるかもしれませんね」
「そうしたいのは山々ですが、一応次期国王の不幸を願うのは不敬に当たると思いますので」
それを聞いた彼女は、意外そうに小さく笑った。
「そうですか? 思ったより真面目な方でしたね。さあ、あまり人の事を言っていられないわ。練習しないと!」
ジェリドもそこで苦笑いしてから、二人は再度真剣にステップの練習に取り組み始めた。