さよならくるくる
――パチンっ!
夢現で聞いたのは、幻聴か、現実か。
僕は寝返りをうって、再び布団の海に沈み込んだ。
「おはよ……」
昨夜の暑さのせいで、大量に出た寝汗でぺたりと身体に張りついたパジャマを剥がしながら、妻と娘のいるリビングに入った。
「おはよー。早く着替えて……きゃあぁっ!」
「んなっ、何!?」
僕を見た妻の笑顔が引きつり、悲鳴が朝のリビングに木霊する。
「かっ、顔、血が出てるっ!」
口に手を当てたまま走り寄ってきた妻が、泣きそうな顔で僕の頬に恐る恐る触れる。
「え、どこ? 全然痛くないんだけど」
そっと触れてきた指は、血がついているらしい部分を上下するが、痛みも引っ掛かりもない。
それは妻も同じようで、泣きそうだった表情はいつのまにか不思議そうに眉を寄せていた。
「……血がついてるだけ、みたい……」
「えぇ? 昨日、誰か怪我した?」
「ううん……あーちゃんだって怪我なんてしてないはずよ……」
ベビーチェアに座って、朝食を食べる気満々でスプーンを握った娘の方に近寄り、二人で小さな体を隈無く点検してみる。
顔には何もない。
そのまま首、肩、腕、スプーンを放させて紅葉のような手のひらを見る。
「あ」
スプーンを握っていた右手に、既に乾いた血がこびりついていた。
「やだっ、いつ怪我したの!?」
それを見た妻が顔を青くして手のひらに顔を近付ける。
「……あれ? 何この黒いの」
「え?」
「これ」
そう言って指差された先にあった、手のひらの乾いた血の真ん中の黒い点。
よくよく見ると、足があって、羽もあって、黒と白のしましまで。
それは、ぺちゃりと潰れた……。
「これは……蚊、だな」
「……あーちゃん、パパのお顔、パチンしたの?」
小さな娘が、僕を蚊の被害から守ってくれていたらしい。
この際、この血が誰のか気にするのはやめることにした。
その後、娘の手のひらと僕の頬を、少しぬるい水で洗い流した。
娘によって見事昇天した蚊は、くるくると渦をつくる水と一緒に、排水溝へ吸い込まれた。
題:パチ(パチンコ)、昇天、昨夜
20090731:初出(三題噺参加作品) 20111101:移植 20111123:編集
※同じタイトルでこの作品の改訂版もございますので、興味のある方は投稿作品一覧をご覧ください。