みかんの人生
ちぃ、と障子の外から声がした。
朝食にと炬燵の上に用意した納豆に伸ばした手を止め、目をやる。
ちぃ、ちぃちぃ。
真白な障子紙に落ちる影は、小さな觜を開き囀っている。呼ばれている、何故だかそんな気がした。腰をずらし庭に面する障子を横に滑らせると、白梅の綻びはじめた枝で小鳥が羽を休めていた。
「お前、連れはどうした」
桟に腕を乗せ問うと、暗褐色のその鳥は少し首を傾け、ちぃ、と一声鳴いた。
「去年は一緒に来ていただろう」
ちぃ。
「添い遂げなかったのか」
ちぃ、ちぃ。
「……そうか。蜜柑でいいか」
ちぃ。
節々の軋む体を動かし、山のように盛られた蜜柑から一つ手に取る。輪切りにしようと思ったが手近に刃物が見当たらず、取りに行くのも億劫に思いその場で皮を剥いた。厚い外皮を剥き、白い筋を無視して房を包む薄皮の端を糸切り歯で食い千切る。薄皮を捲ると瑞々しい粒が零れんばかりであった。
ちぃちぃ、と急かすように鳥が鳴く。白く縁取られた瞳はぬいぐるみのように丸く、蜜柑を熱心に見つめている。
「ほら、これだろう」
皺の目立つようになった掌に蜜柑を乗せ、差し出した。鳥は臆する事なく掌の端に留まり、小さな觜で粒を摘んでは飲み込む。
「……わしもな、添い遂げられなかったんだ」
随分昔にいなくなってしまった妻を思い出す。
仕事が次から次へと舞い込み、付き合いを大事にしなくてはならず、家庭を顧みる暇はなかった。ある日接待を終えて帰ると、妻の代わりに白い封筒が机の上で待っていた。これは報いなのか。今までの人生を、否定された気がした。独り暮らしにも慣れ、定年を迎え、最期まで独りなのだと思っていた。そうしなければいけないと。
買い物からの帰り道、ある家の庭の木に輪切りの蜜柑が刺さっていた。仲睦まじそうな暗褐色の鳥が二羽、交互に啄ばんでいた。生け垣の向こう、縁側で嬉しそうにその様子を眺める老婦人がいた。午後の日差しを浴びたその笑顔に、長らく騒いだことのない胸が激しく騒いだ。彼女がかけてくれた声が、甘い広がりとともにいつまでも耳の奥に残った。
「老いらくの恋、というのも悪くないな」
名も知らぬ鳥が蜜柑を食べ終えて、まだ冷たさの残る空高く、飛び立っていった。
題:納豆、おいら、ぬいぐるみ
20090315:初出(三題噺参加作品) 20111101:移植 20111123:編集