1-1…少年の日常『淋しい朝とサボ子』
夢を見ている。
どこか懐かしい寂れた神社に僕はぼんやりと立ち尽くしていた。
境内から覗く本堂の先で女性が泣いている。
その涙をどうにか止めてやりたいのだけれど、僕の足は凍りついたように動かない。
夢はここまでだった。
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……朝だ。
5月、すっかり花を落とした桜は生命を謳歌せんと青々した葉を茂らせ、
初夏に入った太陽はただただ眩い光を放ち、露に濡れた緑をより一層輝かせている。
春はもう過ぎ行ったとばかりに吹きぬける風が薫る頃。
どこにでもあるような住宅街の一角、小さな一戸建て。
二階廊下の突き当たり、東向きの部屋で目覚ましが鳴いていた。
部屋の主は竹内守人、16歳、高校二年生。
もぞもぞとベッドから腕が這い出て、
起床時間を告げるやかましいベルをまず黙らせる。
そのままふらふらと彷徨う右手がやがて
カーテンを引っ掴むと室内は一気に明るさを増す。
こうして緩やかな熱を体に溜め込みながら
低血圧な意識を覚醒させていくのが彼の常だ。
まあ、その所為で雨や曇りの日はそのまま二度寝に移行する事態を招いたりもするのだが、
今日はなんとかなりそうである。
欠伸と共に軽く目を擦って今度こその起床。
「……おはよう」
誰に言うでもなく、守人は独り言のように呟いた。
勿論、この部屋に居る人間は守人だけだ。
端から見れば寂しい朝の風景でしかないはずなのだが……、
(おはよう、モリト。
きょうもいいてんきだねっ)
物理的な空気振動である音とは違う、
頭に直接語りかけるようにして元気の良い返事が彼に返された。
部屋の真ん中、テーブルの上の小さなサボテン。
窓からの日差しに喜ぶ棘々しい緑色の球体がテレパシーの発信源だ。
そこから手乗りサイズの女の子が幽霊のように抜け出て大きく手を振った。
コミカルな動きに微笑ましさを覚える。
「サボ子は今日も元気だな」
(わたしはいつもどおりなの。
モリトがねぼすけさんなだけだよ。
ほら、あったらし~ぃ、あっさがきた~♪)
ミニサボテンの精、サボ子が日光を浴びて大きく背伸び。
ぴょこぴょこと跳ねながら鉢の縁で体操する姿が可愛らしい。
しかし、その姿は普通の人には捉える事はできない。
前述の通り彼女の存在は幽霊とも言えるものなのだから。
そんな彼女と挨拶を交わす守人は、いわゆる『見える人』である。
科学では計れない不可思議なものを感じ取れる能力。
オカルト世界の住人と交流できる力が彼には生まれつき備わっていた。
もっとも、何でもかんでも見えるわけではない。
力の弱い存在に気付くにはそれなりの『縁』を必要とする。
サボ子は守人が今よりもずっと幼い時に買い与えられた鉢植えだ。
何年も何年も育てている内にサボテンの中にいる何かの存在をだんだんと感じられるようになっていった。
一方、父親が趣味で手入れしている庭木などにも同様に霊が宿っているのを守人は知っているが、サボ子ほどハッキリと姿を見る事はできない。
この違いを納得するのに『どれだけ気持ちを注げたのか』『どれだけ心を通わせられたのか』
つまりは『縁』の深さこそが一番理屈として適当そうだと守人は解釈していた。
枕元のペットボトルから水を如雨露に移す。
彼女の本体、サボテンへの水遣り。
(みっかぶりのみずっ、のまずにはいられないっ!)
「何処で憶えるんだよそんな台詞」
漫画の登場人物をパロディし呑んだくれた仕草もセットで無駄に芸が細かい。
あのシリーズは4部が良いだの、台詞は1部じゃないかだの、漫画談義が始まった。
寝起きとは思えぬ熱気篭った話題で眠気はもうすっかり吹き飛んでいる。
このままでは不味いと談笑もそこそこに守人は鉢を窓際、更に陽当たりの良い場所へ移動。
いい加減に朝食を摂らねばと断ってから部屋から出る。
もっと喋ろうよ、と引き止めるサボ子の言葉をドアの音でパタンと閉じた。
守人もこのままずっと喋っていたかったが学校に遅刻してしまうからだ。
日曜日ならば別にそれでも構わないのだけれども。
階段を下りるとちょうど守人の父親、幸仁が玄関でネクタイを締め直していた。
いつもならとうに出かけている時間である。
珍しい、今日は寝坊でもしたのだろうか。
焦った姿に僅かな逡巡を憶えたが、おはよう、と守人は声を掛けてみた。
しかし、父親はそれに構う素振りすら見せずに出掛けていった。
元より返事を期待していたわけではない。
近頃はまったくと言っていいほど
守人と父親は言葉を交わせるような仲ではなくなっていたのだから。
けれど、やはり少しだけ淋しく思いながら閉じられた玄関を守人は見つめた。
……朝は忙しいしな。
自分が傷つかないためのそんな言い訳をぶつくさと唱えながら洗面台へ向かう。
手洗いうがいと歯磨きを済ませてからの洗顔。
健康番組で寝起きの口内雑菌がどうのと聞いてからの習慣である。
存外、守人は小さい事を気にする性質だ。
寝癖のついた髪もここで軽く整えてからダイニングの扉を開けた。
朝食はいつも通りに買い置きした菓子パンとインスタントなコーヒー。
直前に父親が沸かしただろうヤカンの温度は、守人がマグカップに注ぐ頃には冷めはじめている。
それが丁度良かった。
やや薄めで、ぬるい安物コーヒー。
苦すぎる事も熱すぎる事もない、無味な日常の味。
TVで天気予報とニュースを見る以外、死にそうなくらい退屈な朝の情景。
独りテーブルについて、頂きますと手を合わせ、ご馳走様で締めくくる。
そうして一日において守人が最も嫌いな十分間が終われば、
あとは制服へ着替えて学校へ行くだけだ。
部屋に戻ると、朝日の中でサボ子が眠っていた。
外で活動すると数分で睡魔という限界が来てしまうらしい。
そんな無理を押してまで朝の挨拶を返してくれるサボ子を守人は愛しく思っている。
彼女の元気な声にどれだけ彼の孤独が癒されているのか。
「ちゃんと中で寝なよ」
優しく掌に乗せて、彼女の本体に寄り掛からせると溶け込むように還っていった。
こうやって本体に戻ればまたすぐに復活するので心配は要らない。
着替えと学校の支度を手早く済ませる。
「いってきます」
(ふわわ、いってらっしゃ~い、むにぅ)
再復活して眠たげなサボ子に見送られ、今日も一日が始まった。