第2話
そろそろ半年くらいになるだろうか。気がつけば、私はこの店で働くのが当たり前の顔になっていた。
相変わらず皿は割るけれど、少なくとも「元魔王」という肩書きよりは、「ドジな看板娘」として覚えられている。
もういい加減町の人や、私も慣れてきただろう。ということで、ついこの間から一人での外出を許されるようになった。
外出、といっても、買い出しや伝言を頼まれて出るくらいなのだが。それ以外は毎日お店で働いている。
そう、この間は、お客さんにからかわれた。パンを頼んだお客さんにパスタを運んだり。ビールを頼んだお客さんに水を出したり。
ミスが続くあまり
「嬢ちゃん、注文覚えられるようになったか?」
なんて言われてしまう。
もう、店じまいの時間だ。お客さんは常連の人だけになって、あんなに騒がしかったのが嘘みたいに静かだ。机に突っ伏している人もいる。
カウンターに座って蝋燭の炎を見ながらぼうっとしていると締め作業と明日の仕込みを終わらせたリオが戻ってきた。
「え?早くない?」
思わず聞いてしまう。だって、いつもは1時間くらいかかるのに、時計を見るとまだ15分ほどしか経っていない。
「まあ、明日は休むつもりだからね」
「え?どうして?」
「ルナ、明日一緒に出かけようか」
「え?は、はい?」
「はい、と言ったね。言質取ったよ?」
「いや、出かけるのは構わないのだけど、お店を休んでまでどうして私と」
嫌な想像が膨らみ始める。私が魔王であることがこの国の王様や協会にバレて、連れてこいと言われた。とか。皿を割りすぎて迷惑だから捨てられる。とか。
「……捨てないで」
思わずそんな言葉が溢れていた。が、リオはその言葉を聞いて逆にきょとんとしていた。
「え?別に捨てたりなんてしないよ」
「だって、私は魔王だし、バレるのも時間の問題だったし、そうじゃなくても、普段からミスばっかで迷惑かけ続けてるし」
「魔王だってことがバレたわけでもないし、ミスのことは俺は気にしてないよ。ただ一緒に街を見て回ろうとしただけ。いわゆるデートってやつ?」
「ふえ?」
いつの間にか泣いてしまっていたらしく、リオがハンカチで目元を拭ってくる。
「そんな顔しないで、ルナは笑ってる方がかわいいよ」
「な!?かわ!?」
私は今まで生きてきて一度も言われたことのない言葉を受けて思考がフリーズする。まさか、自分が言われるような言葉だとは思わなかったのだ。
そのまま言葉を飲み込むのに、丸1時間ほどかかってしまったらしく、気がついたときにもうお客さんはおらず、リオは眼の前で料理を盛り付けている。
「さあ、食べよう」
皿を置いた瞬間、鼻をくすぐる香りに、思わず涎が出てくる。
深い色をしたとろみのある煮込み。油の艶の奥に、焼いた鳥の匂いと、鼻の奥がじんわり熱くなる香辛料の気配が混じっている。城で嗅いだどんな魔導薬とも違う、生きた匂いだ。
「……これ、なに」
「鳥のカレーだ。今日は安く仕入れられた」
リオはそう言って、少し硬めのパンを一緒に置いた。
私は恐る恐る、そのパンをちぎって、皿に盛られたカレーをすくう。指先に伝わる熱に、思わず肩がすくんだ。
「熱いわね」
「当たり前だ」
口に運ぶ。
最初に来たのは辛さだった。舌の先がびりっと痺れて、反射的に息を吸う。けれど、すぐ後から、鳥の脂の甘みと、香辛料の奥に隠れた野菜の旨みが追いかけてくる。
「……おいしい」
言葉が、勝手にこぼれた。
パンは固い。けれど、その固さが、濃い煮込みを吸ってくれる。噛むたびに、口の中で味が混ざり合って、喉の奥に熱が落ちていく。
もう一口。今度は、さっきよりも深くすくった。
「そんな顔するほどか?」
リオが、少しだけ呆れた声で言う。
「するわよ」
私はパンを持ったまま、即座に言い返した。
「そうか、ありがとう」
「ありがとう……か」
その言葉を口の中で転がしながら、私はもう一口食べた。
魔王だった頃、食事はただの補給だった。噛む必要も、味わう理由もなかった。それなのに今は、この固いパンを、わざわざちぎって、すくって、熱さに気をつけながら食べている。
――面倒で、でも、悪くない。
そして、これが少しずつこれが日常になりつつあることに驚いている。
額に、じんわりと汗がにじむ。辛さのせいか、熱のせいか、それとも別の理由か、自分でもよく分からない。
「……毎日これ出してほしいかも」
「残念だが、仕入れ次第だ」
「ひどい」
そう言いながら、私は最後に鍋底をぬぐうように、パンでカレーをすくった。
皿が、きれいになる。
それを見て、なぜか胸の奥が、少しだけ満たされた気がした。




