第1話
ゴトンとお椀が床に落ちる情けない音が店の中にひび……かない。周りが騒がしくて、そんな音なぞかき消されてしまう。
ただ、それによそわれていた料理が散らばる様子は別である。とても目立つ。
「ごっごめんなさい!」
「いいよ、嬢ちゃん。気にしないで」
「でもズボンの裾に!」
「だから気にしなくていいさ。次から気を付けてくれよ?」
「バーン!すまない!今日のお前の会計はタダにしとくよ」
「よーし破産させてやる」
大柄な男はガハハと笑いながらとんでもないことをしれっと口にする。
「程々にしてくれよー」
軽口、というのだろうか、二人を見て思わず言葉が漏れる。
「いいなあ」
思ったまま口に出てしまってから、はっとして口を押さえる。
客とリオ――元勇者が、冗談を言い合いながら笑っている。さっき私が盛大に皿を落としてしまったにもかかわらず、誰も怒鳴らないし、誰も怯えない。
城ではありえない光景だった。
失敗は処罰の理由で、弱さは切り捨てるべき欠陥だった。魔王である私自身がそう決めて、そうさせてきた。
「……何が『いいなあ』なんだ?」
背後から声がして、私は肩を跳ねさせた。
振り返ると、リオが腕を組んで立っている。
「い、いえ、その……みんな、楽しそうだなって」
「そりゃ酒場だからな。楽しくなかったら潰れる」
リオは床に散らばった料理を見て、ため息をつく。
「怪我はなかったか?」
「は、はい。問題ありません」
「ならいい。皿は……まあ、また仕入れればいい」
その「また仕入れればいい」という言葉が、ひどく軽く聞こえた。
城なら、皿一枚割っただけで部下は震え上がっていた。私の機嫌次第では物理的に首が飛んでいたからだ。
「……怒らないのですね」
「何を?」
「失敗した部下……じゃなくて、私に」
言い直したのが、なんだか悔しい。
「怒鳴ってどうする。覚えが悪いなら教える。慣れてないなら慣れるまでやらせる。それだけだ」
「……それだけ?」
私は思わず聞き返してしまう。
「それだけだ」
また同じ答え。
この男は本当に、拍子抜けするほど単純だ。
その日の営業が終わる頃には、私はへとへとになっていた。
皿は落とす、注文は間違える、通路の真ん中で立ち止まって邪魔になる。客の前に出るたび、失敗の連続だ。
「向いてないのかもしれないわ……」
裏に戻って、思わず呟く。
「初日から完璧にできるやつの方が少ない」
リオはそう言いながら、エプロンを外した。
「というか、だいたい初日は邪魔だ」
「それ、慰めになっていません」
リオは少しだけ口の端を上げた。
「今日はここまでだ。飯にするか」
そう言われて、私は初めて気づいた。空腹だったはずなのに、今日はあまり腹の音が鳴っていない。
簡単なまかない――パンとスープ、それに少しの肉。客に出すものとほとんど変わらない。
「……これ、私も食べていいの?」
「働いたやつの分はある」
その言い方に、少しだけ胸が温かくなる。
食べながら、私はふと疑問に思ったことを口にした。
「ねえ、リオ」
「なんだ」
「どうして……誰も、私を疑わないの? 私、どう見ても不審者でしょう」
角はないが、見た目はどう見ても異種族だ。それに、町の人間たちは魔王がどんな存在だったか、知らないはずがない。
「疑ってるさ」
「……え」
「ただ、それが酒場に来ない理由にはならない。ってだけだ。ここは飯を食う場所で、酒を飲む場所で、喧嘩しても最後は笑って帰る場所だ。正体探しをする場所じゃない」
リオはスープをすすりながら、淡々と言う。
「それに、噂話はもう十分だ。『元勇者の店に妙な娘がいる』くらいにはな」
「……やっぱり」
「でもな」
そこで、リオは少しだけ真面目な顔になる。
「誰が何者かより、今そこで何をしてるかの方が大事だ」
その言葉は、私には少し難しかった。
私はずっと、「何者であるか」で世界を見てきたから。魔王であるか、魔族であるか、人間であるか。それだけで、敵か味方か、殺すか使うかを決めてきた。
「……人間って、変な生き物ね」
「お前に言われたくない」
食事の後、私は店の掃除を手伝うことになった。とはいえ、箒の使い方も怪しい。
「そうじゃない。ゴミを集めるように動かす」
「こう?」
「逆だ逆」
何度もやり直させられて、少しむっとする。
「……魔王城では、掃除なんてしたことなかったのに」
「だろうな」
「命令すれば、誰かがやった」
「だろうな」
あっさり肯定されると、少し複雑な気分になる。
「……人として生きるって、こういうこと?」
「さあな。でも少なくとも、『自分の居場所は自分で綺麗にする』ってことだ」
自分の居場所。その言葉を、私は頭の中で何度も繰り返した。
夜。
店の二階の小さな部屋を、私に使わせると言われた。
「狭いが我慢しろ」
「いえ……城の個室よりは、ずっと落ち着きます」
本当のことだった。
誰も入ってこない部屋より、すぐ下に人の気配がある方が、なぜか安心する。ベッドに腰を下ろし、私は天井を見上げる。
「……ねえ、リオ」
「まだ何かあるのか」
階段の下から声がする。
「私、何をすればいいの?」
「明日は今日より皿を割らない。それでいい」
「……目標が低すぎません?」
「達成できない目標を立てるより、よっぽどいい」
少し笑ってしまった。
「ねえ」
「今度はなんだ」
「もし……私が、本当に魔王だってバレたら?」
一瞬、沈黙が落ちる。
「その時は、その時に考える」
「……逃げないの?」
「面倒くさいからな」
その答えに、私はなぜか胸が詰まった。部屋に一人になってから、しばらく眠れなかった。
今日一日のことを、何度も思い返す。
皿を落としたこと。
謝ったら、許されたこと。
働いたら、飯をもらえたこと。
魔王だったころにはありえなかったことの連続で、人間にとっては当たり前でも、私にとっては、どれも新しい。
「……人として生きる、か」
小さく呟いて、目を閉じる。私は、少しだけ口の端を上げた。
今日明日で、すべてが変わるわけじゃない。でも、少なくとも――壊したら、謝る。困っていたら、助ける。そのくらいの普通なら、覚えられるかもしれない。
元魔王の、人間修行は、こうして始まった。




