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プロローグ

――勇者に倒されて、世界は終わったはずだった。

正確に言えば、私の世界が、だ。


石畳の冷たさが頬に張りついている。腹が減りすぎて、もう痛みすら鈍い。空はやけに青く、平和で、胸が悪くなるほどだった。


「……おかしいな」


呟いた声は、思ったよりも幼い。かつて魔族を統べ、世界を滅ぼすとまで言われた魔王の声とは、どう考えても釣り合わない。

角はなく、魔力はほとんど感じない。あの勇者の剣が胸を貫いた瞬間の記憶は、途中で途切れている。


死んだはずなのに。


それなのに私は――腹を空かせて、道端で転がっている。


「……情けない」


そのとき、足音がした。影が差し、誰かが立ち止まる気配。

顔を上げると、剣だこだらけの手と、見覚えのある横顔が視界に入った。


――忘れるわけがない。


世界を救った、あの勇者だ。


「……魔王?」


そう呟く声に、胸の奥がちくりと痛む。私は少し考えてから、正直に答えた。

「たぶん、そうです」

そして、どうしようもなく腹が鳴った。

「その……ごはん、ありますか?」

元魔王は、勇者の前で空腹を訴えた。

世界より先に、私の尊厳が終わった瞬間だ。


勇者は、しばらく黙って私を見下ろしていた。

敵意でも憎悪でもない、判断しかねている顔。――ああ、この表情も覚えている。私を討つ直前と同じだ。


「……立てるか」


短くそう言われ、私は頷こうとして、ふらついた。

視界が傾き、次の瞬間、地面に倒れ直す……はずだった身体を、硬い腕が支えた。

「ちょ、ちょっと……!」

抗議する力もなく、私はそのまま抱え上げられる。

剣を振るうための腕で抱きかかえられる魔王。歴史に残る屈辱だ。


「軽すぎるな」


勇者がぼそりと呟く。

胸の奥で、何かが軋んだ。かつて私は、城を揺らすほどの存在だったはずなのに。


「殺さないのですか」

問いかけると、勇者は歩きながら首を横に振った。


「もう一回倒す必要があるなら、腹を満たしてから考える」

「……変わりましたね、勇者」

「戦争なんて大きな出来事が終わったんだ。そら、人はだいたい変わる」

やがて、木造の建物の前で足が止まった。


扉の上には、素朴な看板。


――《酒場・焔のカウンター》


「ここが、俺の店だ」


扉を開けると、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。

その瞬間、私の喉が鳴る。


「……あの」


「座れ。まずはスープだ」


そう言って差し出された椅子に、私は言われるがまま腰を下ろした。


魔王が、勇者の酒場で、客として座っている。ものすごく奇妙な光景だろう。

湯気の立つ木椀が、静かに目の前へ置かれた。

白く濁ったスープから、干し肉と野菜の匂いが立ちのぼる。


「……毒は?」


思わず口にすると、勇者は苦笑した。


「客を殺す店主はいない」

「私は客なのでしょうか」

「今のところはな」


匙を持つ手が、わずかに震えている。警戒ではない。――期待だ。そんな感情を、私はもう何百年も忘れていた。


ひと口、すくって口に運ぶ。


熱い。


舌が痺れ、喉を通る感覚がやけに鮮明で、胸の奥まで落ちていく。


「……おいしい」


その瞬間、視界がにじんだ。

魔王だった頃、味など気にしたことはない。必要なのは力だけだった。


「そんな顔するほどのもんじゃない」


勇者は背を向け、カウンターを拭きながら言う。


「しばらく、ここにいろ」

「……監視ですか」

「保護だ」


その言葉に、私は言い返せなかった。守られる立場など、想像したこともなかったから。


スープを飲み干した頃、店の扉が軋んだ音を立てて開いた。夕刻の客だ。


「お、今日は早いな、リオ」

「席空いてるぞ」

「勇者様、今日のお勧めは?」

「もう俺はただの料理人だっつーの。あと今日のお勧めはコンソメスープだ」


町の人々が、何事もないように入ってくる。

誰も、私を恐れない。気づいていないのか、それとも――


「……私が魔王だと、言わないのですか」


小声で尋ねると、勇者――リオは、少しだけ考えてから答えた。


「言ったら、飯が不味くなる」

「……それだけ?」

「ああ。それだけだ」

客の笑い声と、食器の音が重なる。世界は、あまりにも普通に回っていた。

その中に、元魔王の居場所が、一つだけ空いているような気がして。


 今は営業時間中だから、と私は一旦裏に追いやられた。そこから覗き見る客席の騒がしさと、まるでキラキラと輝いているような楽しそうな様子に少し、羨ましく思う。

 お昼のピークも過ぎて、人がいなくなったからか、勇者は扉を開けてこちらにやってきた。


「さて、元魔王さんや」

「なんでしょう」

「保護するとは言ったが、何もせずとも食事が出てくると思ったら大間違いだ」

「……それで」

「お前にはこの店で働いてもらう。いわゆる看板娘的なものになってくれたらと思う」


「私は、魔王ですよ?」


 勇者の提案した内容が正気とは思えず私はつい語気を強める。しかし、それがどうしたというようにこの能天気なバカは続ける。

「というわけで、今日から店のホールに出てもらう。注文を聞いて料理と酒を運んでくれ」

「……」

 いまだにこいつの言うことを信じられずにジト目を送るが、気にする様子もなくひょうひょうとしている。なんだかとてもむかつく顔である。


 ただ、やはり、どこかで見覚えのある表情だ。

 まるで、迷っている?

 いや、違う。

 それなら、いつだ?

 こいつに倒される直前?

 いや、もっと前だ。


 ……うん。思い出せない。今はいいか。

考え事をしている間、勇者は続きを話すのを待ってくれていたみたいで、少し間の空いたタイミングで続きを言う。


「まあ、保護はする。聖教会がおせっかいを焼いてきたって追い返す。ただし‼これからお前は、くたばるまでの数千年だか数万年だか知らんが人として生きること」

「それだけ?」

「それだけだ」


 この男に倒されるまで、人間憎んで、滅ぼすことしか考えていなかったはずなのに、人間として生きろと言われても、特に何も思わない。どうしてだろうか。


「あれ?誰もいないの?」


 ホールの方から客の声が響いてくる。客が来たようだ。


「さあ、こいよ、また忙しくなるぞ」



「うん」



 私を一人の人として扱ってくれる勇者の言葉を、じっくりと、噛みしめるように、目を閉じる。

 そして私は歩き出す。


「看板娘、いいじゃない。魔王として生きるよりも楽しそうね」


「おい……あ、名前聞いてなかったな」

「ルナリア・サタナス!長いからルナと呼んでちょうだい!」

 そういいながら勇者のすねに蹴りを入れる。この体ではそこらの野良犬相手にすら負けるのだ。問題ないだろう。

「おい……なんか気に障るようなことしたか?俺」

「うっさいわね、締まんないのよ。もう……」

「なぜだぁ……」

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