第8話
第八話:瓦礫の鎮魂、紅き涙の誓い
それは、一瞬の過ちだった。
食料を買い終え、静かに村を去ろうとした時のことだ。異様な外套姿のアルティガを怪しんだ村の自警団数名が、背後からライラを強引に引き剥がし、彼女を「魔物の手先」と決めつけて剣を突きつけた。
「やめて、その人は……っ!」
ライラが突き飛ばされ、鋭い刃が彼女の頬をかすめて赤い筋を作った。 その瞬間、アルティガの中で何かが「弾けた」。
「――あ」
喉から漏れたのは、言葉ではない。 理性を繋ぎ止めていた最後の一本の糸が、ライラの血を見た瞬間に焼き切れた。 咆哮が、村の家々の窓ガラスをすべて粉砕した。アルティガの外套が弾け飛び、漆黒の鱗を逆立てた「厄災」が姿を現す。
「や、やめ……アルティガさ――」
ライラの制止すら、今の彼の耳には届かない。 黄金の瞳は紅く染まり、彼はただの破壊の権化となった。 一振り。右腕を振るっただけで、自警団の男たちは肉片へと変わり、その衝撃波は背後の家屋を紙細工のように粉砕した。 二振り。溢れ出した青白い魔力が大気を焼き、村の半分が瞬時にして火の海と化した。
数分後。 そこには、悲鳴さえ聞こえない「静寂」だけが残っていた。 かつての英雄が守りたかったはずの穏やかな営みは、黒焦げの瓦礫と化した。
「……ぁ……」
血の海の中で、アルティガは我に返った。 自分の爪にこびりついた赤。変わり果てた村の姿。 彼はその場に崩れ落ち、獣のような慟哭を上げた。辺境の小さな村ゆえに、この惨劇が世界に知れ渡るまでには時間があるだろう。だが、彼の心に刻まれた傷は、どんな魔法でも癒えることはなかった。
それから数日。塔へ続く道中で、アルティガは一言も発さず、虚空を見つめたまま立ち止まっていた。 食事も摂らず、ただ「怪物である自分」という泥沼に沈み込んでいく。
「……もう、終わりにしよう。俺が塔へ行けば、世界はさらに壊れるだけだ」
掠れた声で、アルティガが呟いた。 その時、パチン、と乾いた音が響いた。
ライラが、アルティガの頬を平手打ちしたのだ。
「……何をしてるんですか」
ライラの声は震えていた。怒りか、悲しみか。その紫の瞳には、かつてないほどの激しい光が宿っている。
「あなたが壊したものを、無かったことにはできません! 謝って済むことでもありません! でも……あなたがここで立ち止まって、ただの怪物になってしまったら、あの村の人たちは、何のために死んだんですか!?」
アルティガは、衝撃に目を見開く。
「あなたが自分を呪うのは勝手です! でも、私を救ったその手を、自分から汚れたものだと言わないで! 忘れていいなんて言いません。その罪を、一生背負って、苦しんで……その上で、私を塔へ連れて行ってください!」
ライラは、アルティガの服を掴み、彼の胸に顔を押し当てた。
「あなたが歩くのを辞めたら、私はどこへも行けなくなる……。お願い、アルティガさん。今は、このことを心の奥に刻んで、一旦だけ、忘れて。……私を、守り抜いてから、一緒に地獄へ行きましょう」
アルティガの目から、一筋の涙が溢れ、龍の鱗を伝って落ちた。 最強の男を救うのは、常にこの小さな少女の、祈りにも似た叱咤だった。
「……ああ。刻んだ。……忘れないために、今は、一旦だけ心の奥に沈める」
アルティガは震える手で、ライラの頭を優しく、だが力強く抱きしめた。 自分の血を呪うのではない。この業を背負ったまま、神の塔を登り切る。 二人の足取りは、前よりも重く、しかし、決して折れることのない強さを帯びて、再び塔へと向き直った。




