第5話
第五話:琥珀のまどろみ、旅立ちの仕度
聖龍が去った後の森は、何事もなかったかのように元の静寂を取り戻していた。 だが、二人の心の中には、明確な「道」が刻まれている。明日にはこの住み慣れた山小屋を離れ、険しい旅路へと戻らなければならない。
「アルティガさん、動かないでくださいね。……あ、また少し鱗が硬くなってる」
小屋の前の切り株に座ったアルティガの背後で、ライラが真剣な顔をしてハサミを動かしていた。伸びた彼の銀髪を整えるのは、この数ヶ月、彼女の日課になっていた。
「……すまない。髪の中にまで、鱗が混じり始めているんだろう」
「いいえ、綺麗ですよ。夕陽を反射して、宝石みたい。……はい、おしまい。さっぱりしましたね」
ライラは満足げにうなずき、アルティガの肩にかかった髪を丁寧に払った。 アルティガはふと、自分の大きな掌を見つめた。かつては剣を握るためだけにあった手が、今はライラに髪を切ってもらう間、暴走しないように膝の上で静かに握りしめられている。
「ライラ。明日は早くに出る。……本当に、いいんだな?」
「もう、それ聞くの十回目ですよ? 私はアルティガさんの隣が一番安全なんです。……それに、見てください。これ、完成したんです」
ライラが小屋から持ってきたのは、この数日間、彼女が寝る間も惜しんで縫い直していた漆黒の外套だった。 以前のものより一回り大きく、肩回りには丈夫な魔物の皮で補強が施されている。何より、龍人化したアルティガの巨大な右腕や尻尾が、不自然に見えないような工夫が凝らされていた。
「これなら、街の近くを通っても大丈夫です。……フードを深く被れば、ちょっと強面な旅人さんに見えるだけですよ」
「……ありがとう。大切に使わせてもらう」
その夜、二人は最後の晩餐として、森で採れたキノコと干し肉をたっぷり入れたスープを囲んだ。 パチパチと爆ぜる焚き火の音を聞きながら、アルティガはふと、かつての仲間たちのことを思い出していた。 セレナなら、このスープに「味が薄いわよ」と文句を言っただろうか。ショウなら、栄養バランスについて小言を言っただろうか。
けれど、今のアルティガにとって、ライラが一生懸命に灰を飛ばしながら作ってくれたこの一杯こそが、何よりも彼を「人間」に繋ぎ止めてくれる唯一の錨だった。
「アルティガさん。もし何か、今より状況が好転したなら……何がしたいですか?」
ライラが膝を抱え、焚き火を見つめながらぽつりと言った。
「……考えたこともなかったな。今は、君をこの呪いから完全に解放し、俺自身が君を傷つけない存在になること。それだけが望みだ」
「私は……。全部終わったら、またこうして、静かな場所でお料理がしたいです。今度は焦がさないように、もっと練習して」
「……ああ。その時は、俺がまた魚を獲ってこよう」
そんな他愛もない約束が、今の二人には眩しすぎるほどに尊かった。 夜が更け、ライラがアルティガの腕の中で、安心しきったように寝息を立て始める。 アルティガは、彼女を傷つけないよう注意深くその体を抱き寄せ、黄金の瞳を閉じた。
明日からは、戦いの日々が始まる。 自分を人間に戻すための旅ではない。 この少女の未来を、世界の呪いから奪い返すための戦いだ。
夜の帳が下りる中、龍人の咆哮を胸に押し込め、アルティガはしばしの眠りについた。




