第3話
第三話:琥珀の瞳と、焦げたパンの香り
深い森の朝は早い。 霧が木々の間を這い、野鳥のさえずりが響く中、アルティガは冷たい川のほとりに立っていた。
「……ふっ!」
一閃。 剣など持っていない。ただの素手による手刀が空気を切り裂き、川面を走る衝撃波が跳ねた魚を数匹、岸へと打ち上げた。 かつては聖級の魔剣を振るい、巨大なワイバーンを一刀両断したその腕だ。今は魚を捕るのにも、力加減一つで身を粉砕しかねないほど、その肉体は強大で、制御しがたいものに変質していた。
「アルティガさん! またそんなにたくさん!」
森の広場に設けた野営地から、ライラがトコトコと駆け寄ってくる。 彼女は、かつて国を追われた際のボロボロの服を洗い、アルティガが仕留めた獣の皮を繋ぎ合わせて作った、これまた不器用な毛皮のポンチョを羽織っている。
「……力が余っているのだ。これでも抑えたつもりなのだがな」
アルティガは、深いフードの奥で黄金の瞳を細めた。 顔の右半分を覆う鱗は、陽光を浴びて琥珀のように鈍く光る。彼は自分の姿がライラに恐怖を与えていないか、今でも時折不安になる。だが、彼女はそんな彼の内心を見透かしたように笑った。
「おかげでお腹いっぱい食べられます。……でも、今日こそは私に料理をさせてくださいね? アルティガさんが火を吹くと、お肉が炭になっちゃいますから」
「……善処しよう」
以前、焚き火に火をつけようとして無意識に「龍息」の端くれが漏れ、獲物を丸ごと蒸発させたことを言っているのだ。アルティガはバツが悪そうに視線を逸らした。
野営地に戻ると、ライラが手際よく(とは言えないまでも、一生懸命に)準備を始める。 彼女が作っているのは、旅の途中で立ち寄った廃村から持ってきた、古びた鉄鍋でのスープ。そして、石の上で焼く簡易的なパンだ。
「あっ、また少し焦げちゃった……」
ライラが顔を煤で汚しながら、苦笑いする。 世界最強の冒険者パーティ『聖銀の轍』にいた頃、アルティガが口にするのは常に最高級の食材と、超一流の料理人が腕を振るった逸品ばかりだった。魔王の軍勢と対峙し、世界の命運を背負って戦っていたあの日々。
それに比べれば、この焦げたパンと、薄い塩味のスープは、あまりに質素で、あまりに不格好だ。
「……美味しいな」
アルティガは、龍の爪が残る指先で不器用にパンを掴み、口に運んだ。
「本当ですか? 気を使わなくてもいいんですよ?」
「嘘ではない。……かつて食べてきたどんな晩餐よりも、今はこれが一番、腹に溜まる気がする」
それは本心だった。 英雄としての重圧も、仲間たちの期待を背負う義務もない。ただ、自分を「怪物」ではなく「アルティガ」として見てくれる一人の少女と囲む食卓。 龍の血がもたらす破壊衝動は、彼女が隣にいて、こうして笑いかけてくれるだけで、不思議なほど静かになる。
「アルティガさん、少し髪が伸びましたね。後で私が整えてあげます」
「ああ。……頼む」
木漏れ日が降る中、穏やかな時間が流れる。 自分たちが世界から追われていることも、元仲間たちが必死に自分を追跡していることも、この瞬間だけは忘れられた。
だが、その平穏を破るように、森の奥から不自然な魔力の揺らぎが伝わってくる。 アルティガの鋭敏になった感覚が、侵入者の気配を捉えた。
「……ライラ、俺の背中に隠れていろ」
彼は静かに立ち上がった。その瞬間、温厚な隠者の空気は消え去り、森の空気を一変させるほどの圧倒的な「捕食者」の威圧感が立ち昇った。




