第2話
第二話:泥濘の逃亡、止まない咆哮
背後から聞こえる仲間たちの叫びが、遠ざかっていく。 アルティガはライラを抱えたまま、木々をなぎ倒すような勢いで森を駆け抜けていた。龍人へと変じたその脚力は、かつての彼自身の「縮地」さえ凌駕している。
どれほど走っただろうか。日が落ち、月が雲に隠れた頃、アルティガは人跡未踏の渓谷にある洞窟へと滑り込んだ。
「が、はっ……、あ……っ!」
ライラを地面に下ろすと同時に、アルティガは岩壁に強く背を打ち付けた。 右腕から始まった浸食は、今や鎖骨を越え、首筋にまで黒い鱗を広げている。 脳を焼くのは、ただ一つの衝動だ。 ――戻れ。戻って、あそこにいる「柔らかい肉」を食いちぎれ。
「ハァ……ハァ……っ、逃げろ……ライラ……ッ! 早くしないと、俺が俺でなくなる……!」
アルティガは残った左手で自分の右腕を掴み、肉が抉れるほど強く指を立てた。苦痛で理性を繋ぎ止めようとするが、龍の血がもたらす破壊衝動は、それすら快楽に変えてしまいそうなほどに猛烈だった。
だが、ライラは逃げなかった。 泥に汚れ、服もボロボロになった彼女は、膝をついてアルティガに歩み寄る。
「……死にたく、ないと言いました」
ライラの震える声が、洞窟の中に響く。
「私が森で死にかけていた時、あなたは『生きたいか』と聞いてくれた。……だから、今度は私が言います。アルティガさん、死なないで。怪物に、負けないでください」
彼女がそっと、アルティガの荒れ狂う右腕を包み込むように抱きしめた。 直後、アルティガの視界が白く染まった。
ライラの能力「精神操作」が、強制的に彼の脳を沈黙させる。 それは通常、対象の自我を壊すほどの荒業だが、今のアルティガの暴走した精神にとっては、荒波を鎮める聖域のような静寂だった。
「…………っ」
アルティガの黄金の瞳から、殺意の光が消える。 彼はそのまま糸が切れたように、ライラの細い肩に寄りかかって意識を失った。
翌朝。 差し込む朝日に目を覚ましたアルティガが見たのは、自分の異形を怖がることもなく、近くで木の実を集めている少女の姿だった。
「起きましたか? アルティガさん」
ライラは力なく微笑んだ。その顔色は青白く、精神を酷使した反動で体力が限界に近いことは明らかだった。
「……なぜだ。君を殺そうとしたんだぞ、俺は」
「覚えていませんか? あなたは私を抱えて走っている間、ずっと『すまない』って言っていたんですよ。……そんな優しい怪物が、どこにいますか」
アルティガは、自分の手を見つめた。 鋭い爪、禍々しい鱗。 かつて最強の名を欲しいままにした冒険者の手は、もう失われた。 だが、この忌まわしい手でなければ救えなかった命が、目の前にある。
「ライラ……俺は、この呪いの正体を知らねばならない。俺をこうした世界の理を、そして君をドラゴンに変えた元凶を」
アルティガは立ち上がり、外套の代わりとなる大きなボロ布を纏った。 「これから、さらに険しい道になる。世界中の人間が俺を討伐しに来るだろう。……それでも、ついてくるか」
ライラは迷わずに頷いた。
「はい。あなたが人間に戻るまで……いいえ、戻れなくても。あなたの心が、あなたのままでいられるように。私が、あなたの枷になります」
こうして、二人の逃亡劇は「旅」へと変わった。




