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申し出

 レインさんは翌日の夜営業の時にやってきた。次に来た時にビクトルのことを聞いてみよう、とは思っていたけれど、あまりにすぐ来たものだから狼狽えてしまう。


 考えてみたら最近のレインさんはニ日に一度のペースで来店しており、昨日来ていなかったのだから今日来ることは想定できたのに。私がここまで身構えてしまうのは、レインさんが人と喋ることを好まず、女性に苦手意識を持っているからだった。


 レインさんは恩人でもあるし、坂の上食堂では快適に過ごしてもらいたい。そう思って普段は最低限の会話だけで済ませているのに、嫌がるとわかっていて話しかけるのは気が引けた。


 これが娘のことでなければ諦めていたと思う。リオナの幸せを確かめるためならば、例えお客様を一人失ったとしてもやらなければならない。自分に何もできなかったとしても。


 いつものようにレインさんは一人で黙々と食事をしている。今日はベーコンたっぷりの大盛りパスタと揚げた芋も注文して気持ちのいい食べっぷりだ。レインさんは細身の割によく食べる。


 夜に来店してもレインさんはお酒を飲まない。兵士だからなのか、お酒が好きではないのかわからないけれど、黙々と食事だけを楽しんでいる様子は父の料理が好きな私としても好ましかった。


「ごちそうさまでした」


 今夜もレインさんは私と父に向けてそう言って会計を済ませるとすぐに店を後にする。私は父に「お見送りしてきます」と、声をかけてレインさんを追いかけた。


「レインさん」


 声をかけると、レインさんは少し驚いたような表情で振り返った。フードを被りかけていたが、やめてフードを外して私に向き直る。


「本日もご来店ありがとうございました」

「いや、こちらこそいつも世話になっている。……それより、大丈夫なのか?」

「……え?」


 まさかレインさんから会話を広げられると思っておらず驚いてしまう。


「大丈夫、とはこの前のお客様のことですか?」

「そうではなく……」


 レインさんは伝わらないことに苛立ったのか自分の頭をポリポリと掻く。


「最近、男の客を恐れているように見えるから」

「え?」


 思いもよらない言葉に私は目を丸くしてしまった。思い当たる節はある。


「……そんなにわかりやすかったでしょうか」


 まさかお客さんであるレインさんに気づかれてしまう程に表に出ていたとは。たしかに私はあの一件以降、男性のお客さんを怖いと思ってしまうことがある。


「いや、そうではなく……」


 レインさんはもどかしそうに僅かに顔をしかめた。


「見ていて……気になっただけだ。他の客には気づかれていないと思うが、店主は気づいているだろう」


 父が私を気にしている様子には私も気づいていた。


「レインさんは観察力が優れているのですね」

「そういうわけでもないと思うが……まぁいい。それで、大丈夫なのか?」

「大丈夫……とは言えないです」


 私は正直に告げる。レインさんに気づかれているくらいだし、店員失格だ。


「男が恐ろしいか?」

「……はい。あ、レインさんや父は怖くないです! ただ、声が低かったり体格がいい人はちょっと……」

「……過去に何か?」


 レインさんの顔には明確に私を案ずるような色が乗っている。一度助けてくれたことで、乗り掛かった船、といった感じだろうか。


「……はい、少し。怒鳴られたり暴力を振るわれたことも何度か」


 嘘はつけなかった。前世の話だから聞こえようによっては嘘になってしまうのかもしれないが、この身体の奥底からやってくる震えの理由を他に言い表せそうにない。


 いわゆるDVをされる家庭がどの頻度で暴力を振るわれているのかわからない。それで言うと我が家は他と比べると少ない方だったのではないかと、今になって思う。


 元夫が私に暴力を振るうのは年に一度か二度だった。怒鳴られることはもう少しあったけれど、必ずしも暴力に行き着くわけではなかった。


 ただ、その年に一度か二度の暴力がいつ起こるかはわからない。今日かもしれないし半年後かもしれない。


 いつ起きてもおかしくない、という緊張感は常に付き纏っていて、夫の機嫌が少しでも悪いと心臓が縮む思いがして生きた心地がしなかった。


「……そんな状態で店員を続けられるのか?」


 レインさんの問いは私もここ数日ずっと頭にあったことで、それを他人から口にされるとチクリと胸が痛んだ。


「父に迷惑をかけている自覚はあります」


 父は料理に専念して接客はほとんどしないタイプだが、ここ数日は度々厨房の外に出て料理を提供したり接客をしてくれている。父は決して口にしないけれど、私の異変を確実に把握して守ってくれていた。


「私には他に行く場所もありません。どうにか克服しなければと……思っていますが……」


 でもこの恐怖をどう克服すればいいのか、皆目見当もつかない。前世ならばカウンセリングとかメンタルクリニックなんていう手があったかもしれないが、この世界にそういう場所があるという話は聞いたこともない。


「克服できるものなのか?」

「……正直、自信はありません。でも仕事ですから……」


 満足に仕事もできないのに店員を続けるなんて父にもお客さんにも迷惑だ。今まで通りの仕事を続けるしかない。それなのに身体と心が言うことをきいてくれないのだ。


「……仕事だからという責任感は素晴らしいと思うが、でもそれでは辛いだろう。……アイリスが」


 突然名前を呼ばれたことにドキリとする。一度名乗っただけなのに覚えていてくれたんだ。


「怖いんだろう? 怖いものに毎日向き合わなければならないのは辛いんじゃないか?」


 しかも、レインさんはどうやら私のメンタル面を心配してくれている。以前助けてくれただけでなく、心配までしてくれていたとは。


「ありがとうございます」


 私のことをこんなに心配してくれる人がいるなんて、いつぶりのことだろう? 胸がぽっと温かい気持ちになる。


「嬉しいです。……でも、働くからにはしっかりやらないと」

「……他の仕事を探せばいいんではないか?」

「他の仕事……ですか?」


 考えてもみなかったことだ。


「私が働ける求人があるんでしょうか……。私はまともな教育も受けておらず、家も平民です。それにこのロジールの街で男の人を避けた仕事というのもなかなか……」


 私は家業しかしたことがないし、この世界にどんな仕事があるのかもわかっていない。家という最高の職場があったから、他を考える必要もなかったのだ。


 言われてみればたしかに、仕事で迷惑をかけているなら転職という手もありだ。


「……俺の同僚の伯爵家の長男なんだが近々妻を迎えることになり、侍女を数名募集するらしい」

「伯爵家の侍女……平民がなれるものでしょうか?」

「伯爵家といっても家主はまだ爵位を継いでいるわけではないし、家に住むのはやつと妻だけで、貴族にしてはこぢんまりとした家らしい。やつは身分にこだわるタイプじゃないから、侍女も身分で選ぶわけではないだろう」

「それなら私でも応募可能ということですね。ちなみに……もしかして兵士さんって貴族しかなれない職業ですか? レインさんも……」

「まさか」


 話を遮って申し訳なかったが、どうしても気になったので聞いてみた。レインさんはうんざりしたように手を振る。


「俺は平民だ。貴族で兵士というのもいないわけじゃないが少数だ。やつみたいな貴族はそのうち兵の要職につくんだろう」

「そうなんですか」


 この世界で生まれ育っているというのに、私は知らないことが多すぎる。


 それにしてもいつも真面目そうに見えるレインさんが相手が貴族であるのにその男性のことを"やつ"と呼ぶ。それなりの仲ということだろうか。


「やつは男だがそんなに長く家にいるわけじゃない。相手にするのはほぼ妻で、同僚も女ばかりだ。やつも兵士だが声が大きかったり乱暴をすることはないと思う」


 レインさんは私の身を案じてくれるばかりか、仕事の紹介までしてくれた。しかも私の男性恐怖症を知って、なるべく男性に会わないような仕事を。


「ありがとうございます。父とも相談して検討してみます。ちなみにそのお宅はどちらに? 何というお方でしょうか?」

「ニュリード伯爵家のビクトルという男だ」

「ニュ……えぇ!?」


 心臓が止まるかと思った。ビクトル・ニュリード。リオナの夫になる男だ。つまりその仕事で世話するのはリオナ……!?


「? ビクトルを知っているのか?」

「いえ、まさか! でもその仕事、ぜひやりたいです!!!」


 願ってもない幸運だ! リオナの世話にかけて私はこの世界一得意だと言える。


「さっきは検討すると……」

「いえ、よく考えたらこれ以上私に合う仕事はありません! 父は必ず説得します! ありがとうレインさん!!」


 興奮のあまり私はレインさんのひんやりとした手を握ってぶんぶんと上下に振った。まさか平民の私が貴族のリオナに近づく方法があるなんて!

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