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フードの人改めレインさんはその後も変わらないペースで坂の上食堂に来店してくれている。幸いなことに追っかけの女性がこの店のことを嗅ぎつける気配もない。
レインさんは坂の上食堂に前よりも気を許してくれるようになったようで、来店して店内に女性がいないとフードを外して食事をしてくれるようになった。その上、食後には「ごちそうさま」「美味しかったです」などと、父に一言くれるようにもなり、私にも目を合わせて会釈してくれるようになった。
坂の上食堂が少しでもレインさんの心の安らぎになっているのだろうか、と思うとほっこりした温かい気持ちになる。
ただ、あの一件以来、私は前よりも男性に恐怖心を抱くようになってしまい、坂の上食堂には男性のお客さんが多いのに困っていた。油断しているとちょっとでも大きな声を出されると肩が震えそうになる。
頭では怒っているわけではないとわかるのに、身体は本能に従って怯えてしまう。父やレインさんのような細身で声の大きくない男性は大丈夫なのに、体格が良く声の大きめの男性には以前よりも苦手意識を持ってしまっている。
まさか自分がここまで男性のことが苦手になっていると思わなかった。そう思えば、元夫も中肉中背で声も大きな方だった。
前世の私は死んでしまっているはずだし、元夫そのままの人間がこの世界にいるはずがない。わかっているのに恐怖は拭えないままだった。
そんなある日の夜営業のことだ。珍しく新規のお客さん、しかも若い男女の二人が坂の上食堂に来店した。
二人とも小綺麗な衣服を纏っていて、平民であるにしても比較的裕福なのではないかと推測される。男性は坂の上食堂の店内を物珍しそうにキョロキョロと見渡していた。
女性の方は少し不安げで、俯きがちで席に座る。
「いらっしゃいませ」
坂の上食堂には珍しいお客さんではあるが、女性がいることで私の緊張も幾分か解れた。
「どうも」
男性は値踏みするような目で私を見る。嫌な気持ちだったが、女性がソワソワといづらそうにしているので、なんだかそっちの方が心配になってしまう。
男性はお酒、女性はお茶、そして食事を何品か頼んだ。まず飲み物とお通しを提供すると、二人は控えめな音でグラスを合わせた。
男性の声が大きいので自然と会話の内容が聞こえてくる。どうやら二人はこのロジールの街の役所で働いているらしい。男性の方は「ジルベルトさん」女性の方は「ルイーズ」と呼ばれている。
どんな仕事をしているのかまではわからないが、ジルベルトさんの方は自信家でプライドが高そうだ。お酒が進む毎に愚痴が増えてきた。
「仕事もやりがいがないんだよな。異動前の仕事の方が俺には合ってた。今の仕事はしがらみも多いし退屈なんだよ」
基本的にジルベルトさんが喋ってルイーズさんは聞き役に回っている。ルイーズさんはどんな気持ちでジルベルトさんの話を聞いているのだろう、とちょっと心配になってしまう。
「ヴァスタさんの仕事ぶりもなんかなー。鈍臭いっていうか? 見ててイライラするんだよな。同じ空間にいたくないっていうかさ。ルイーズもそう思うだろ?」
ルイーズさんは曖昧に微笑む。
「ルイーズは女だから何も言えないのはわかるけどさ、でも二人きりの時くらい本心を言っていいんだぜ? なんかルイーズも煮え切らないっていうか……せっかく俺が時間を割いて食事にきてやってるのに」
威圧的な言い方でないものの、ルイーズさんを下に見るような言い方に思わずムッとしてしまう。店員の立場で口出しするわけにはいかないけれど。
「ルイーズも今の立場に甘えずに、女としてだけじゃなくて俺を楽しませられるようにならないと。顔も気立てもいいのもわかってるし、女としては文句はないよ? ただもっと気が利いてほしいっていうか……わかるだろ? こっちだって友達付き合い我慢して来てやってるんだからさ。これで友達と疎遠になったら、その分の利点をルイーズが提供できるのかって話で……ちょっとトイレ」
自分勝手な人すぎて呆れてしまう。そのタイミングで頼まれていた肉の揚げ物が出来上がったので提供しに席へ向かった。
「……大丈夫ですか?」
つい、小声でルイーズさんに話しかけてしまう。ルイーズさんは驚いた顔をしたものの「はい」と、小さく答えてくれた。その顔があまりに疲れていたので、ついまた余計なことを言ってしまう。
「あの、差し出がましいことを言うようですが、自分のことは自分で幸せにするべきだと思います。自分の幸せを他人に頼りっぱなしでは、本人も、周りも苦しくなります」
ジルベルトさんがいつ戻ってくるかもわからないので簡潔に言いたいことを伝える。ルイーズさんは目を丸くして私を見た。
私は「失礼しました」と、言ってすぐにルイーズさんの側を離れる。カウンターの中に戻って様子を伺うと、ルイーズさんは何事か考えているように見えた。
ルイーズさんの人生はルイーズさんのものだ。私や周りが何を言っても男性の好みというものもあるだろうし、どういう関係性を望むのかもルイーズさん次第。
「そういえばさ」
トイレから戻ってきたジルベルトさんは今までの勢いそのままで喋り始める。きっとお喋りが好きな人なのだろう。
「ラインデル侯爵の次女が結婚するって聞いたか?」
思わぬところから突然の望んでいた名前が聞こえてきて心臓が跳ね上がる。
(って、いうか、待って? 結婚?)
「……知ってる。女学院で同級生だったの」
「そうだったっけ? 相手聞いたか? びっくりだよな、ロジールの兵士だぜ? しかも伯爵家の養子ときたもんだ! 身分違いもいいとこだよなー」
ジルベルトさんのバカにした言い方にイラッとする。それと同時に混乱もしていた。リオナが侯爵家より身分の低い伯爵家に嫁ぐ? それは前にコールさんから聞いていたように、リオナがラインデル侯爵家の中で一番軽んじられていることに関係があるのだろうか?
「ラインデル侯爵家の次女ってどんな顔してるんだ? 顔も性格も悪いって聞いたことあるぜ」
「……」
「え?」
ルイーズさんはもう一度言い直した。
「リオナを悪く言わないで」
今度は聞こえるように発せられた言葉は明確に怒りの感情が乗っている。
「リオナは私の友達なの。平民の私にも分け隔てなく接してくれた、優しい子」
「ふーん。っていうか、まさかルイーズに貴族の友達がいたなんてな。今度紹介してくれよ」
「嫌よ」
ルイーズさんははっきりと断った。
「貴方に紹介したい友達なんていない」
「なっ……!? まさかルイーズ、さっき言ったことを勘違いしてるんじゃないだろうな? 俺はルイーズにもっと自分の意見を持てって言っただけで、俺に楯突いていいと言ったわけじゃない」
「自分の思い通りになる女がいいってことでしょう? じゃあ他を当たってください」
「そうとは言ってないだろう」
ルイーズさんはカバンを持って立ち上がる。
「貴方は他人のことをバカにして安心したいんでしょうけど、私の友達のことまでバカにされたら黙っていられない。私の幸せを犠牲にしてまで、あなたのためになんて無理です。さようなら」
ルイーズさんははっきり言い放つと店を出て行った。
「おいっ……!」
慌てて追いかけようとしたジルベルトさんを父が「お会計ですか? まだお食事が残っているようですが、持ち帰りの用意をしましょうか?」などと言って呼び止める。チラッと目配せされたのを見て私は頷いて、店を飛び出した。
「ルイーズさん!」
角を曲がろうとしていたルイーズさんを呼び止めると、目の縁を赤くして振り返った。
「すみません、先程は途中で余計なことを言ってしまって……」
「いいんです、ありがとうございました。すみません、お店でお騒がせして」
申し訳なさそうに微笑むルイーズさんはむしろ清々しい顔をしている。
「この辺りは治安がいいとは言えないので、大通りまでお送りします」
「……いいんですか? ありがとうございます」
不安が顔に浮かんでいたルイーズさんは私の申し出をすぐに受けてくれた。
ジルベルトさんに追いかけられても面倒だ。私はこの辺りに住む人がよく通る、比較的治安がいいけれど入り組んだ道を選んで歩き出す。
「……ダメですね、私、男の人を見る目がなくて」
ルイーズさんが眉尻を下げて言う。好きだった人と別れたばかりなのだ、話を聞いてほしいだろうと思って私は静かに頷く。
「仕事ができて私が困っていると助けてくれて、すぐ好きになってしまって。付き合い出して、あれ? と思うことは多かったんですけど、男の人の方が強いのは当たり前だし、男の人を立てるのが女の役目だからって見ないふりをしてしまって……」
男尊女卑の精神は、前世の日本よりも今世の方が強いと思う。その分、女性は働かずに済むことが多いけれど、立場は弱く、家庭でも大きい顔をする男の方が多い印象だ。
「でも店員さんの言葉で目が覚めました。このまま結婚……なんてなっていたら、彼の幸せのために自分の幸せが犠牲になっていた気がします」
弱々しく笑うルイーズさんは、けれどもどこか憑き物が落ちたかのような気の抜けた様子だ。本来の彼女はこのような雰囲気なのだろう。
「ご迷惑おかけしてしまいましたが、ありがとうございました。またお店にお邪魔させてください……今度は一人で」
「はい、お待ちしています」
この辺りに住まない女性が一人で、というのはなかなかハードルが高い気もするが、その気持ちだけで嬉しかった。
「あの……少し聞きたいことがあって。このために声をかけたのではないのですが……」
「はい、なんでしょうか?」
聞きにくくはあるが、私にはどうしても聞きたいことがある。
「先程話が聞こえてきてしまって……。リオナ様のことなんですが」
「リオナのお知り合いですか?」
「知り合いというわけではないんですが……以前大通りで見かけて素敵な方だな、と気になってしまって」
「あぁ……。リオナは美人ですもんね」
私の下手をすると変人と思われかねない理由にルイーズさんは笑って納得してくれたようだった。
「リオナ様のご結婚のお相手はどんな方なんですか?」
「私も詳しくはないんですが……。ニュリード伯爵の長男、ビクトル様という方らしいです」
ニュリード伯爵。貴族に詳しくない私は知らない名だったけれど、侯爵よりも爵位は低い。それに、先程ジルベルトさんが養子と言っていた。
「私もお会いしたことはないのでどんな方なのかはわからなくて。リオナにも女学院を卒業してから会えていませんし」
「そうですか……。ありがとうございます」
私はどう受け止めたらいいのかわからないでいた。ラインデル家でリオナは幸せに暮らしていなかったかもしれない。その家を出られるのだから、いいことなのかもしれないけれど、爵位の低い家に嫁ぐことは果たして幸せなのだろうか。
それに、そのビクトルという男がどんな男なのかもわからない。ラインデル家のことも満足に調べられない私が、ニュリード伯爵家のことを知ることは可能なのだろうか。
「その……ビクトル様はどのような仕事をなさっているかご存知ないですか?」
「あぁ、仕事は知っていますよ。兵士をしていて北の砦の警護をされているとか」
「北の砦……」
なんだか数日前に耳にしたような気がする。思い出そうと考えを巡らせて、ふとアメジストのような瞳が浮かんだ。
(そうだ、レインさん)