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トラウマ

 それから数日、私はラインデル伯爵やリオナの新たな情報を得られないまま普段通りの日常を過ごしていた。焦りばかりが募るけれど、仕事はこなさなくてはいけないし、動こうにも平民と貴族という立場の壁が高すぎて何もすることができない。


 今夜のお客さんも、常連の漁師の男二人組と、旅の途中だという男性一人、そしてフードの人のみだ。今夜も情報を得られそうにない、と思うとため息が出そうになる。


 店員の私に会話を求めてくる客もいないし、全員料理もお酒も提供し終えてすることもない。正直暇な夜だ。


 父も料理を作り終えると、足りなくなったお酒を買いに出かけてしまった。近くの酒屋に行くだけなのですぐに帰ってくるが、この調子だと新たな客も来ないだろう。


 天気が悪いわけでもないのに、なぜかやたらと忙しい日もあれば、暇な日もある。示し合わせたみたいだな、と不思議な気持ちになる。


 欠伸が出そうになるくらいの暇な日。ぼんやりとして気が抜けていたのだが。


「なんだと!?」


 急な男性の大きな声にビクッと大袈裟に肩が揺れる。続いてバンっと机を強く叩いて立ち上がる男性の背中を視界が捉えた。テーブル席の二人組の男性の片方だ。


「お前は俺が無能だと、そう言いたいわけか!?」

「そうは言っていないだろ!」


 漁師の男性二人組はだいぶお酒を飲んでいる。それこそ、父が酒屋へ酒を追加で買いに行くくらいには。


(まずい、他のお客さんもいるのに……止めなきゃ)


 そう思い足を一歩踏み出そうとするも、上手く歩けずにふらつく。そこで私は初めて自分の足が震えていることに気がつく。


(……怖い)


 自分に向けられた怒りではないのに、こんなにも怖い。男性が本気で怒っている声。大きな物音。


 酒を提供するお店だから、客同士の喧嘩は年に何回かは遭遇する。いつもは父が静かに対応してくれる。それでもこんなに怖いと思ったことはなかったのに。


(まさか前世の記憶を取り戻したから……?)


 私の元夫は私に手をあげる人だった。結婚していた時は少し不機嫌なだけで恐ろしく、胃が縮む思いだった。


 男性が本気を出せば、どう頑張っても女の私は勝てっこない。それがどうしようもなく怖い。


 男女平等! なんて言うけれど、男性と女性では違うところが多すぎる。


 漁師の二人の喧嘩は続いている。カウンターに座った旅人の男性が迷惑そうな顔で二人を見ていた。


(私が外でやってくださいって言わないと……)


 頭ではわかっているのにどうしても身体が動かない。それどころか身体が震えて声も出せそうになかった。


 その怒りの矛先がいつ私へ向くかと思うと怖い。情けなくも涙が出そうになる。


 ──その時。


「おい」


 静かな声にハッと目線を上げると、漁師の男性の後ろにフードの人が立っていて、漁師のたくましい腕をひねりあげるように掴んでいた。


「なんだお前!」


 すっかりヒートアップしている漁師が掴まれた腕から逃れようと身体をひねるが動じない。フードの人の方が漁師よりも遥かに細身なのに。


「店の迷惑だ。金を払ってから外でやれ。さもなくばこのまま捕えるぞ」


 そう言って漁師を掴んでいるのと逆の手で外套を脱ぐ。すると、兵士の制服が見てとれた。


 フードの人は兵士だったんだ。


「ちっ、お前軍の……」

「金を置いてさっさと出て行け」


 フードの人の有無を言わさぬ圧に屈して、漁師は二人でテーブルに金を叩きつけるように置いて店を出て行った。瞬く間の出来事に、私は動けずにいる。


 扉が閉まると、フードの人の顔が私の方に向く。外套を脱いでいるのでフードを被っていない姿を初めて見た。


 こんなにはっきり顔を見るのは初めてだ。長めの前髪の隙間からアメジストのような綺麗な紫色の瞳が私を映す。


「……大丈夫か?」

「あ……」


 ありがとうございます、と言いたかったのだけれど、震える唇から声が出てこない。柱に掴まっていないと立っていられない程に私の身体は震えていた。


(恥ずかしい……)


 店員という責任ある立場にも関わらず、客のトラブルに震えて何も対応できず、お客さんの手を煩わせてしまった。その上お礼も言うことができない程怯えているのだ。


 なんと情けないことか。自分の情けなさに、引っ込んでいた涙が再び込み上げそうになる。


「……とりあえず水を」


 いつの間にかカウンターに置いてあった水差しでコップに水を注いでくれたらしいフードの人がずいっとコップを差し出してくれた。私は震えながら頷くと、コップを落とさないように慎重に受け取り、コクコクと水を数口飲んだ。


「あり……がとうございます」

「……いや、静かに食事をしたかっただけだ」


 フードの人は私をじっと見た後でそう言って、外套を拾ってからカウンターの席に戻り、何事もなかったかのように食事を再開した。それと同時に背後の扉が開き、


「大丈夫だったか?」


 と、少し慌てた様子の父が戻ってきた。恐らく通りで喧嘩をする漁師二人組を見て何かあったと察したのだろう。


「……大丈夫。あちらのお客様が助けてくださって……」

「そうだったか」


 父がフードの人のところにお礼を言いに行く背中をぼんやりと見つめる。


 怖かった、と同時に前世の記憶を思い出しただけで、今まで平気だったことが途端に恐ろしくなってしまったこと、そして離婚もして自分の中でケリがついたと思っていたことでこんなにも怯えてしまうことに底知れない恐怖を感じる。前世の話なのに、転生してなおここまで引きずっていたとは。


 フードの人は、父のお代はいらないという申し出を頑なに断り、しっかりとお代を支払った。ボソボソと話す声を聞くに、普段美味しいご飯を食べさせてくれているのだから、そのお礼だと思って気にしないでほしい、というようなことを言っている。若いのにしっかりとしていて、誠実な男性なのだな、と思う。


 いつものように軽く頭を下げて静かに店を出て行ったフードの人を、父に促されて初めて店の外まで送りに出た。


「あの……っ」


 落ち着きを取り戻した私の声に、フードの人は振り返ってくれた。外套を着ているが、フードはまだ被っていない。


 こうして顔を隠さない状態でまじまじと向かい合うと、本当にイケメンだなと思う。前世ならば芸能人になれるレベルだ。


「助けてくださってありがとうございました」


 私は腰から身体を折ってしっかりとお辞儀をする。


「お客様が助けてくださらなかったらどうなっていたことか……」


 恐ろしくて声も出せなかった私。二人の喧嘩がヒートアップしてしまったら、店内がめちゃくちゃになっていたかもしれない。


「ここで働いているのに……対処できずご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした」

「いや……そんなに気にすることはない」


 降ってきた言葉に私は顔を上げる。


「男同士の喧嘩に割って入るのは怖いだろう」

「いえ……私は店員ですから」


 男も女も関係ない。働いている身としては店の中で起きるすべての出来事に責任を持たなくてはならない。情けなくて、拳をぎゅっと握った。


「……この店には世話になっているから」


 フードの人の顔を見ると少し困ったような顔をしている。


「……客は男が多いし、料理も美味い。静かに食事ができて……気に入っている」

「ありがとうございます」


 いつも無愛想で最低限のやり取りしかしないフードの人がうちの店を気に入ってくれていた。店員としても父の娘としても嬉しい。


「でも男性のお客様が多いことも気に入ってくださっていると思いませんでした」

「俺は……その、容姿のせいか、大通りの女もいる店に行くと騒がれてしまうし、後をつけられて店に迷惑をかけることもあるから」

「ええ!?」


 思いもしなかった言葉に目を丸くする。


「もしかしていつもフードを被っているのはそれで?」

「……ああ」


 フードの人は苦い顔をした。たしかに私もイケメンだなと思ってはいたが、まさか追っかけがいるレベルとは思わなかった。


 この世界には芸能人やアイドルというものが存在しない。劇場はあって、劇やミュージカル、オーケストラ的なものが見られるのは知っていたが、それは平民が気軽に見に行ける値段ではない。


 キャバクラのような飲み屋の存在は知っているが、ホストに値するようなものは聞いたことがなかった。


 女性にとってのそういう対象が存在しないと、一般のイケメンに追っかけができてしまうのだ、とわかって私は愕然とする。この人は一般の兵士さんで、見るからに真面目で寡黙、そういうアイドル的な追っかけられ方を好むタイプではどう見てもなさそうなのに。


「それは……大変ですね……」


 坂の上食堂は細い通りにあって、女性客がいないわけではないが圧倒的に男性客の方が多い。入り組んだ通りだから仮に追っかけの女性がついてきていても巻きやすいだろうし、治安的にもすごくいいとは言えないので夜は特に女性が来ない。


「よかったらこれからもご来店ください。追っかけの女性が仮にきてお客様のことを尋ねられたとしても適当に誤魔化しておきますから」


 フードの人の安心できる存在に坂の上食堂がなれたらいい。今回のことの感謝の気持ちもあるし、できることなら協力したいと思う。


「差し支えなければ名前をお伺いしてもいいですか? 尋ねられた時に対応しやすいかと思うので」

「……レイン・ダレスだ。北の砦で兵士として働いている」

「レインさんですね。わかりました」


 しっかりと名前を頭に刻む。誰に聞かれても、レインさんのことは言わないぞ。


「……貴女の名前は?」

「? 私ですか?」


 まさか名前を問われると思っていなかったので少し面食らってしまう。でも考えてみれば確かに、もし何か私がやらかした時に名前を知っていた方が安心だろう。


「私はアイリス・アトランです。またのご来店お待ちしていますね」

「……ああ」


 レインさんはフードを被って軽く礼をすると音もなくさっと通りを歩いていく。その背中にもう一度、


「今日はありがとうございました」


 と声をかけた。

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