開店
「いらっしゃいませ!」
いつもの、だけどちょっとだけ新しい仕事の時間が始まった。昼前に開店する坂の上食堂は客観的に見てもなかなかの賑わいを見せる。
父の料理は美味しく、そして値段もお手頃だ。昼は酒を飲む客も少なく、回転率がいいので一日で一番の稼ぎ時とも言える。
「いらっしゃいませ!」
「お、アイリスちゃん! 今日は珍しく元気がいいね!」
慌ただしく接客をこなしていると、常連のおじさんにそんな風に声をかけられる。
「そうですかねー? ご注文は日替わり定食ですか? 今日は朝採れの白身魚を使ったサラダとオムレツですよ!」
「おう、今日は洒落てんな! それ頼むわ!」
「はい、お待ちくださいね」
涼子としての私を取り戻す前もこれくらいの接客はしていた気がするけれど、たしかに声はもっと小さかったし、お客さんの目も見れなかった。だけど、今は違う。
だって、アイリスが思うほど人間は怖くないと思うから。それは涼子の人生経験の賜物だ。人間がどういうものかわかってから、私は人間が怖くなくなった。
父の料理ができるのを待ちながら客席を見渡す。今日も席は8割方埋まっている。
ただ、この中にラインデル侯爵の娘に詳しいものがいるかと言われると、どうだろう。リオナの学友の父親なんかが来店すれば一番なんだけど、女学院に通えるような身分のお方は坂の上食堂には来ないだろう。
だとすると、ラインデル侯爵に近しい者を辿る方が早いのかもしれない。ロジールの役人なら時々店に訪れるので、そこから情報を引き出せれば──
「リオナ」
父の低い声にハッと意識を戻すと、カウンターに定食が載せられていた。
「ごめんなさい」
すぐに提供しようと食器を準備していると、父の無言の視線を感じる。何か余計なことは考えていないだろうな? という無言の圧だ。私を心配してくれているのだろう。
(気をつけます、父さん)
心の中で謝って、お盆を手に客席へと向かう。父の懸念もわかる。内気な娘が突然侯爵の娘に強い興味を示すなんて、心配するなという方が難しいだろう。
まずは自分の本分を忘れずに。
父に心配をかけないよう、私はにこやかに接客をこなすことに専念する。料理を提供していると背後の扉は開いた音がして、お客さんに一礼してから振り返る。
「いらっしゃいま……」
(あ、フードの人だ)
入り口から入ってきたのはフードを目深に被った長身の男性だ。私の挨拶に軽く頭を下げると、定位置であるカウンターの一番奥の席へと腰を落ち着ける。
私が頭の中で勝手にあだ名をつけた"フードの人"は、一ヶ月くらい前から食堂にやってくるようになった新参者の常連さんだ。いつもフードを目深に被り、そのままで食事をする。
私がお水を持ってフードの人のところへ行くと、こちらを決して見ないままで、
「……本日の定食を」
と、注文してくる。この人は私と同じで人となるべく話したくない人なのだろう。
食堂に来る人は様々で、おしゃべり好きの人もいれば、そうでない人もいる。内気な性格で父も寡黙な私からするとわかるなあ、と思うので、こちらもなるべく気配を消して接客をするようにしていた。
この一ヶ月、結構な頻度で来店してくれているので父の料理を気に入ってくれているのだろうし、大切なお客様だ。
「かしこまりました」
私もいつも通りなるべく静かな声で応対し、カウンター奥の父へと注文を告げた。それにしても。
私は気づかれないようにフードの人を見る。フードの中から少しくすんだ銀髪がのぞく。
(この人、ものすごいイケメンなんだよね)
一ヶ月も接客をしていると、フードを被っていてもさすがに顔がチラチラと覗くことがある。
重めの前髪で顔が見にくくはあるけれど、チラリと見える紫色の瞳はまるで宝石のような美しさ。ゴツゴツとした手としっかりとした体躯を持ちながら、肌も男性にしては白い方で、まつ毛も女性かのように長い。薄い唇が顔全体をまとめ上げ、神秘さを醸し出している。
顔隠すためにフードを被っているのだろうから、店員としてはジロジロと見ないように気をつけてはいるけれど、そうでなければ一日中見ていられそうな美形の男性なのだ。
ロジールの街は土地柄的に屈強な男性が多い。北方、西方、そして海側の南方の三方に砦があり、それぞれ出入りする者を審査するために兵士が常駐している。
王都への出入り口の役割も果たすロジールの街は、そのため兵士の数も多い。万一、戦になったらまず戦場となる街だからだ。
それに加えて海があるため、魚を採ることを生業とした漁師の男も多い。なので、日に焼けて体格のがっちりとした男が多いのだ。
だからこそ、細身であるフードの人はとても目立つ。個人的にも屈強な男性よりも細身の男性の方が好みなので、そう思うのかもしれないが。
「お待たせしました。本日の定食です」
料理を運んでいくと、フードの人はいつものように顔を上げずに会釈のみする。愛想がないと言えなくもないが、父の料理をいつも綺麗に平らげてくれるので、私にとっては眼福ないいお客様だ。
どんな仕事をしているのかわからないので、ラインデル侯爵の情報を知っているのかどうかもわからないけれど、話をしたくないお客様に無理矢理話しかけて情報を聞くのは違うだろう。
再び出入り口の扉が開く音がする。私は次なるお客様に対応するために、気持ちを切り替えて笑顔を作り直した。