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引っ越し

 まさか本当に採用されるなんて。もちろん採用されようと思って面接に行っているわけだけれど、平民の私が貴族のリオナに辿り着ける日がくるなんて。


 採用されてからの私はどこか夢の中にいるようなふわふわとした気持ちで日々を過ごした。私の採用を知った父はどこか渋い顔をしたけれど、止めることまではしなかった。


 坂の上食堂の常連さんの中には惜しんでくれる人もいた。住み込みの仕事とはいえ休みももらえるはずだから、同じ街なのだから帰ってくることも容易なはずだ、と説明すると笑顔を見せてくれたので少し安心した。


 父も私がいなくなるということで重い腰を上げて人を雇うことにしたらしい。飲み客の多い夜はともかく、回転率のいい昼間は一人でお店を回すのは困難だ。


 寡黙な父と合ういい人が応募してくれたらいいな、と思う。


 そして来る引っ越しの日。引っ越しと言っても衣服はニュリード家から支給される制服であるメイド服があるし、部屋も家具寝具付きらしい。


 特に自分の持ち物にこだわりもなく、持っていきたいものもない。文字通り身一つでの引っ越しだ。


「じゃあいってきます」

「……いってらっしゃい」


 父は特別なことは何も言わず、まるで食材の調達に送り出すかのように私を送り出してくれた。それがいつでも帰ってきていいからな、と言ってくれているようで心が温かくなる。


 外は私の好きな明るい薄曇りの空だった。


(そう言えば亜子を産んだ日もこんな天気だったっけ)


 前世のことなのに昨日のように思い出せる。私にとって大切な出産の思い出だ。


 夜中に陣痛が始まって寝ずにちょうど翌日のお昼に生まれた。産んだ直後は陣痛から解放された安堵で何の感慨もなかったが、部屋に移り、私のベッドの隣で眠る亜子を見ると自然に涙が溢れてきた。


 亜子の奥に見えたのが明るい薄曇りの空だった。


 リオナが私を見て私を前世の母だと認識するかはわからない。もし認識しなかったとしてもそれでいいと思った。


 娘が幸せであればそれでいい。娘の幸せの手助けを側でできるのだからそれで十分だ。


 ニュリード邸に着くと今回は執事のミュオンさんではなく、侍女頭、つまり私の上司のマリーさんが出迎えてくれた。これから一緒に働くのだからと態度が砕けることはなく、面接の時のような淡々として素っ気なく、雑談を振れる雰囲気でもない。


 マリーさんは屋敷の二階の一室に私を案内した。


「ここが今日からの貴女の部屋よ」


 薄暗い室内に入ると埃っぽい匂いがする。細長い室内にベッドとタンスが二つ並べられていた。


 奥側のタンスの前に人が立っていて、その人がこちらを振り返る。


 パッと目がいく鮮やかな赤い髪の毛の女性で、前髪は眉毛の上でぱっつんと切られていた。歳は私と同じか少し上くらいだろうか。長い髪の毛は後ろで一つに束ねられている。


 瞳も髪の毛と同じ赤色で、こちらを伺うような瞳は少し警戒しているように見えた。


「彼女も今日からここで働くようになったカメリア・グィンよ。こちらはアイリス・アトラン。二人はこの部屋で寝泊まりして」

「はい」

「……はい」


 カメリアさんはどうも誰かと同室が嫌なのか、少し俯いて小さく返事をする。あまり人と関わりたくないタイプなのかもしれない。この職業を選ぶのに少し意外な気もするが。


「タンスに制服がかけてあるわ。着替えたら掃除があるから一階に降りてきて」

「はい」


 マリーさんがいなくなると部屋が途端にシーンとなる。何を考えているのかいまいちわからないマリーさんと、人と関わりたくないタイプっぽいカメリアさん。


 そして傲慢っぽくて第一印象がいいとは言えない主人ビクトル様と軽薄そうなミュオンさん。第一印象なんて当てにならないとは思うが、今のところ職場の人間関係には問題が多そうだ。


(でもそんなこと、今までだってたくさんあった)


 亜子を連れて行った児童館でのママ友、幼稚園、小学校のママ友、職場の同僚。第一印象最悪でもそれなりに仲良くなれた人もいれば、仲良くなれそうだと思いきや意外と癖の強い人もいた。


 それでもなんとかやってきたのだ。


 私はタンスを開けて制服を取り出す。シワひとつない上品なメイド服が今日から私の仕事着だ。


 慣れないメイド服に着替えて鏡の前に立つ。坂の上食堂の着古したエプロン姿の私とは別人のようで笑いそうになってしまう。


 青みがかった銀髪を一つにまとめる。癖っ毛を綺麗に一つにまとめるのはなかなか骨が折れるが、坂の上食堂で働く時にもやっていたので慣れたものだ。


 改めて鏡の中の自分を確認する。鏡の中の群青色の瞳が私をじっと見つめていた。


(よし、頑張ろう)


 気合いを入れて、ついでに「今日からよろしくお願いします」と、カメリアさんに声をかける。


「……はい」


 警戒心がムンムンの小さな返事が返ってきた。


 その日からリオナが引っ越してくるまでの仕事は屋敷の掃除だ。大部分は綺麗になっているものの、細かいところを見れば汚れが目立った。


 私はマリーさん、カメリアさんと共に屋敷中を綺麗にして回った。二人とはほとんど会話はなかったけれど、現時点で必要性も感じないし、二人とも話したくないようなので無理する必要もなかった。


 むしろ助かった部分もあったかもしれない。自分の娘に会うのに、私は思った以上に緊張していたのだ。黙々と手を動かしている方が気持ちは凪いだ。


 そしていよいよリオナが引っ越してくる日がやってきた。

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