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八話 心のふとんと温もり

 日本の布団文化には、限られたスペースを最大限に活用するための知恵が詰まっています。それはとても素晴らしいことです。布団を敷くときには「これで一日が終わり、やっと寝られる、幸せだ」と感じ、布団を上げるときには「一日が始まる、幸せだ」と感じます。布団を敷けば寝室になり、布団を上げれば部屋として使える。この布団の上げ下げが、晃久の心にけじめを与え、新たな一日のスタートを感じさせるのです。


 佐知と温泉に行った時のことです。二人は洋室よりも和室が好きで、和室を予約しました。部屋に足を踏み入れると、すでに布団が敷かれていて、座卓の上に置かれたお茶やお菓子が部屋の隅に追いやられていました。二人は思わず「何これ?」と違和感を覚えました。


「さてと、この布団、一旦押し入れにしまって、部屋を広くしよう」 布団の上げ下げが好きな晃久には、何の問題もありません。あっという間に布団を押し入れにしまいました。 「そうね、座卓も部屋の真ん中に戻しましょう」


 和室の美しさが戻り、窓の外から聞こえる渓流の音を楽しみながら、二人はお菓子を食べ、お茶を飲んで一息つきました。


 部屋に置かれているお菓子は、日本語で「お着き菓子」と呼ばれます。宿の方のお話を伺いながら、宿の設えを眺め、美味しいお菓子をいただくことで、ホッとし、旅の疲れを癒すことができます。


 遠い昔、旅人の疲れた身体を癒すために甘いものが提供されたとも言われています。また、血糖値が下がったまま温泉に入ると、立ちくらみや失神の危険があります。それを回避するために「お着き菓子」を食べて血糖値を上げるという理由もあるそうです。


 起源や理由ははっきりしていませんが、いずれにしても「お客様を癒す」という日本文化の「おもてなし」の心は大切にしたいものです。


 晃久は「ちょっとだから」「すぐにどけるから」と言いながら、テーブルや椅子の上に物を置きっぱなしにします。いざテーブルを使おうとしたり、椅子に座ろうとしたりするときには、一旦それらを片付けなければなりません。


 何度注意されても、手元にあれば便利だと言い張り、直そうとはしませんでした。それが15歳年下の妻、佐知の不満の原因となっています。それが最近になって、佐知も晃久と同じようにするようになったのです。


「意外と自分の周りに物があるって、見た目が悪くてもいいものね。見ためが悪くても!誰かが来たときに片付ければいいんだものね」

「だろう。便利だろ」

「そうね、見た目が悪くても!ね」

「佐知、これ邪魔だよ。どかしてくれるか。狭い部屋を有効に使うには、その都度片付けないと。これではテーブルとして使えないし、椅子の上に物があるから座れないぞ」


 佐知の作戦勝ちでした。無言?の叱責が実を結び、晃久は少しずつ改善されていったのです。


 日常的な小さなことが積もり積もると、何が原因で、何を解決すればよいのかが分からなくなり、会話が減り、言葉も少なくなり、一緒にいることすら嫌になってしまうこともあります。


 大切なのは、日常的な些細な気遣いではないでしょうか。その気遣いがないと夫婦間に大きな溝ができ、気づいたときには手遅れになることもあります。そう思うと、「気遣い」とは夫婦円満にするための潤滑油なのかもしれません。



 恋愛というものは、人生をバラ色に変え、天国へ舞い上がらせたり、曇り色に変え、悲しみのどん底へと導いたりする、不思議な力を持っています。そんな恋愛の力が、この公園でも感じられる瞬間があります。


 毎朝10時になると、公園の広場に高齢者たちが集まります。彼らの目的は、ゲートボールのゲームを楽しむことです。青空の下、ゲートボール専用のマレットが芝生を打つ音が心地よく響き、ボールがゲートを通過するたびに周囲から拍手や歓声が上がります。


 ゲートボールは年齢を重ねた体にも無理がなく、彼らの生活に彩りを添えています。楽しげな笑顔が絶えず、会話が途切れることもありません。彼らにとって、このひとときが日常のリズムを作り、協調性を育む時間となっています。

「今の若い人の顔、区別がつかないわね」

  「そうなのよ。男だか女だかわからない時もあるわ」

「顔に皺が全くないのよ。どれだけ塗っているのかしらね」


 あなた達が若者たちの顔の区別がつかなくとも、彼女達の世代でははっきりとわかっているのです。でも逆にあなた達の顔の区別はつかないかもしれません。


 ゲートボールが終わると、公園は一気に静寂に包まれます。自転車にまたがって帰る人、カートを引いて帰る人、それぞれが帰路につき、賑やかだった広場は静かになります。

 人生の最後のひとときを穏やかに過ごそうと集まっているその中に、静かに心を交わすようになった80歳の彼女と83歳の彼がいます。

 彼女の目には若き日の輝きが宿っている一方で、夫を亡くし、娘たちとの疎遠な関係からくる悲しみが潜んでいます。


 一方、一人で暮らしをしている彼の方も息子夫婦との関係が悪化し、失意の中で過ごしていました。


 ゲートボールが終わると、この二人は公園の片隅にある古びたベンチに静かに腰を下ろします。そこは木々に囲まれたひっそりとした場所で、他の人々の目からはほとんど隠れたような場所でした。彼女は彼の隣に座り、彼はいつもと変わらぬ寡黙な表情で前を見つめています。その瞳には微かに喜びが宿っていました。


「今日もお疲れさま。あなたのプレー、素晴らしかったわ。」


 彼女が微笑みながらそう言うと、彼は少し照れくさそうに笑みを返します。二人はお互いの存在に安らぎを感じながら、しばらくは言葉を交わさず、静かな時間を共有しています。彼がそっと彼女の手を取ると、その温もりが心の奥まで染み渡り、彼女も自然と彼の手を握り返します。


「こうして二人でいると、何だか若い頃に戻ったみたいだわ。」


 彼女の言葉に、彼は穏やかに頷きます。風が吹くたびに木の葉が揺れ、その音が彼らの密やかな会話を包み込んでいきます。彼女の白髪に混じる一筋の髪が風にそよぎ、彼はその髪を優しく撫でます。彼の手のひらの温かさが、彼女の頬に柔らかく伝わります。


 時折、遠くから人の気配が感じられると、二人は少し緊張した様子で周囲を見回しますが、その度にお互いを安心させるように微笑み合います。二人は、このひとときを誰にも邪魔されたくないと願いながら、絆を深めていきました。


 公園に優しい日差しが差し込み始めると、彼女は少しずつ立ち上がり、帰る支度を始めます。彼もゆっくりと立ち上がり、杖を使って彼女の横に寄り添います。


「また明日も、ここで」と彼女が小さな声で囁くと、「もちろんです。楽しみにしています」と、彼も力強く頷きます。


 二人は寄り添うようにして歩き始めます。公園の出口に差し掛かると、彼は少し躊躇した後、彼女の肩にそっと手を置きます。彼女はその手の温かさに心を和ませながら、彼の腕を取り、二人でゆっくりと歩いていきました。


 その様子は、若い恋人たちが誰にも見られないようにと気を遣いながら、密かに愛を育んでいるかのようでした。


 時が経つにつれ、彼らはお互いの存在が日々の支えであり、唯一無二のものであることに気づき始めています。


 ある日、どこから聞いたのかわかりませんが突然押しかけて大反対してきたのです。それも疎遠になっている彼の息子夫婦が、です。


「父さん、最近あの公園で会ってるって聞いたけど…。いい歳をしてみっともない。世間体があるんだから。年寄りは静かに波風を立てずに暮らすべきなんだ。それにそんなのは財産目当てなんだ。でなければ、父さんと会うはずがない」


 彼はその言葉に一瞬戸惑い、表情が曇りましたが、「別に悪いことはしていない。ただ、昔の友人と少し話しているだけだ」


 彼の返答に、息子は少し苛立った様子で声を上げました。「でもね、父さん、世間の目っていうものがあるんだよ。そんな歳になって、あんなところで誰かと密かに会ってるなんて、近所の人たちがどう思うか分かってるのかい?」


 嫁も横から口を挟みました。「私たちだって、父さんがそんなことしてるって知ったら、正直、困るのよ。恥ずかしいと思いませんか?世間の人たちが私たち家族をどう見るか、少しは考えてください。」


 彼はその言葉に深く傷つきましたが、顔には出さず、ただ静かに聞き流しました。彼の心の中で、家族に対する愛情と、自分の気持ちとの間で葛藤が生まれていました。確かに、彼らの言うことも一理ある。しかし、それでも彼にとって、その時間は何物にも代えがたいものだったのです。


 息子夫婦はさらに畳みかけました。「父さん、もう少し慎重に行動してくれないと、家族みんなが迷惑を被ることになるんだよ。お隣の人や、町内会の人たちに変な噂を立てられたらどうするの?年寄りは年寄りらしく、静かに過ごすべきだろうに。」


 彼は何も答えず、ただ視線を床に落としました。その晩、息子夫婦が帰った後、彼は一人、暗い部屋でじっと考え込みました。世間体、家族の名誉、そして自分の小さな幸せ。その間にいる彼には答えを見つけることができず、深い溜息をつくだけでした。


 彼女の方もまた、娘たちから同じようなことを言われていました。「お母さん、あんなところで男の人と会うなんて、近所の人たちが何て言ってるか知ってる?私たちのことも考えてよ。」


 その言葉に彼女は胸が締め付けられる思いでしたが、それでも彼との時間を諦めることはできませんでした。家族に迷惑をかけたくない、その気持ちは強くありましたが、同時に、彼女にとって彼と過ごす時間は、日々の支えであり、唯一の安らぎだったのです。


 二人は次第に、人目を避けるようになりました。公園での密会が終わると、彼らは静かにベンチから立ち上がり、別れの挨拶を交わします。心の中で、「これで最後かもしれない」と思いながらも、翌日もまた会うことを心のどこかで期待している自分がいるのを感じていました。


「これ以上、家族に迷惑をかけられないわ。私たちはもうすぐ逝ってしまうけど、残された私たちの家族を思うと…」


 二人の心には、世間の目や家族の意見に対する不安が募っていましたが、その不安を共有することで、より深い絆を築いていきました。静かに交わされる言葉や、手と手の触れ合いが、彼らにとって何よりも大切な支えとなっていったのです。


「ありがとう。こうして一緒にいられることが、私にとってどれほど大切か、言葉では言い表せない。」


 彼の言葉に、彼女はただ微笑み、そっと彼の手を握り返しました。その手のひらには、今までの時間と共に培われた深い絆が確かに存在していました。二人は、静かに寄り添いながら、最後のひとときを過ごしていきました。


 もうすぐ春が終わりを迎える季節となりました。どうしたことでしょうか、いつもの時間になっても、時間に正確な彼女がやってきません。「体調でも悪いのかな」と思いながら1時間、2時間、3時間、半日が過ぎ、そして西の空が赤く染まりましたが、彼女は現れませんでした。


 翌日も、その翌日も、彼女は姿を見せませんでした。彼女は静寂に包まれて、深い感謝の中、旅立っていたのです。


 二人が共に過ごした時間はとても短いものでしたが、彼の「心」の支えとなっていました。彼女は、「お金より心が、健康な肉体より心が、人間を司っているのは心なのよ」が口癖でした。その「心」の大切さを、彼は彼女との日々を通じて学びました。


 彼は深い切なさを抱きながら、ゲートボールをやめました。家でひっそりと暮らしています。かつて恋に燃えていた時の彼は、服装も清潔感に満ちていましたが、それらはすべて消え去り、廃人のように変わってしまいました。


 息子夫婦は、彼の変わり果てた姿を目の当たりにしたとき、心に深い悲しみが広がりました。父親が日に日に衰えていく姿を見守りながら、彼らは言葉にできない罪悪感に押しつぶされていました。


 部屋の中は物が散乱し、埃をかぶった家具が静かに佇み、冷蔵庫の中には腐った食材が残され、食卓は長い間使用されていないことが明らかでした。息子は、父親がどれほど孤独と寂しさに耐えているのかを感じ取り、そのことが心に深く刺さりました。


「こんな状態になってしまったのは、やっぱり私のせいなんじゃないか…」と自問しながら、涙をこらえきれませんでした。彼の心には、父親が失われた幸福の影に埋もれ、自らの判断ミスによって心が傷ついたという重い責任感がのしかかっていました。


 愛が消え去った父親は、一人暮らしを続けるのが難しい状態になりました。結局、特別養護老人ホームに入居することになったのです。


 彼が入居した特別養護老人ホームは、山々の静かな風景に囲まれた場所にありました。窓からは四季折々の自然が広がり、朝は鳥のさえずりが、夕方には木々を通り抜ける風の音が心地よく響いていました。


 彼の部屋はシンプルで清潔感に溢れ、広い窓からは外の景色が一望できました。窓辺には、彼が大切にしている思い出の品々が並べられており、公園で撮った笑顔の写真や手入れの行き届いた観葉植物が部屋に温かな彩りを添えていました。


 彼が施設での生活に馴染むのには少し時間がかかりましたが、やがて他の入居者たちと自然に打ち解けるようになりました。


 朝食後、共用スペースに集まることが彼の日課となり、そこで交わされる談笑が彼の日常を豊かにしていました。


 彼は目立つ存在ではありませんでしたが、落ち着いた雰囲気を持ち、話す言葉にはいつも温かさが感じられました。そんな彼の話に、周りの人々は自然と引き込まれていきました。


 ある日、彼は共用スペースでのレクリエーションの後、ふと感じた視線に気づきました。振り返ると、一人の女性が静かに彼を見つめていました。彼女は、彼が入居した当初から何かと気にかけてくれる心優しい女性で、彼に対する思いやりに満ちた瞳で彼を見つめていました。


「いつも楽しそうにお話ししてるわね。あなたと話してると、なんだか元気が湧いてくるの。」


 その言葉に彼は自然と微笑みを返し、その日を境に二人は互いに時間を共にするようになりました。彼女は、彼の若い頃の武勇伝を親身になって聞いてくれるのです。彼はそんな彼女の姿勢に心を打たれ、気がつけば、強く惹かれている自分がいました。


 彼は、彼女と過ごす日々の中で再び生きる喜びを見出し、笑顔が自然にあふれるようになりました。二人は庭を散歩しながら花を眺め、静かな午後にはお茶を楽しみました。施設では、時折行われるカラオケ大会や手作りイベントに積極的に参加しています。


 彼がステージに立ち、懐かしい歌を歌うと、他の入居者たちから自然と拍手が湧き上がります。彼の歌声は、若い頃と変わらず、人々を楽しませる力があり、その歌声に涙を流しながら聴き入る人たちが続出していました。


 こうして彼は、かつての悲しみを乗り越え、彼女との出会いを通じて再び生きる力を取り戻しました。そして、彼女もまた、彼と過ごす日々に幸せを感じ、二人は互いに支え合いながら、「これからの人生を共に歩んでいきましょうね」「こんな私ですが、よろしく」といった関係が築かれていきました。


 時には共同生活には、彼にとって予期しない困難が伴いました。入居者同士の小さなグループが形成され、時には対立が生じ、それが個人攻撃に発展することもありました。彼はその都度、問題解決に奔走しましたが、それが逆効果となり、今度は彼自身が攻撃の対象となってしまいました。


 とはいえ、彼は共同生活に限らず、何事にも良い面と悪い面があることを理解していました。人は良い面ばかりを望みがちですが、彼は違っていました。悪い面も受け入れ、それを乗り越えた時の達成感を何よりも尊重していたのです。


 気がつけば、彼は心身ともに健康を取り戻し、毎晩の晩酌を楽しみ、朝は二膳のご飯を平らげ、散歩やストレッチを日課とし、恋愛を楽しみ、夜8時には床につき、朝までぐっすりと眠る生活を送っていました。


 かつては共同生活に疲れ、慣れ親しんだ家に戻ることも考えました。しかし「環境じゃない。自分が変われば環境も変えられる」という意気込みが、彼に新たな喜びと充実感をもたらしました。彼の微笑みは、困難を乗り越えた先にある希望と幸福を象徴していました。


 そんな話に、佐知は「彼の人生って素敵ね。恋ってすごいことなのね。晃久も恋してみたら?」と言いました。


「誰に?」

「誰でもいいから、たくさん恋をして。それで元気にいられるんだったら。寝たきりでいるより、恋のひとつやふたつなんて、なんでもないことよ。」

「わかった。今からでも遅くはない。恋する男になるよ。だから…」

「だから?」

「お金をくれ。お金がないと誰も来てくれないから。」

「小遣いの範囲内で好きなように使っていいわ。」

「月五千円の小遣いで?」

「何を言ってるの? 食費はかからないし、晩酌代もかからないんだから。五千円丸々使えるのよ。それで十分。それに百均で買い物すればお金も節約できるでしょ。」

「佐知はもっと高級な島村。私は百均で買い物。これって差別じゃないかなあ?」


 晃久と佐知は、彼らの生き方から「小さな幸せ」と「心」の重要性を学びました。これからの人生を「心」を大切にしながら共に歩んでいこうと、彼らの思い出が詰まっているこの公園をゆっくりと散歩しています。もうすぐ夕暮れです。明日の天気は秋晴れのようです。


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