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七話 過ぎゆく時間と心の響き  

 人生の中で、感動が次第に薄れていく瞬間があります。かつて心を打たれ、魂の底から湧き上がるような喜びも、日々の忙しさに押し流され、時間とともに色あせていくのです。まるで古い写真が黄ばんでいくように、その鮮やかさが失われ、かつての感動や喜びが心の奥底に押しやられ、次第に輝きを失ってしまう感覚に囚われることがあります。それはまるで「歌を忘れたカナリヤ」のようです。


 還暦祝いの思い出を振り返ると、鮮やかな赤いちゃんちゃんこを身にまとい、家族や友人たちに囲まれて撮った記念写真が、まるで昨日のことのように蘇ります。祝福の言葉や笑顔が、暖かい光の中に溶け込み、その時の笑い声や祝福の声が今でも心の中で優しく響いています。それは、時間がいくら経っても色あせることのない心の宝物となっています。


 時の流れには驚きを感じます。どうしてこんなにも速く過ぎ去ってしまうのか、気づけばまたひとつ季節が巡り、時間の速さに戸惑うこともしばしばです。そのため、私たちにできるのは、限られた時間を受け入れ、一日一日をどのように大切に生きるかを考えることだけかもしれません。時間の流れの中で何を残し、何を感じ取るか、それが人生の意味を形作るのかもしれません。



 歳をとると、傲慢になる人もいれば謙虚になる人もいます。晃久と佐知はどちらなのでしょうか。


 それは、晃久がトイレに入った時のことです。ある高齢者の男性が狭い洗面所を占領していました。数人が後ろで待っているにもかかわらず、お構いなしです。どれだけ手を洗えばいいのでしょうか、その行動は常識を超えていました。時間にして十五分ほどかかっていたでしょう。それだけでなく、ソープの泡が鏡やシンク、床に跳ね散り、洗面台の周りは乱れた泡の海になっていました。


 老人は手を洗い終えると、無造作に数枚の紙タオルを取り出し、手を拭くと床に放り投げました。それを後ろで見ていた清掃員が洗面所を目にしてため息をつきながら紙タオルを拾い、泡まみれのシンクの掃除を始めようとすると、老人の怒声が響きました。


「おい、邪魔するな!」彼の声は怒りに満ちていました。清掃員の彼は驚きながらも、なぜ怒られたのか理解できないまま、出て行きました。


 もしかすると、老人には何か感情的な問題があったのかもしれませんし、何か嫌なことがあったのかもしれません。普段はこんな風ではないのかもしれません。ただ、この場所は公共の場です。掃除をしてくれている人に感謝の気持ちを持たず、むしろ邪魔をしてしまう姿には、どうしても納得できませんでした。綺麗なトイレを維持するために努力している彼に対して、申し訳ない気持ちが込み上げてきました。


 考え深い晃久の顔を見て、「どうしたの?」と佐知は声をかけました。

「道徳や文化の違いなんだろうかね。自分を優先するのは」

「何よ、急に。何があったかわからないけど、晃久も気をつけてね」

「もしも軌道から外れた時は、注意してくれ。優しい老人になりたいから」

「晃久がそんなことをしたら厳しく叱ってあげるから安心して」

「叱られるの嫌だからその前に気付けるよ。佐知の鞭は厳しいから」と晃久は笑いながら答えていました。

 佐知は微笑みながら、優しく晃久の肩を叩き、「愛の鞭よ。それができるのは私だけでしょ。二人で優しい老人になろうね」

「そうだな。可愛い老人になろうな」


 今日も夕焼けが綺麗です。空が淡いオレンジ色に染まっていました。晃久と佐知はソファに並んで座り、穏やかな午後のひとときを楽しんでいました。外からは子供たちの元気な声や鳥のさえずりが聞こえ、心が安らぐ瞬間です。


 リモコンを手に取り、晃久はいつものニュース番組をつけました。テレビの画面が明るくなり、続けて映し出されたのは、またしても悲しい事件の報道でした。小さな出来事が、大きな波紋を広げ、誰かの人生を根本から変えてしまったという内容が、晃久の心に重くのしかかりました。


 画面に映る映像やキャスターの声が、夕焼けの美しさとは対照的に感じられ、晃久はそのニュースに心を痛めました。「どうして、人はもっと人生を大切にしないのだろうか」と、彼は静かに考えました。目の前の映像と、自分の価値観がぶつかり合い、心の中に深い虚しさと切なさが広がっていきました。


「1万円、10万円、100万円をあげるからって言われて、そのお金と引き換えにこれからの人生を刑務所で過ごす人なんている?どうしてそんなバカな選択をするんだ?」晃久はテレビに向かって叫びながら、自分の怒りと疑問をぶつけていました。

「最近、何かにつけてテレビに向かって叫ぶようになっているわよ。歳をとった証拠よね」

「そんなに叫んでる?」

「いつもよ」

「そう言っているけど、佐知だって叫んでいるぞ」

「なんて?」

「…忘れた。覚えてない」

「認知症になったか。ついに…」と、笑いながら、晃久の指に触れました。触れたというより、手の甲のマッサージです。指をそっと握り締めました。


 怒鳴り声は嫌なものです。心を穏やかにしてくれるBGMが流れる中、どこからともなく怒鳴り声が聞こえてきます。「遅いんだよ、何やってんだ!」その声の後に、白髪の女性がゆっくりと歩いてきました。彼女は無言で、平然とした表情を浮かべています。その姿からは、肝の座った印象を受けました。


 晃久は、こんな大声で怒鳴らなくてもいいのに、連れの奥さんが可哀想だと思いました。そんな人とは近づきたくないと思っていました。


 外食と言えば、いつも「中新田屋」で食事しています。少しでも売上に貢献できればと、そんな思いで通っています。今日は結婚記念日です。今回はフレンチ料理が好きな佐知のために、晃久が予約を入れてくれました。


 予約していたため、入り口で待たされることなく、窓の外に大きな波がゆらゆらと見える席に案内されました。席に着くと、耳に心地よい波の音が静かに響き、椰子の葉が風に揺れる音がリラックスした雰囲気を作り出しています。周囲の音楽も、心を落ち着ける優しいメロディーで満ちています。


 テーブルの前に着くと、白いワイシャツに黒のベスト、ネクタイ姿のウェイターが椅子を引いてくれました。軽く会釈し、席に着きます。ナプキンを膝にかけてくれ、テーブルのグラスに水を注ぎ、三種類のパンを置いてくれます。ドリンク担当がやってきて、「いつもの赤ワインですね」と言います。佐知が軽く頷くと、赤ワインをグラスに注ぎ始めます。乾杯し、人生を振り返りながら語り合いました。


 メニューを眺めると、「お決まりですか?」とウェイターが尋ねてきました。佐知が先にオーダーを取ります。前菜、メイン、デザートをお願いし、パンを一つ取り小さくカットしてバターを塗り、口に運びました。スイートコーンスープ、ビーツ、フリーゼ、オレンジのサラダ、スモークビーフブリスケットが次々と出てきます。赤ワインを飲みながら、メインの肉料理を楽しみました。その後にブラックコーヒーとデザートをいただき、時はゆっくりと過ぎていきました。


 気取っているわけではありません。自惚れているわけでもなく、傲慢になっているわけでもありません。荒波を越えてきた分、それなりの風格になっているだけです。


 たくさんの人に支えられながら、力を合わせて生きてきたことに感謝し、夫としての責任を果たせたことに良かったなと、晃久は感じています。


「こんな贅沢をしていいのかしら。こんなにゆったりとして……」と、佐知は申し訳なさそうに呟きました。 「贅沢?それは違うよ。」 「違うの?」 「これは原因と結果が招いたもの。ただそれだけだ。アリとキリギリスのイソップ物語と同じだよ。遺産相続を分け与えてもらったわけでもないし、泡銭が入ったわけでもない。灼熱の中、凍りつく寒さの中、力を合わせて必死に働いただけなんだ。」


 思えば、晃久が若い頃は、軽薄で無責任な男性、家庭を顧みない男性、若すぎる男性と見なされ、そうした言葉を浴びせられていました。そんな中、佐知は「晃久の内面を理解している」と支えてくれていました。まさかあの時、こんな日を迎えるとは誰も思わなかったでしょう。


 世間は経験という枠の常識から晃久を見ていましたが、佐知は古い枠組みを取り払い、非常識な角度から見ていました。見る枠組みと角度が違っていたのです。


 そして今、古希を過ぎて人生の荒波が穏やかになり、お互いの顔を見つめ合う時間が流れています。それを世間が「贅沢」と呼ぶのであれば、そうであるのかもしれません。それが自然の成り行きなのかもしれません。


 何ということだろう、さっき怒鳴っていた夫妻が隣のテーブルにやってきました。彼らと目を合わせたくない気持ちから、正面に座る佐知だけを見つめていました。


「そんなにじっと見つめられると恥ずかしいわ。そんなに可愛いの?」と、佐知は冗談なのか本気なのか分からない笑顔を見せました。笑いがこみ上げてくるのを必死で抑えました。 「何かの記念日なんですか?」と彼が尋ねてきました。 「はい、結婚記念日です。」と、佐知が間髪入れずに答えました。


 できれば会話などしたくなかったし、楽しい夕食を過ごしたかったのに、それは佐知には通じないようです。もう愛想を振りまいています。


 彼の方も笑顔を見せながらさらに話しかけてきました。佐知もそれに負けないくらいの笑顔で答えています。


 夫婦の間に何があったのか分かりませんが、レストランにまで来て怒鳴られていれば、せっかくの食事も美味しく感じられないでしょう。佐知はこの夫妻が楽しく夕食を楽しめるようにと、明るい笑顔を振りまいていたのです。それが幸いし、その夫妻のテーブルが穏やかな空気に変わっていきました。


 さすが熟練夫婦です。どんなに怒鳴られても、彼女は動じていません。平然としており、夫の言っていることをいちいち気にしていたら、自分の人生が台無しになると考えているようです。彼女は「ストレスをためることは肌にも良くないし、自分の人生は相手のためにあるのではなく、自分自身のためにあるのよ」と言って、笑っています。


 そうかも知れません。周囲に気を配って自分を犠牲にしていてはストレスが増えます。高齢になった今、真っ先に追求すべきは楽しくあまり周囲の声を気にしないで過ごすことなのでしょう。それには、人には優しく接することが大切だと考えています。


 静かな時間が流れる中で、晃久と佐知はお互いの思いを確かめ合いながら、心からの安らぎを感じていました。どれほど貴重で素晴らしい時間であるかを改めて感じつつ、二人はゆっくりと帰りました。星空の下、穏やかな気持ちでその夜を楽しみながら。


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