六話 時を重ねるラベンダーの丘
朝の薄明かりに包まれたラベンダー畑は、静かで神秘的な雰囲気を漂わせていました。自然が織りなす壮大な景色は、神話の世界に迷い込んだかのような美しさに息をのみこみました。
風が草を揺らし、さざ波のような音が心地よく響き、遠くからは鳥のさえずりが聞こえてきます。その穏やかな旋律が、二人の心に染み渡っていきました。
晃久と佐知は、ラベンダー畑の駐車場で車中泊をし、星あかりの美しい静かな夜を過ごしました。
「きれいね…」
「本当だな。綺麗な夜空ってロマンチックにさせてくれるものだ」
「あらまあ、そんな言葉で私を誘って何をするの?」
「そうだな、まあとりあえず何もなく夜空を見ているだけだろうな」
「寂しい夜空ね」
晃久と佐知の人生は、平穏とはほど遠い日々が続きました。その都度二人は互いを支え合い、どんな困難も乗り越えてきました。
ラベンダー畑もかつては閉園の危機に直面していました。厳しい自然環境と経済的な問題が重なり、一時は存続が危ぶまれましたが、「閉園したくない」という強い思いが、農園を支えました。その熱意が実を結び、国鉄のカレンダーに採用されたことで、この美しい景色が全国に知られることとなりました。さらに、テレビドラマ『北の国から』の一場面に取り上げられたことで、この場所の魅力が広まり、多くの人々が訪れるようになったのです。
「長い道のりだったな…」と、晃久が過去を思い返すように静かに言いました。
晃久と佐知の人生は波乱万丈でした。レストランの運営で資金不足や備品の破損といったさまざまな問題がつきまといました。
特に大変だったのは、従業員との関係でした。人手不足に加え、従業員同士の言い争いや、突然「今日で辞めます」と言い出すシェフ、無断欠勤が続くスタッフを解雇すれば、不当解雇と訴えられたり、仕入れ業者への支払い金額を改ざんし、金銭を持ち出したり、食材を持ち帰ったり、勝手に食べたりする不正行為が横行しました。
友人や知人が来店すると、勝手に料理の量を増やしたり、異なる料理を追加したりする者もいました。
繁忙期に合わせて雇っていたにもかかわらず、そのシーズン中に長期の有給休暇を言ってくる者もいれば、退職後に未払い賃金を請求する者、働いていない休業中の給与補償を請求してくる者もいました。
タイムカードを押した後に私用で外出したり、飲酒運転による事故を起こしたり、そんな問題で心労が重なり「もう店を閉めようか」と真剣に考えたこともありました。
そんな中、晃久の愚直さや真面目さ、そして必死さに心を動かされ、オーナーサイドに立って「中新田屋」を盛り上げようと必死に働いてくれる従業員もいました。
「苦しい時に、どれだけ彼らが支えてくれたか。彼らが働いてくれていたからこそ、店を閉店せずに頑張れたんだ」と、晃久はしみじみと語ります。
熱気に包まれた厨房で、夕立のように額から降る汗の中で、料理の腕を磨き続け、食材の選定や調理法に工夫を凝らしてきた日々でした。
その努力が実ったのでしょうか、次第に評判が広まり、常連客をつかむことができたのです。その喜びと感動は、今でも手にしっかりと残っているようです。
佐知もまた、家計を支えるために早朝から深夜まで数多くのパートタイムの仕事を掛け持ちしました。彼女の疲れた顔には、家族のために尽力する姿が浮かび、その姿勢は周囲の人々の心を打ちました。
優希は高校生の時、登校拒否などの問題を抱えていましたが、晃久と佐知が疲れを知らずに一心不乱に働くその姿を見ていたから立ち直る力を得たのかもしれません。
家や車を購入する時、晃久はよく言っていました。「これを買うのに、どれだけの寿司を握らなければならないのだろうか?」と。
「一銭を笑うものは一銭に泣く」──どんなにわずかなお金でも軽視してはいけない。会社員時代には考えもしなかったことです。その言葉がレストランビジネスを始めてから身に染みて感じるようになっていました。
小銭を稼ぐために、朝起きると指が思うように動かなくなっていても、佐知の優しいマッサージを受け、腰痛で立てない時は腰バンドを巻き、痛みに耐えて付け台の前に立ち続ける。小銭の積み重ねの重みを肌で感じていました。
壁にぶつかり、諦めるのも、弱音を吐くのも簡単です。晃久は知っていました。諦めても、弱音を吐いても、今抱えている課題は解決しないことを。
「70歳までは頑張って」──そんな佐知の激励を背中に受け、晃久は70歳を少し過ぎたところで包丁を置き、引退しました。
今はこうして、夫婦二人で静かに過ごしています。すべてをやり切ったとの充実感で後悔はなにひとつなく、有終の美を得させるために佐知は言ったのでした。区切りのある人生だから、区切りをつけさせたかったのかもしれません。
高齢者になった晃久が織り成す日常は、静かな湖面に映る月のように、穏やかな光を放ち続けています。
佐知はもう一度ラベンダー畑を見渡し、深く息を吸い込みました。その香りは、彼女に過去の苦労や喜び、そして未来への希望を織り交ぜた時間の流れを感じさせるものでした。
「この場所は、まるで私たちの人生そのものね」と、佐知は静かに言いました。
晃久もまた、同じ感慨を抱いていました。「本当にそうだな。どれだけの時間と労力を費やしてきたのか、まるでラベンダーが育つように、私たちも一緒に成長してきたんだ。」と、彼は穏やかに答えました。
悩みは尽きないものです。そう、悩みがあるからこそ、人生には価値があるのではないでしょうか。
優希と久志に全てを託し、『中新田屋』から身を引いても、悩みは尽きませんでした。久志は料理人としての職業病に苦しみ、肩や腰の痛みで割烹着に袖を通すことすら困難になっていました。
キッチンにはサポート器具が並び、その静寂の中には深い喪失感が漂っています。かつての情熱は色褪せ、料理に対する熱意も徐々に薄れていくばかりで、晃久から受け継いだ「中新田屋」を守り盛り上げようという焦りが、彼の心に重くのしかかっていました。日々の苦悩と絶望が、次第に彼を追い詰めていったのです。
優希の長男・一太郎もまた、深い失意に沈んでいました。東大受験の失敗は彼に大きな打撃を与え、夢や希望を一気に失わせたような、静かな絶望感が彼を包み込んでいました。彼の部屋には、色あせた東大受験の教材が無造作に積み上げられ、壁には「東大絶対合格」と書かれたポスターが貼られたまま、時の流れに風化しつつありました。部屋全体が冷え切った空気に包まれ、その空間はまるで彼の心の中のようにひっそりと哀愁を帯びていました。悲しみと絶望が重くのしかかり、一太郎は失意の真っ只中にいました。
これが、どん底というものなのでしょうか。それなのに晃久も佐知も、そして優希も、どんと構えて右往左往することはありません。痩せ我慢ではなく、悠々と構えているのです。
「右往左往して悲しみにふけって同情を受けて、それでこの問題が解決するんだったら、私もそうするわ。でも、解決しないでしょう。解決するためには、何を、いつまでに、どのようにするかが大切なのよ」
誰もが、いよいよ一世風靡した料理人の優希のカムバックかと思っていました。
「カムバック?私はしないわよ。それは久志の問題だから。料理ができなかったらやめればいいだけ。閉店?大いに結構よ。店に縛られた人生に興味はないわ。人生は「中新田屋」のためにあるんじゃないからね。そう思わない?」
「一太郎?大学は何のために行くの?そんな通過点で落ち込んで自閉症?だったらずっと自閉症のままでいればいいわ。ただ、20歳になったらこの家を出てもらうだけ。親にすがった人生なんて寂しいものよ」
優希と触れ合っていると、どんな困難なことも乗り越えられるような前向きな気持ちになるのは、なぜなのでしょうか。彼女の才能が、こんなところにも浮き彫りになっていました。
時の流れというものは素晴らしいものです。
久志は毎朝、日の出とともに静かな公園に向かいます。最初は爽やかな風を感じながらゆっくりと歩き、次第にペースを上げて軽快なジョギングへと変えていきます。
ジムでの運動も欠かしません。週に三回、プールでの水泳に挑み、水の中で滑るような動きを楽しみます。水の抵抗は全身をほどよく使い、心地よい疲労感をもたらしました。また、ジムでの筋トレも怠らず、体を引き締めるために日々汗を流しました。
それもこれも、職業病の肩こりと腰痛を改善し、優希の叱咤激励に応えなければなりません。弱音なんて吐いてはいられません。肩こりを解消するために、まず肩甲骨周りのストレッチです。両肩を前から後ろ、後ろから前に大きく回したり、ドアフレームに手をかけて体を前に押し出し胸の筋肉を伸ばしたり、肩の筋肉をほぐし肩甲骨を動かしたり、そうすることで血流が改善され、肩こりの重苦しさが徐々に軽減されるのを感じるようになりました。
腰痛に対しては、四つん這いになり、背中を丸めたり反らせたりする「猫のポーズ」を繰り返しました。背骨がゆっくりと伸びる感覚とともに、腰部の筋肉がリラックスしていくのを感じるようになりました。このストレッチは腰の負担を軽減するのに非常に効果的でした。
また、仰向けに寝て片膝を胸に引き寄せる「膝抱えストレッチ」も欠かしませんでした。この動きで腰部の筋肉が心地よく伸び、痛みが和らいでいくのを感じるようになりました。毎回このストレッチを終えると、腰の筋肉がリフレッシュされるような感覚が広がります。
これらの努力が実を結び、かつて悩まされていた腰痛や肩こりはすっかり消え去り、身体は以前よりも健康で力強くなりました。鏡の前に立つと、力強い自分の姿が映し出され、日々が新たな活力に満ちていくのを感じるようになりました。
それもこれも優希の厳しさがあったからです。それがなければ今頃は動くことも歩くことも面倒になり、体を動かせるこの喜びを忘れてしまうところでした。痛さを乗り越えるとその先には感動が待っていることを教えられました。
一太郎も何かをしなければと考えていましたが、何をどうすればいいのか分からずにいました。優希がいつも言っている言葉が心に浮かびます。「立ち止まると澱んでしまう。川だってそうでしょ。だから行動よ。」閉じこもっているだけでは変わらない、そんな思いが込み上げてきました。
重いカーテンを開けると、まぶしい光が部屋に差し込んできました。その瞬間、心の中で何かが動き出したように感じました。
「そうだな、久しぶりに外に出てみよう。」そう決意し、彼は野球帽を深くかぶり、サングラスとマスクをつけて外の世界へと足を踏み出しました。見慣れた商店街の賑わいが、少し懐かしく感じられ、同時に胸がざわつきました。久々に外の空気を吸うと、どこか不安を感じながらも、一太郎の心に小さな解放感が広がりました。
そのとき、不意に背後から声がかかりました。
「ちょっといいですか?」
振り返ると、警官が二人、こちらに向かって歩いてきました。一瞬、心臓が跳ね上がります。一太郎は動揺を隠そうと努めましたが、警官の冷静な視線に気後れしそうになります。
「君、ちょっと話を聞かせてもらえるかな?」
「…ええ、何か?」
警官の声は柔らかいですが、鋭い目つきは一太郎の全身を見透かすようでした。彼は無意識に肩をすくめ、胸元で手を握りしめました。まるで、自分の内心を見抜かれているかのように感じたのです。
「最近、この辺りで不審な行動をしている人がいるって通報があったんだ。君、何か知らないかな?」
その言葉に、一太郎は自分がまるで疑われているかのような気がして、息苦しさを覚えました。しかし、ここで動揺を見せてはならないと、自分に言い聞かせます。
「いえ…ただ散歩しているだけです」
「そうか。でもね、帽子にサングラス、マスクなんて、ちょっと怪しく見えるよ。少しだけ協力してくれるかな?」
その瞬間、一太郎の中で、抑えていた何かが弾けました。自分が今ここで何もせずにただ従うだけでは、また以前の自分に逆戻りしてしまう。彼は、胸の中でくすぶっていた怒りとともに、警官に向かって口を開きました。
「警察官職務執行法…第二条に基づいているんですか?私は、ただ普通に散歩しているだけです。特に怪しいことは何もしていません」
一太郎は、自分でも驚くほど冷静で、しっかりとした口調でそう言いました。警官たちは一瞬、彼の口から出た法的な言葉に驚いたようでした。
「…わかった、君には何も問題ないようだ。すまない、協力ありがとう」
そう言って、警官は少し笑みを浮かべて敬礼をし、一太郎から離れていきました。
一太郎は深く息を吐き出し、心臓がまだ早鐘を打っているのを感じながら、自分が恐れずに立ち向かえたことに驚いていました。あの瞬間、一太郎はただ恐れに屈する自分から、少しだけでも自分を取り戻すことができたのです。
彼は、部屋に閉じこもるだけの生活を捨て、もっと積極的に行動していこうと決めた瞬間、勉強が急に楽しくなりました。そして翌年、彼は東大に合格しました。現在は大学生活を満喫しているようです。
これから先も「中新田屋」や久志、家族にはさまざまな出来事があるでしょうが、どんな困難も悠々と乗り越えていってほしいと思います。
旅は続いています。ラベンダー畑での静かなひとときを楽しんだ晃久と佐知は、青空の下で広大な自然が広がる富良野の景色を見ながら、「北の国から」のロケ地へと車を走らせています。
車の窓から流れる風景は、壮大で美しい自然の中に溶け込み、どこか幻想的な雰囲気を漂わせています。連なる山々、広がる草原、そして青空が美しく調和し、心が洗われるような感覚が広がっています。
車内にはラジオや音楽が流れていません。それは二人の過去、現在、そして未来について尽きることのない話題が続いているからです。流れる景色と共に、彼らの期待感が高まり、旅行の喜びが一層深まっています。