表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/10

四話 変わる季節、変われる私とあなた  

 桜が咲き、桜が散り、また桜が咲き、桜が散りました。優希が料理の世界に入ってから五年が経ちました。彼女の目は精悍で優しく、思いやりに満ちた眼差しとなり、逞しく料理人の女性へと成長していました。


 ダイヤモンドの原石が輝き始め、その才能は女優の世界ではなく、料理の世界で開花しています。しなやかな優しさが優希ならではの料理に醸し出され、食べる人の心も舌も捉えて離しません。


 琴線半島には、「北のカナリアたち」のロケ地である稚内、利尻島、礼文島から、「幸福の黄色いハンカチ」のロケ地である夕張から、青森、大間、龍飛岬、男鹿半島、多くの予約が殺到しています。南は沖縄、鹿児島、熊本、福岡、広島、岡山、四国の高松、松山まで、日本各地からの予約が続々と寄せられています。


 また、東京、大阪、名古屋、横浜、京都、神戸などの主要都市からも連日多数の予約が入り、地方からも多くの訪問者が集まっています。さらに、アメリカからはテキサス、アリゾナ、セントルイス、フロリダのマイアミ、ニューヨーク、ロサンゼルスからの予約もあり、ヨーロッパからはパリ、ロンドン、ローマ、ミラノ、アムステルダム、ベルリンなどの都市からも予約が殺到しています。アジアからはシンガポール、香港、ソウル、台北、バンコクからも多くの予約が寄せられており、世界中の食通たちが優希の料理を堪能するために集まっています。


 だからと言って、優希の料理が飛び抜けてすごいというわけではありません。派手さのない普通の自然体の料理なのです。ただ違うと言えば、「愛と感謝」がたくさん込められているだけなのかもしれません。


 しなやかな優しさが一皿一皿に込められ、優希の料理は食べる者の心を捉えて離しません。彼女の手による料理は芸術の域に達しており、その美しさと味わいは、訪れる者に深い感動を与えています。


 春の訪れを告げる桜の炊き込みご飯は、ふわりと漂う桜の香りが食卓を包み、まるで桜の花びらが舞い落ちたかのような美しい見た目が印象的です。ふっくらと炊き上げられたご飯は、優しい桜の風味が口の中で広がり、春の息吹を感じさせる一品です。


 炙り鯛の昆布締めは、昆布の旨味をたっぷりと吸い込んだ鯛の身を軽く炙ることで、香ばしさと共に海の恵みがじんわりと広がります。噛むたびに繊細な味わいが口に広がり、その魅力に誰もが引き込まれてしまいます。


 彩り野菜の天ぷらでは、季節の新鮮な野菜が薄衣でカラリと揚げられ、外はサクサク、中はシャキシャキとした食感が楽しめます。素材の甘みがシンプルな塩や抹茶塩で引き立てられ、野菜本来の美味しさが口の中で溶けるように広がっていきます。


 和牛の炭火焼きは、特製の和牛を炭火でじっくりと焼き上げ、香ばしさと共にしっとりとした肉質が口の中でとろけます。和風ソースが肉の味をさらに深め、一口ごとに美味しさに頷いてしまいます。


 これらの料理はただの食事ではなく、訪れる者に深い感動を与える芸術作品となっています。目で、匂いで、五感を楽しませてくれるのです。訪れた客たちは、優希の料理を前に言葉を失い、その美しさと味わいに心を打たれました。


 あの時、女優の道を進むことを勧めた日本を代表する名女優も絶賛しています。「優希さんは本当にすごい人ですね。つくづく思います。できる人は、何をやってもできるものなのだと…」と、その言葉には深い尊敬の念が込められていました。



 発展途上国出身で丸顔の小柄な日本名を持つ田中洋一という男がいました。彼は板前を目指していましたが、厳しい修行に耐えきれず挫折し、「その日暮らし」のぐうたら者となっていました。酒、タバコ、ギャンブルが彼の日常であり、経済的な安定や責任感とは無縁の生活を送っていました。無謀な賭けや衝動的な行動で日々を埋め、お金が手に入るとその日のうちに使い果たすのが常でした。明日のことなど考えず、ただ快楽を追い求める生活をしていたのです。


 遠い祖国を離れ、日本にやってきた目的さえも忘れ、ただ流されるままに生きていました。女性に対しても、単なる一時の遊び相手としか見ず、真の絆や深い関係を築こうとはしませんでした。彼にとっての関係は、その瞬間の快楽と衝動だけでした。


 そのような生活は、彼の外見にも如実に表れていました。髪は乱れ、ひげは伸び放題で、手ぐしで無造作にとかされていました。色褪せた上着はしわだらけで、靴の底はすり減り、つま先が少し見えるほどでした。まるで放浪者のように乱れた姿で、行き当たりばったりの生活態度が服装や靴にまで刻まれていたのです。そんな洋一の生活を一変させたのが、レストラン「中新田屋」でした。


 ある日、洋一が公園の芝生に仰向けになり、ぼんやりと青空を見上げていると、晃久が仁王立ちして彼の前に現れました。春の陽射しが心地よく、周囲の花々が穏やかに揺れる中、晃久の姿は一際目を引きました。


「私には関係ないことだが、こんな生き方、もったいないと思わない?」晃久はそう言いながら、自分が持っていた名刺を洋一に差し出しました。それには、レストラン「中新田屋」の名前と住所が記されていました。「この店に来ませんか。包丁一本で食っていけるようになりたくはありませんか。でも遊びじゃない。人生を変えたいのなら、明日来てみなさい。」


 洋一は、しばらくその名刺をじっと見つめました。何かを決断しなければならないという思いが、胸の奥からじわじわと湧き上がってきました。これまでの生活を続けるか、それとも新しい道を歩むか、彼の中で何かが変わり始めているのを感じました。


「人は本当に変われるのだろうか」と、洋一は自問しました。変わるためには、これまでのマイナスから出発することが避けられません。長い間負のスパイラルに陥っていた彼がそれを抜け出すには、一歩踏み出さなければならないのです。それが、道理というものです。


 無謀な賭けや衝動的な行動、遊びに費やされた日々が、彼の心と体に深く根を張り、生活を支配していました。そのため、変わることなど考えられないほど深い溝が掘られていたのです。


 それでも、変化の可能性はどこにでも潜んでいます。晃久が言った「人生を変えたいのなら」という言葉が、洋一の心に希望の兆しをもたらしました。どんなに暗い夜でも朝が来るように、どんなに深い穴に落ちても、這い上がる力は必ずあると、彼は少しずつ信じ始めました。


 翌朝、洋一は名刺を手に取り、過去の生活と決別する決意を固めました。荷物をまとめ、古びた包丁をしっかりと握りしめる彼の手には、新たな一歩への期待が込められていました。


「中新田屋」にたどり着いたとき、晃久の微笑みが彼を迎え入れました。その暖かな雰囲気と店内に漂う料理の香りは、彼にとって新しい希望の象徴でした。過去の影を振り払い、未来への光を見つめる彼の目には、新たな決意と期待が輝いていました。


 変わることができるかどうかは、洋一の意志と努力にかかっています。彼が歩む新たな道は険しく、多くの試練が待ち受けており、一朝一夕で乗り越えられるものではありません。過去の負の生活から一歩踏み出すためには、深い覚悟と強い決意が必要です。心に燃えるような決意を持たなければ、変わることはできません。この覚悟がどれほど強いかは、彼自身が決めることです。


洋一の人生は、彼自身の選択にかかっており、一歩一歩の努力が希望へとつながります。有意義で楽しい人生を掴むかどうかも、彼の覚悟次第です。レストラン「中新田屋」は、その力を信じ、見守っていました。


「中新田屋」の板前、優希の師匠でもある久志は怒鳴ることもなく穏やかで懇切丁寧に指導していました。優希に指導していた時とは天と地の違いがありました。久志は見抜いていたのです。女優としても逸材でしたが料理人としても逸材であることに。それだけ優希には自分の持っているもの全てを伝授したかったのです。


 今でも優希は久志を師匠として接しています。どんなに周りが持ち上げようとも、どんなに有名料理人になろうとも、謙虚な姿勢は一貫していました。


 厳しさもダメにしますが優しさもダメにする場合もあります。結局どんな環境であれ自責として精進するものは精進しただけの結果がついてくるものです。「原因と結果」種を蒔くから実がなるのです。


 洋一は努力を重ね、店での信頼を徐々に勝ち取っていきました。その過程は、彼の外見や言動にも表れていました。かつて乱れていた髪は整えられ、伸び放題だった髭もきちんと剃られ、身だしなみに気を使うようになったのです。色褪せた上着は新品の清潔なものに変わり、靴も磨かれてしっかりとしたものになりました。店の仲間たちとの関係も良好で、彼は自らの役割に誇りを持ち始め、晃久からも一目置かれる存在となりつつありました。


 洋一の中で変化が生じました。心の中に芽生えた不満や焦りが、徐々にその頑張りを侵食していったのです。「こんなに働いてもこれだけの金しかもらえない」「なぜ自分だけがこんなことをしなくてはならないんだ」という他人を責める気持ちが心を重くしました。築き上げた信頼に対する彼の感覚は、次第に疑念へと変わっていったのです。


 晃久は洋一の変化には気づいていましたが、彼の内なる葛藤までは見抜けませんでした。それどころか、店の鍵を預け、仕入れも任せました。信頼の証として、大きな責任を託したことが、彼への期待を示していました。


 その期待は見事に裏切られました。彼は売上金の一部を盗んだり、仕入れた物を転売したりと、晃久も気づいてはいましたが、確固たる証拠がなく、ましてや必死で自分を変えようと努力している洋一の姿からは、そんなことをするとは思いたくなかったのでした。


 ある休日の深夜、重大な事件が起きました。洋一は泥酔状態で車を運転し、信号を無視して電柱に激突する事故を起こしたのです。幸いにもエアバッグが作動し、彼の命に別状はありませんでしたが、無免許運転、飲酒運転、そして滞在許可証の期限切れという数々の罪が彼を追い詰めました。結局、洋一は強制送還されてしまいました。


 レストラン「中新田屋」の評判は大きく損なわれ、予約のキャンセルが相次ぎました。事件の反響は大きく、移民局から多額の罰金が科せられ、店にとっても大きな痛手となりました。


 洋一は、祖国に強制送還された後も、自らが犯した罪の重大さに気づくことはありませんでした。「レストラン中新田屋は人情のないところだ。こんなに真面目に働いてやったのに、残りの給与を未払いとは」と、店に対する不満を抱き続けました。彼は自己を正当化し、他人を責めるようになり、自らが引き起こした問題や店に与えた損害、多額の借金のことも忘れ、全ての原因を他者に求め続けたのです。


 私たちの周りには、どんなに困難な環境であっても、それを乗り越える力が備わっています。人は自らの限界を決めることができ、その限界を超える力もまた、自分の中に存在しています。洋一は変化の兆しがあったにもかかわらず、自らの変化に対して無関心でいました。変わらないのではなく、変えようとしなかったのです。


 レストラン「中新田屋」の誠意がすべての人に伝わるわけではありません。どんなに真心を込めても、それが全ての人に響くとは限らないのです。誠意は、受け取る側の心の準備や状況によって異なる形で伝わることがあります。


 変化についても同様です。変わる力は誰の中にも備わっていますが、それを活用するかどうかは結局、自分の選択にかかっています。自分の人生を有意義に生きるためには、その変わる力をどう使うかは、自分自身で決めなければなりません。それは、自分の大切な人生だからです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ