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三話 鍛えられる琴線半島の原石

 南国の青い空が広がり、白い砂浜に煌々と降り注ぐ陽光がまばゆい光を投げかける琴線半島。潮風がココナッツの実の甘い香りを運び、波の音が心地よく響く中、空と海が一体となった風景が広がっていました。そんな穏やかな日常に突如として現れた騒動が、今、長嶋家を取り巻いています。


 その火種となったのは、他でもない優希です。彼女の存在が一気に注目され、長嶋家の門前には毎日のように黒塗りの高級車がずらりと並びます。豪華なスーツをまとった大手プロダクションのスカウトマンたちが次々と訪れ、家の周りはまるで映画の撮影現場のような賑わいです。


 最初に優希を見かけてアプローチをかけたのは、たった一社だけでした。それが、年が明けてからさらに五社が加わり、その中にはロサンゼルスのハリウッド界隈に拠点を持つ、世界でもトップ3に名を連ねるプロダクションも含まれていたのです。


 事の発端は、ある食通の顧客がレストラン「中新田なかにいだ屋」で食事を楽しんでいた時のことでした。優希は週に二回、ウェイトレスとして店を手伝っています。彼女の接客は春の日差しのように自然で、心を和ませるものでした。どの顧客にも目を合わせて柔らかな言葉を交わし、聞く人すべてに安心感を与えていました。その笑顔は、口角がふわりと上がるたびに、周囲の顧客もつられて笑顔がこぼれるのです。


 コーヒーカップをそっとテーブルに置く手つきや、目線を合わせながら話す姿は、まるで舞台で踊っているかのようにしなやかで、その動きは音楽に合わせて踊るダンサーのようにスムーズでリズミカルでした。優希が店内を歩くたびに、その場の雰囲気が柔らかくなり、店全体が優しい空気に包まれていきました。彼女には、周囲を引き込む不思議な魅力がありました。


 その自然な優雅さと洗練された一挙手一投足には、光を放つような魅力が溢れていました。その様子を収めた動画がSNSにアップされると、瞬く間に多くのプロダクションが注目する事態となりました。どんな世界でも、一流の人々には本物の輝きが一目でわかります。虚像か本物か、ダイヤモンドの原石か、それともただの石か。優希は間違いなく、逸材中の逸材でした。


 その頃、あるプロダクションのオフィスでは、異様な緊張感が漂っていました。事業部長の声が鋭く響き渡り、空気が一瞬で凍りついたのです。


「お前たち、目を覚ませ!このチャンスを逃したら、二度とこんな逸材には巡り会えないぞ!彼女はただのタレントじゃない、芸能界の未来を背負う存在だ。大谷翔平が野球界を震撼させたように、彼女は芸能界の常識を覆す。何が何でも彼女を確保するんだ!」


 その言葉に、社員たちは押しつぶされそうになりました。部長の目は血走り、狂気にも似た執念が感じられました。


「部長、他のプロダクションがすでに動いています。契約金は一千万円…」

「一千万円?ふざけるな!」部長は机を力強く叩きつけ、書類が宙を舞いました。「我が社のすべてを賭けるんだ!十億でも百億でも出してやれ!この会社を丸ごと売り払っても彼女を手に入れるんだ!彼女は、我々の最後の切り札だ。これを逃せば終わりだぞ!」


 社員たちは息を呑み、誰一人として動けませんでした。部長の狂気じみた瞳は、すべてを焼き尽くすかのように燃えていたのです。


「一瞬の遅れが命取りになる!お前たち、一秒でも早く動け!相手が何を出してこようが関係ない。我々は全力を尽くして彼女を奪い取るんだ!会社の未来も、俺たちの未来も、すべて彼女にかかっている!」


 オフィスの温度が一気に上がったかのように感じられました。全員が部長の指示を受け、戦場に立たされた兵士のように動き出しました。勝利しなければ、すべてが終わる。背水の陣で、後には引けない戦いが今、始まろうとしていたのです。


 ワイドショーは、この騒動一色となりました。テレビの画面には琴線半島の燦々と降り注ぐ陽光や青々と広がる空と海の鮮やかさ、そしてゆらゆら揺れる椰子の木のココナッツが、まるで映画のワンシーンのように映し出されています。


 その美しさに反して、琴線半島は今や激しい人々の流入に揺れています。メディアの報道によって、この土地は一躍注目の的となり、毎日のように観光客や記者、プロダクション関係者たちが押し寄せ、優希に近づこうと必死に動いていました。カメラのフラッシュが光り、マイクを持った記者たちが声を張り上げています。彼らの熱狂と興奮が、静寂に包まれていた琴線半島を激しく変貌させていました。


 優希は、騒ぎの中でふとテレビに目を向けました。映し出されたのは、大リーグで活躍する大谷翔平のプレーでした。彼が全力でグラウンドを駆け回り、逆境に屈せず夢を追い続ける姿を見つめながら、優希は静かに呟きました。「後悔のない生き方って、名声や富では手に入れることのできないものだわ。」


 大谷翔平が何年もかけて積み重ねた努力と情熱は、彼の夢を実現するための道を切り拓いています。彼の姿は、優希にとって一つの模範となり、夢に向かって努力を重ねる姿勢の重要性を教えてくれました。


「幸せを手にするためには、夢を夢で終わらせないことが大切なんだわ。」優希はそう考えました。彼のように、自らの信念を貫き、一歩一歩着実に前進することで、真の幸せが手に入ることに気づいたのです。自分自身の夢に向かって貪欲に進んでいくことが、幸せへの鍵であると確信したのでした。


 彼女の心の奥深くには、幼い頃から育んできた別の夢がありました。それは、料理を通じて人々を幸せにしたいという純粋な想いです。厨房で板前に叱責されながらも、一心に働く父の姿を見るたびに、優希はその手に込められた情熱と愛情を感じていました。その父の背中を見つめながら抱いた、料理を通じて誰かを幸せにしたいという夢――そして、ふとした瞬間にその答えが浮かんだのです。


「いろいろなお店で食べ歩いたけど、お父さんの店『中新田屋』が一番なの。それに、料理は奥が深くて面白いわ。だからお父さん、お母さん、私、板前になる」と優希は突然言い出しました。


「えっ、板前?優希が……」と、晃久と佐知は突然の言葉に驚き、言葉を失いました。彼らの顔には、驚きと困惑の色が浮かびました。

「女だからってダメなわけじゃないでしょ」と優希は毅然とした声で言いました。その目には決意が宿っており、彼女の姿勢からは強い意志が感じられました。

「でもね、料理人になるって簡単じゃないよ」と晃久は言葉を続けました。

「今の彼だって二十年のベテランだけど、『まだまだ修行しなくては、まだまだ勉強しなくては』と言って努力し続けているんだ。自分の時間なんてまったくないんだよ。それに、基礎がないとね」と彼は目を伏せながら現実を語りました。

「基礎って何?」と優希が興味深げに尋ねると、彼女の瞳は真剣そのものでした。話を聞きながら、彼女の心には料理への熱い思いが渦巻いています。


 そのやりとりを静かに見守っていた板前の冨山久志が、穏やかな微笑みを浮かべながら口を開きました。


「基礎とはね、礼儀、挨拶、衛生知識、調理道具の使い方、食器管理、包丁の研ぎ方、食材知識、料理の盛り付け、前菜、サラダ、香の物、水菓子、包丁技術、魚の下処理、水洗い、おろし方など、多岐にわたるんだよ。これらが基礎なんだよ。」久志の言葉には、長年の経験からくる確かな知識と深い愛情が込められていました。


「優希ちゃんにできるかなぁ……」と久志は心配そうに、優しさを込めて言いました。

「やれるわよ。できるって言ったでしょ」と優希は自信に満ちた声で返しました。その目には、未来に向かっての希望と決意が輝いていました。

「だったら、まずは調理師学校に入って基礎を学ぶのがいいね。」久志は微笑みながら提案しました。「学校でしっかりと基礎を身につけてから、私たちのもとで修行を積んでいけばいい。」

「基礎って本当に大事なんですよね?」と優希は確認するように言いました。彼女の声には、将来への強い意志が感じられました。

「そうだよ。基礎は料理人にとって一番大切な要素だから」と久志は頷きました。

「だったら、そんな大切なことを久志さんから学びたいんです。どうかよろしくお願いします。頑張りますから……どうか、どうか……」


 優希は深々とお辞儀をし、懇願しました。彼女の姿勢には、真剣な思いと感謝の気持ちがこもっていました。久志は、その熱意に心を打たれ、ついに彼女の願いを受け入れる決心をしました。


 優希が板前になるという決断を下すと、そのニュースは瞬く間に世界中に広まりました。彼女が世界的な女優としての道を歩む代わりに、なぜ板前という職業を選んだのか、多くの人々が驚きとともにその理由を知りたがりました。


 プロダクションの事業部長や社長、創立者の会長が次々と優希の元に訪れ、彼女の決断を覆そうとしましたが、どんな説得も優希の心を動かすことはできませんでした。


 ある日の午後、日本を代表する名女優がレストラン「中新田屋」にやってきました。店の周りには人々が溢れ、警察も出動して交通整理が始まりました。その女優は深い眼差しで優希を見つめながら、静かに語りかけました。


「優希さん、板前になるという決意を尊重します。それは素晴らしい夢ですし、一人の人間としての道を選ぶことも重要です。でも、あなたには世界に羽ばたける才能があります。この才能は誰にでも備わっているものではありません。一人の人を喜ばせるのも素敵ですが、世界中の人々に勇気と感動、そして生きる力を伝えることもまた素晴らしいと思います。」


 その言葉に、優希は静かに耳を傾けました。名女優の言葉は確かに心に響きました。彼女もまた、自分の才能を生かして人々に影響を与えることができたらどんなに素晴らしいかと思いましたが、自らの夢を犠牲にすることはできませんでした。板前という世界で生きていきたかったのです。それは小さい時からの夢だったのです。


「お言葉、ありがとうございます」と優希は静かに答えました。「確かに、人々に夢と希望を与えることは素晴らしいことです。しかし、その前に、自分自身に夢と希望が必要だと思っています。私の人生は、他の誰でもない、私自身のためにあるべきだと思うのです。」


 優希の目には、自分の選んだ道を進む覚悟と、人生の意味を見つけようとする強い意志が宿っていました。名女優はその姿を見て、優希の決意に敬意を表し、彼女の選択を尊重することを決めました。


「分かりました、優希さん」と名女優は微笑みながら言いました。「あなたの選んだ道がどれほどのものであれ、応援します。あなたが自分の夢に向かって歩む姿を、心から尊敬しています。」


 優希はその言葉を静かに受け止め、心の中で自分の決意がさらに固まっていくのを感じました。板前としての道を選ぶことは、自分自身の夢を実現するための第一歩であり、人生の新たな挑戦であると確信しました。


 世界中の期待と注目を背にしながらも、優希は自分自身の道を選び、その決意を貫くことを誓いました。人生は他の誰かのためにあるのではなく、自分自身のためにあるものだと心から信じています。彼女の選んだ道がどのような未来をもたらすのか、その先に何が待っているのかはまだわかりませんが、彼女は確かにその一歩を踏み出し、自分自身の夢と希望に向かって進み続ける決意を新たにしました。



 優希の板前の挑戦は、厳しい試練の連続でした。15歳年上の久志の指導は苛烈を極め、厨房には「馬鹿野郎」と怒鳴り声が毎日のように響き渡っていました。それは指導の域を超え、時にはパワハラと呼ばれるレベルを超えていました。


 晃久と佐知は、オーナーの娘なのだから少しくらいは忖度があってもいいのではないか、もう少し優しく接してくれてもいいのではないか、そう思わずにはいられませんでした。


 朝早くから始まる厨房での一日は、仕込み作業からスタートします。ここでは、正確さとスピードが要求され、一つ一つの作業を丁寧にこなさなければなりません。優希の手は、徐々にゴツゴツとし、腕には火傷の跡が増えていきました。白かった肌は、見る影もなくなっていました。


 魚の下ごしらえでは、正確な包丁さばきが求められました。久志は手本を示し、優希に同じような切り方を命じます。少しでも違うと、すぐに叱責が飛びました。その度に手が震えましたが、何度も繰り返すうちに、次第に慣れ、正確な切り身を作れるようになりました。


「魚をきれいにさばけたときの感動は、今でも忘れられません」と優希は振り返ります。

「半年前までこんなことができるとは思ってもいなかったから。でも嬉しいのは、師匠が本気で私を育てようとしてくれていることがわかったこと。そう思うと、どんな困難も苦には感じなくなったのです。」


 調理の際には火加減やタイミングの取り方も重要です。鍋の様子を見ながら、正確な火力や具材の加え方を教わりました。瞬間的な判断力が求められ、料理が完成するまでの工程で問題が生じた場合には迅速に対処しなければなりません。そのためには冷静さと的確な判断力が大切です。


 優希は、どんなに厳しい指導を受けても決して音を上げず、真剣そのもので取り組んでいました。ただ指示されたことをこなすだけでなく、自分から積極的に動く姿勢を見せていました。料理の師匠である久志から細かな技術の違いを指摘されるたび、怒鳴られながらも悔し涙を流しつつ、自分のものにしようと必死に努力する姿勢は、周囲に深い感銘を与えました。


「料理の世界に入ってから、自分が受け身になってはいけないことを実感しました」と優希は語ります。「言われてから動くのでは遅いのです。言われる前に動き、先を察知し、空気を感じて動くことが大切です。まだまだ未熟ですが、以前よりも能動的に動けるようになったと自分で感じています。師匠の久志さんは褒めてくれませんので、成長している自分を自分で褒めています。」


 その言葉には、彼女が日々の努力を重ね、自分の成長を実感している自信が込められていました。厨房では、優希が料理の手順に熟練し、同僚たちとのコミュニケーションも円滑に進められるようになっていました。


 そんな優希ですが、料理の道に入ってから逃げ出したいと感じたこともありました。特に、何をやっても上達しない、何度教わっても進展しないと感じたときは、深い挫折感が芽生えました。調理場の隅で悔しさから涙を流したこともありました。


「逃げ出さなかったのは、美味しい料理を作りたいという思いと、お客様に喜んでもらいたい、そして先輩たちに応えたいという強い気持ちがあったからです」と優希は話しました。その思いが彼女を支え、どんなに辛い時でも前に進む力を与えてくれたのです。


「これからも火に追われるのではなく、火を追い回し、火を使いこなすための精進を重ねていきたい」と優希は決意を新たにしていました。


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