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一話 心の琴線にふれる旋律

 朝の空がほんのりとオレンジ色に染まり、風がそよぐ小道に一筋の光が差し込み始めます。木々の葉が軽やかに揺れ、花々はまるで微笑むかのように静かに朝の訪れを迎えています。湿った土の香りが鼻をくすぐり、遠くから響く鳥たちのさえずりが、自然のリズムで一日の始まりを祝福しているかのようです。


足元に目を向けると、朝露をまとった一輪の小さな花が静かに立ち、光り輝いています。そのささやかな美しさに目を奪われ、思わず微笑んでしまいます。花びらの柔らかな曲線には、どこか勇気を感じさせるものがあります。小さな存在でありながらも、凛とした姿で風に吹かれても揺るがないその姿は、心にふっと軽さをもたらしてくれました。


日々の喧騒から離れ、この穏やかな小道を歩いていると、自然が心に優しく語りかけてきます。木々のざわめき、遠くで響く川のせせらぎ、足元でカサカサと響く枯れ葉の音が、そのすべてが心の中に愛や友情、感謝の気持ちを静かに呼び起こします。一節一節がまるで暖かな日差しのように、心をほんのりと温めてくれました。


朝の小道で感じたこの幸せが、琴線から生まれた言葉を通じて、あなたの心に小さな温かさを届けられることを願いながら…

 長嶋晃久が生まれ育ったのは、寒さが厳しい北国で、冬には雪かきなどの肉体的な労働が必要でした。雪かきをするたびに、彼は心の中で、いつか気候が穏やかで暖かい地域でのんびりと暮らしたいと思うようになりました。


 30歳の頃、投資の成功により資産が急増し、晃久は長年夢見ていた自由な生活を手に入れるチャンスを得ました。仕事に縛られることなく、自分の人生を自由に選べるようになった彼は、自然豊かで美しい琴線半島にふらりとやってきたのです。


 琴線半島は、煌々と降り注ぐ陽光、微かに香る潮風、清々しい空気が心地よく、暖かさが全身に広がる場所でした。青空にはゆらゆらと浮かぶココナッツの実が映え、短パンとTシャツで心地よく過ごせるこの地は、まさに楽園でした。


 この琴線半島に住み着いてから、早くも30年が経とうとしています。あの時、ふらりと訪れたこの場所で、新たな人生の道を歩むことになるとは夢にも思いませんでした。今では、これが運命の導きだったのだろうと感じています。


 晃久は「中新田なかにいだ屋」という小さなフュージョンレストランを経営しています。大きな利益を生むわけではありませんが、十分に生活を送れる収入があります。


中新田なかにいだ屋」は、落ち着いたジャズやボサノバ、クラシックが流れる穏やかなレストランで、地元の新鮮な食材を使用したフュージョン料理が特徴です。異なる文化や料理の要素を組み合わせた独創的な料理を提供し、メニューにはアジアンフレーバーのシーフードパスタや和食の技法を取り入れた洋風料理が揃っています。お客様の要望に応じた特別料理も提供しており、地元の人々や旅行者から愛されています。


 晃久は若い頃から老け顔で、20歳の時にはすでに30代後半に見られることが多く、その顔には初老の落ち着きと深い人生経験が刻まれているかのようでした。しかし、40代になる頃には逆に20代後半に見られることが多くなり、歳を重ねるごとにその顔立ちはますます魅力的になっていったようです。今年で73歳になる晃久ですが、しわやたるみがほとんど目立たず、時には50代に見られることもあります。彼は、健康な体を授けてくれた両親に感謝しながら日々を過ごしています。


 妻の佐知はレースクイーンとして華やかな世界で活躍していましたが、その裏には常に競争と表面的な関係が付きまとっていました。彼女は注目を浴びる生活の中で、どこか孤独を感じていたのです。そんなとき、彼女が出会ったのが晃久でした。


 晃久は、彼女がこれまで出会ったどの男性とも違っていました。彼は穏やかで、何事にも焦らず、じっくりと物事に向き合う人でした。彼の言葉には深みがあり、その視線は相手の心を見透かすように優しく、温かさを感じさせました。


 ある日、佐知がレースの仕事で疲れ果てていたとき、琴線半島の真っ白な砂浜で晃久と出会いました。彼女はレースクイーンとしての仮面を外し、素の自分を見せられる相手を探していたのかもしれません。晃久は、そんな彼女の姿を一目で見抜いたかのように、何も聞かずにただそっと寄り添いました。彼が差し出した温かいコーヒーのカップから立ち上る湯気は、まるで彼の心そのもののように感じられました。


「大丈夫、無理しなくてもいいんだよ。頑張らなくてもいいんだよ。人の目なんて気にしなくていいんだ。自分の人生なんだから。心の琴線に触れる旋律があればいいんだよ」


 晃久が静かに言ったその一言は、佐知の心に深く響きました。表面的な美しさや成功ではなく、彼女の内面を大切にしてくれる人がいる――それを感じた瞬間、彼女の胸の中で何かが変わったのです。


 晃久が持つ成熟した魅力にも、佐知は強く惹かれていきました。若い頃から落ち着いた雰囲気を持っていた彼は、年を重ねるごとにその魅力が増していきました。40代にしてもなお、その顔立ちは魅力的で、その深い目元には人生の経験が刻まれていました。彼が過去に歩んできた道、経験してきた苦難や喜び――その全てが彼を魅力的な男性にしていたのです。


 ある夜、二人は琴線半島の静かなビーチを歩いていました。月明かりが海面を照らし、波の音が穏やかに響く中で、佐知は心に芽生えた感情を抑えきれなくなりました。晃久が無邪気に砂を踏みしめる音が、彼女の心に心地よく響きました。彼の側にいると、なぜか自分が一番素直になれる、そんな感覚に包まれていたのです。


「どうしてこんなに安心できるんだろう…」


 彼女は自問しました。晃久の隣で感じる安らぎは、今までの人生で味わったことのないものでした。それは、彼が持つ穏やかな強さと優しさからくるものでした。


 その夜、ホテルの部屋に戻った後、佐知は自分の気持ちを抑えることができなくなりました。晃久の静かな瞳に映る自分の姿を見た瞬間、彼女は彼への恋心が本物だと確信しました。彼が見つめるのは彼女の外見ではなく、内面の美しさでした。そのことが彼女の心を激しく揺さぶったのです。


「好きなの…」


 佐知が恋を打ち明けたとき、晃久は信じられませんでした。若い子の気まぐれだと感じ、からかわれているのだと思いましたが、彼女の真剣な瞳を見つめると、胸が締め付けられるような感覚に襲われました。


 晃久は必死に自制しましたが、佐知の魅力には抗えませんでした。彼女の唇が肌に触れるたびに、理性は次第に崩れ、男の本能に負け、一夜を共に過ごし朝を迎えました。夜明けの光が部屋を照らし、彼女の寝顔が一層美しく見えました。


 そして、そのまま琴線半島に住み着くことになりました。佐知と晃久の結婚は、運命だったのかもしれません。見えない糸で結ばれていたのかもしれません。彼女との出会い、恋、そして結婚が、一つの大きな流れとなって彼の人生を変えていったのです。


 古い話になりますが、それは晃久が19歳のときのことでした。アルバイト先で知り合った10歳年上の彼女に誘われるまま、同棲生活を始めました。初めての経験で、感情のままに貪りついたのです。まるで獣のように。


 二つ目の秋が過ぎ、雪が降りそうな季節の寒い日でした。夜勤のアルバイトから帰ると、彼女の姿がありません。一時間が経ち、二時間、三時間が過ぎても帰ってきませんでした。一日、二日、三日が過ぎ、三ヶ月、そして三年が過ぎました。彼女は帰ってきませんでした。


 部屋には、彼女の残した香りがまだ残っています。彼女の歯ブラシやピンクのTシャツ、花模様の下着も、洗濯カゴに入れたままです。それが、ますます胸を締め付けました。


 夜になると、寂しさがさらに襲ってきました。二人で戯れていたベッドに一人で横たわるたびに、涙が頬を伝いました。何度、彼女が戻ってくる夢を見たことでしょうか。目が覚めると、そこには彼女はいません。その現実を受け止めることができず、彼女を思いながらまた眠りにつく日々が続きました。現実を受け入れたくなくて、夢の世界を彷徨っていたのです。


 彼女の知人から「彼女が福岡にいる」と聞いて福岡へ、「広島にいる」と言われて広島へ、「仙台にいる」と言われて仙台へと、晃久は彼女を探し続けました。仙台で、「彼女の実家は礼文島よ」と住所を教えられ、夏の礼文島に行きました。そして、やっと彼女の家を見つけたのです。高鳴る鼓動を抑えながら玄関先に立ち、呼び鈴を押しました。その音色は冷たく、寂しげに響き渡りました。


 その日、礼文島はいつもと変わらず、美しい夏の一日を迎えていました。海と空が一体となるような深い青が広がり、遠くの水平線は霞んで白くぼやけて見えました。私はこの島に彼女がいると信じて、心を落ち着けようと深呼吸をしましたが、胸の中で鳴り響く鼓動は抑えられませんでした。


 古い木造の家の前で立ち止まり、苔むした石段を上がって玄関の呼び鈴を押すと、ドアの向こうから足音が近づいてきました。ドアが開き、現れたのは彼女に瓜二つの女性でした。彼女のお母さんだとすぐに分かりました。その顔には、長年の時が刻んだ皺と共に、どこか哀しみの影が宿っていました。


「晃久さんでしょ」と、彼女は彼の名前を静かに口にしました。その声は、まるで遠い昔の記憶を呼び覚ますような響きで、心の奥底にまで染み渡りました。「はい、晃久です」と答えると、お母さんは小さな微笑みを浮かべました。その微笑みには、彼女が何かを知っているような、悟ったような静かな確信がありました。


「来ると思っていました。今日が娘の誕生日ですから」と、彼女は言いました。その言葉に、彼は驚きましたが、同時に運命のようなものを感じずにはいられませんでした。「知っています。ですから、薔薇の花を持ってきたのです」と答えると、彼女のお母さんはその薔薇の花束をそっと受け取り、感慨深げに見つめました。


「娘もその薔薇の花を見て驚くでしょうね。喜ぶでしょうね」と、お母さんは静かに言い、その瞳には微かな涙が浮かんでいるように見えました。そして、「今から一緒に行きますか?娘も会いたがっているでしょうから」と言って、彼を彼女のいる場所へと案内してくれました。


 家を出て、風に揺れる長い草をかき分けながら小高い丘へと向かいました。夏の礼文島は、穏やかな風が草原をそよぎ、青い空に白い雲がゆっくりと流れていました。海からは心地よい潮風が吹き込み、どこか遠くで鳥たちが楽しげに囀っていました。


 丘を登ると、目の前に小さな墓地が広がっていました。「花の浮島」と呼ばれる礼文島特有の高山植物が咲き乱れ、まさにその名にふさわしい光景が広がっています。特に「礼文岩芝れぶんいわしば」が、鮮やかな紫色の花を咲かせて風に揺れており、その景色は、まるで自然と調和した一幅の絵画のようでした。


 お母さんが指差した先には、彼女の名前が刻まれた墓石がありました。晃久の足は重く、ゆっくりとその場所へと歩み寄りました。彼女がここにいるのだと理解した瞬間、胸の中に抱えていた感情が一気に溢れ出し、目頭が熱くなりました。長い間探し続けた彼女が、こんな形で前に現れるとは思ってもみませんでした。


「娘が言っていました。晃久さんと過ごせた時間が人生で一番幸せだったと。心の琴線に触れていたと…」と、お母さんがそっと語りかけました。


 その言葉が、晃久の心に深く響きました。暖かな風が頬を撫で、彼女の声が風に乗って囁くように感じたのです。彼女がすぐそばにいて、彼に触れているかのようで、今も晃久の中で生き続けているように思えたのでした。


「永遠の君へ」


 二つ目の秋が過ぎて 雪が舞う季節に君は消えた

 冷たい風が心に吹き抜け 夜の静けさに君を探す


 残された香りと共に あの日の君を思い出す

 もう一度会いたいと願う でも君は遠い夢の中



 一人のベッドで夜が明ける 君の温もりを探し続けた

 どれほどの涙が流れたか 君の声をもう一度聞きたくて


 君の声が風に乗って 心に響くその瞬間

 遠くても感じる君の気配 今も僕を包んでいる


 礼文島の丘の上で 君の名前が囁かれる

 夏の日差しに包まれて 君の記憶が甦る



 君と過ごした日々が 心の中で永遠になる

 君は今もそばにいる 僕の中で生き続ける



 君の笑顔が浮かぶたび 暖かな風が吹く

 君は遠くない、僕の中で 永遠に輝いている


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