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 幸い、おんぼろアパートで一悶着(ひともんちゃく)あったときの奴等は見当たらなかった。ということは、涼平やアンナ、善三の顔は知られてはいないということだ。もちろん高槻のことも知るよしもなし。


 すでに、引ったくられた後、警察に紛失届けは出している。来る途中、二条という苗字の印鑑も購入し証明写真も撮ってきた。スマホの購入も予約した。


 それに昨晩、およねがある人物に連絡を入れてくれていた。紗綾がスムーズに免許証の再発行をできるよう便宜を計ってくれていたのだ。本来なら、紛失届けの控えや健康保健証かマイナンバーとかが必要になるのだけれど、今回はおよねの計らいで免除してもらえるみたいだ。


「よし、ほな紗綾ちゃん行こか。再交付の受付はどこにあるんや?」


「はい。本当の受付は2階なんですが、およねさんが、直接1階の事務局に行って名前を言うたらわかるようにしてくれているみたいです」


「了解、1階の事務局な。──じゃあ、アンナちゃんは、先に行って奴等の注意を引いといてくれ。その隙にわしらが建物に入るから。あと、慎太郎はここで待機な。大阪ナンバーのタクシーは目立つよってな」


「わかったわ」「わかりやした」


「さあ、行くぞ」


 紗綾と善三は涼平の指示通り裏口へと進んでいく。仲の良い父親と息子が並んで歩いているよう。


 けれど、善三と隣り合わせで歩いているとき、紗綾はふと昨日のことを思い出してしまう。あやうく逃げ切れたのは良かったが、ひとつ間違えていたら一生出てこれないような風俗店に売り飛ばされていた。それに、汗臭い労働者風の男達にもまわされそうになったことを。とたん、顔から血の気が引き、緊張が全身を駆け抜け急に息苦しくなってしまった。 


 次の瞬間、紗綾はその場にしゃがみこんでしまう。そんな紗綾を見た善三はすぐに過呼吸だと判断し、ベストの内ポケットに入れてあった紙袋を取り出した。その紙袋、表にはコンレットベルヴューホテルと英語で書かれている。中身の歯ブラシや歯みがき粉、カミソリなどのアメニティー用品を取り出し紙袋を紗綾の口元にもっていく。


 ややあって、少し呼吸が落ち着いたのがわかると善三は子供を担ぐように紗綾を持ち上げ、広い背中に背負った。


 普段からおおらかな善三は後ろを振り向き囁いた。とても深みのある優しい声で。


「紗綾ちゃん、大丈夫、大丈夫、なんも心配あらへん。なんかあったら、ワシらが全力で守ったるからな。安心したらええ」

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