旨いものを前にして
焼鮭と、青菜のスープともやし玉子と白飯。パリパリの焦げ玉子は細く切ってソースをかけて誤魔化すことにする
「あ、あの。ささめ……こんな献立になっちゃったけど、食べる? ていうか、人間の食い物、平気?」
ささめは人ではない。その事実を改めて突きつけられた薫は、今更ながら確認する。
「呼ばれよう。食えぬものは無いぞ」
ささめは薫の心配をよそに、尻尾をふりふり上機嫌で即答した。
薫は2つの茶碗に冷や飯をよそい、レンジで温める。
「……人間は、食べ物を色んなところに入れるのだな」
ささめがカウンターの上から身を乗り出して、庫内を覗き込む。
「ささめ、その椅子に座って待ってて」
人の姿に化けたささめを先に食卓に着かせ、目の前に食事を盛った器を並べる。
「ほーぉ、供物など久方ぶりだ」
「供物て、なに言ってんの」
薫は笑って流し、「頂きます」と手を合わせた。
ささめは鮭に真っ先に手を付け、骨も皮も綺麗に平らげた。それから彼は、煮えすぎた青菜を食って、「食感は、池の藻に少し似ている」などと共感しがたい感想を述べた。「普段、何食べてるのさ、ささめ」
「食えるものなら何でも。あの森は色々居るからな」
先ほどは、人型の妖が減ったから仕方なく弱い妖を食べているようなことを言っていた。ライオンがシマウマを狩るような、そういう単なる弱肉強食の構図ではなく。
本来ならばささめは、今のささめと似たような姿の妖を……?
共喰い。頭に浮かんだ単語に身震いする。
羽村のハムは肉のハム、ブタがブタ食う、共喰いだー!……
小学生の時、あの連中が歌っていた囃し文句が蘇る。
「どうした。貴方、もう食べないのか?」
ささめが気遣わしげに声をかけてきた。
「……あのさぁ。ささめ、スーパーで、俺の、変なとこ見せちゃって、ごめんな」
何を言うべきか悩んだ末、薫はそう言った。
ささめは、記憶を手繰るようにしばし天井を見上げてから、
「そういえばあの連中、貴方を卦体な名で呼んでいたな。貴方はあまり好んでいないようだったが、あの名前はなんだ?」
止めてくれた割にその程度の理解だったのかと薫は拍子抜けした。……いや、単にハムとか燻製を知らず、奴らが何を言っていたのか分かっていないだけかも知れない。うん、その線が濃厚だ。
「あー、うん。……あれは、俺を、豚肉……食べ物に例えてたんだ。豚みたいに太った俺が豚食ってるって。ささめも、俺が太ってたのは知ってるでしょ」
へらっと笑ってみせる薫に、ささめは言った。
「貴方は人間だ。豚とは種族が異なるし共喰いはせぬと私も知っている」
「それはそうだけどさ。……でも、ささめは、こう、……今の俺見て、随分痩せたなぁとか、思わねぇ?」
ささめは淡々と答えた。
「幼体から成体へと変わる時には著しく姿が変わるものだろう」
その答えに薫は吹き出した。
「なにそれ、大人になると姿が変わるって? 子どものときは太ってても良いの?」
薫が聞き返すと、ささめは首を傾げた。
「何か都合が悪いのか? 丈夫な成体になるためにしっかり餌を食うのが幼体の務めだ。それに、体に充分蓄えがあれば、狩りができぬ時があっても生き延びられる。人間の場合は、獣たち以上に長い期間、親に給餌されて育つが、貴方はあの頃から、親が不在だった。朝晩、硬貨を握りしめてコンビニやらスーパーやらに行き、安価で腹の膨れるものを選んで大量に購い、喰っていたではないか」
あの頃。小学校に上がってすぐの頃だ。
薫の母が重い病に倒れて入院し、父はほとんど家で過ごさなくなった。父は会社で食べると言って朝も早く出て、夜は仕事の付き合いと称して飲み会に明け暮れていた。薫は、父から金と鍵を渡されて、朝も晩も好きなものを買って食えと言われた。買った弁当を温めたくても、ガスコンロもグリルも小学校で調理実習をするまでは一人で使うなと禁止されていたので、加熱する手段は電子レンジしかなく、肝心のレンジは冷蔵庫の上に置かれ、薫の背では手が届かなかった。椅子に乗ればいいと思いついたまでは良かったが、取り出した弁当を持って椅子から降りたときに、ものの見事にひっくり返した。
床に落とした惣菜を泣きながら拾って食ったのを昨日のことのように思い出せる。
コンビニで温めてもらっても家につく頃には冷めているので、温かい弁当を食べるのは諦めた。せめて電気ポットがあれば熱々のカップ麺を啜れたのにと今は思う。
それで、安いスナック菓子、半額になった揚げ物や菓子パンの類を、朝はコンビニで、放課後はスーパー烹庵で買い込み、食べていた。
給食は温かい飯が嬉しくて、白飯を3杯も食べた。
そして不健康に肥えていく薫を、クラスメイトが馬鹿にした。
クラスのいじめっ子たちに“ブタ狩り”と称して追いかけられたある日、薫は鎮守の森に迷い込んだ。そして、あの白いトゲの妖に遭遇した。
それだけではない。翼のある白い蜥蜴や、真紅の毛並みが炎のように揺らめく犬。花の露を飲む、蝶の翅を持つ小さな女性。色々なモノ達がその森の奥に棲んでいた。そこは物語で読んだ異世界のようで、面白かった。
その日を境に、薫は、町なかでも妙な生き物が見えるようになった。
教室に現れたモップのおばけみたいな毛むくじゃらのモノが先生の顔にへばり付いているのを見て笑ってしまったり、クラスの女の子のリボンを悪戯好きの小人から取り返したりした。でも、周りには信じてもらえず、ウソつき、リボン泥棒などと非難された。そのせいで下校時の“ブタ狩り”はひどくなる一方だった。体が重くて速く走れない薫を森の中にまで追い立てて、奴らはげらげらと品のない笑い声を上げていた。
だが、不思議なことにいじめっ子共は、森の奥には入ってこない。まるでその先が見えていないかのように。
そのことに気がついてからは、薫は自分から森に逃げ込むようになった。通学路を無視して学校から森まで最短距離を行く。小学校の裏手のビオトープと称した小さな人工池と雑木林の奥、朽ち果てた門のようなものを潜るのだ。
門を抜ければそこは既に、鎮守の森の最奥だ。
森の中ならば連中に追われることなく、帰路につける。自分にしか見えない不思議な妖たちが遊んでくれる。
焔のような犬は薫に懐いてじゃれついてきたし、白いトゲは、あの舌で指先や頬を舐められるのはちょっと気持ち悪いけど、ころころとそこらで蠢いているのが何だか面白かった。蝶の翅の娘がひらひら舞う姿は綺麗だったし、翼の生えた蜥蜴も、触らせてはくれないものの、たびたび姿を現した。
そこは、薫にとって安全で楽しい場所のはずだった。あの日まで。
あの時も、自分は学校の裏手から森に入った。でも途中で道を見失い、分け入っても分け入っても、池の周囲の散策路にも、神社の参道にもたどり着けずに途方に暮れていた。慣れた道で、いつものように歩いていたはずなのに。どうして迷ってしまったのだろう。おろおろと歩き回るうちに、ひんやりした風が吹いてきて、ざぁっと雨まで降り出した。今日は一日晴れのはずだった。だから傘なんて持ってない。天気予報、また外れだ。
雨脚は強く、木々の枝葉では防ぎきれない。何処か、雨宿りできそうなところは……と辺りを見回す。
ひときわ大きな樹の根元にぽかりと虚があいているのを見つけ、薫はそこへ体を押し込んだ。
暗い上、湿った黒土が何だか生臭くて、正直不快な場所だったけれど、土砂振りの雨を避けられるだけマシだろう……。
雨粒が木々の葉を激しく叩く、ばたばたいう音を聴きながら、薫はいつの間にか、とろとろと眠ってしまったようだ。
気がついたら、そこはぼんやりと薄暗い開けた場所だった。大樹も森も消えていた。
何もない、殺風景な空間。自分の手足の触れている地面はあるが、土の感触ではない。冷たくも温かくもない、言わば見えない固い板の上に自分は転がっている。
ここは何処だろう、自分は夢を見ているのだろうか。と首を傾げていたら、何処からともなく、一匹の大蛇が現れた。此方を睨むその目玉だけで、薫の頭くらいの大きさがありそうだった。大蛇は薫を取り囲んでとぐろを巻き、その輪をじりじりと狭めてくる。薫は金縛りにあった時のように、指一本動かせなくなった。怯えて泣いても、ざざ、ざぁ、ざざざと蛇の鱗の擦れる音だけが聞こえて、自分の泣き叫ぶ声が耳に届かなかった。いや、実際のところは、声を出せていなかったのかも知れない。
ぐいっと鎌首をもたげた大蛇は、その顎を開いた。
大蛇が薫を今にも飲み込もうとした時、
「退け」
ずんと腹に重く響く声がした。大蛇の目が、ぎょろりと動き、声の主を探す。
「お前の喰うものではない」
その声の主は薫の視界の外にいるらしく、姿が見えない。
「立ち去れ。さもなくば」
大蛇が仰け反り、身を捩る。大蛇の乗っていた地面がごぽりと波打ち、そのままその妖を飲み込んだ。
大蛇がいなくなって緊張が解けたのか、薫は頭がぼーっとして、そのまま意識を失った。
「起きろ、子ども」
声をかけられて、目が覚める。
銀髪に青い目をした青年が片膝ついて薫を覗き込んでいた。自分は、虚の中ではなく、朽ちた切り株の傍らに倒れていた。虚どころか、大樹も消え失せていた。薫は地面に手をついて身を起こした。触れた落ち葉は乾いていた。
そもそも雨など降っていなかったのか。それなら、自分が見たものは何だったのか。何処から夢だったのか。
「……でっかいヘビは?」
訊くと青年は事も無げに
「私が追い払った」
と言った。ならば、本当に居たのか、あの大蛇は。
青年は薫の服についた土埃を払ってくれ、
「貴方、近頃、ここへよく来ているようだが、先ほどのように何処かへ迷い込んだのは初めてか?」
と訊いてきた。こくりと薫が肯くと、青年は安心したように微笑んだ。
現世に居ながら突然に周囲と隔絶され、妖の声も聴こえるその場所は、人の住む現世に妖の棲む異界が侵食してできる、一時的な異空間、“境界”だという。
下手に動いて、帰る方向を誤れば、異界に連れ込まれて、現実世界に帰れなくなる。
その青年はそう教えてくれた。
見慣れた蝶の翅の娘がひらりと飛んできて、青年の手に止まった。炎のような犬も青年の傍にやってきて座った。白いトゲが数匹転がって来て、薫の指先に舌を巻き付ける。翼のある蜥蜴が這ってきて草の陰に身を潜めた。
「みんな居るね」
「此奴らが視えるのか。……☓☓☓を喚ぶわけだ」
何故か青年は苦笑した。
「貴方、一人ではこの森を抜けられまい。人のいる場所まで案内しよう」
年上の人に“あなた”と呼びかけられるのは初めてで、薫は少し擽ったかった。
「俺ね、薫。羽村、薫。7歳。おにーさんは、お名前、何ていうの」
薫が言うと、おにーさんは、
「私の名か……ささめ、と呼ばれていた」
ささめは名乗るとき、確かにそう言った。
薫には森の妖が視えていることを知った彼は、奴らが薫を異界に拐かさないよう、見張ってくれるようになった。ささめがあの門のところで薫を待ち、一緒に森を抜け、参道から先、スーパーでの買い物にも付き合ってくれるようになるまで、そう時間はかからなかった。
ある時から薫に纏わり付くようになった真っ黒な異形も、ささめが撃退してくれた。
正直、あの境界で出遭った大蛇より、その黒い異形のほうが数段恐ろしかった。それに、ささめはその異形を、追い払うのではなく……。
「ささめは、……なんで、あの時、真っ黒いやつを、」
あの時のことを思い出し、薫は訊いてみた。
ささめは、ふっと薄く笑んで、言った。
「……まぁ、妖の気まぐれだよ」
はぐらかされたなと薫は思った。なにか言いたくない事情でもあるようだ。理由はすごく気になるけれど、追及するのは、今はやめておこう。薫が素直に身を引くと、
「いずれ、……話す」
ささめが静かに言った。
薫が己の住まいに旧友のささめを招き、もてなしていた頃。
「ふぅーん、ここがあのガキの巣かぁ」
一人の男が、電信柱のてっぺんに座って、薫の家を見下ろしていた。
「妙なバケモンがくっついてるが、どうにかなるだろ」
舌舐めずりをすると、その男はぽんと跳躍して隣家の屋根の上に飛び移った。そのまま男は屋根伝いに何処かへと歩き去った。
ここまでお付き合いありがとうございます。
次話から第2章に突入です。
新たな登場人物(?)も出てきます。
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