姿変われば
薫はささめを連れて森を出た。今日この鎮守の森を訪れたのは、自分の家に招くためにささめを探していたからだ。
「この姿に化けるのも4年ぶりだ。妙な感じだ、茶色い毛など」
ささめは己の茶髪をくるくると指に絡ませながら言った。
「そうかぁ? 俺、ささめと言えば半分くらいは茶髪の兄ちゃんだけど」
薫と連れ立って町を歩いていてもそこまで違和感がないように。銀髪は鳶色に、青い目は榛色に変えて、そこまでしてささめは薫の傍に居たのだ。人ではないささめが、己の容姿を変えてまで寄り添おうとした人間は、薫ただ一人だ。
「なぁ、ささめ、いつものスーパー行こ。飯になるもん買わねぇと」
大通り沿いのスーパー烹庵に立ち寄る。
確かに、薫がこの町に居た頃には、よくついて行ってやった店だ。
一緒に行くのは4年ぶりにも関わらず、いつものと自然に表現する薫を、ささめは内心面白く感じていた。
「森では見かけない野草だ。この実など、色からして、毒がありそうだ」
「野草じゃなくて野菜。人がわざわざ育ててんの。その、綺麗な赤色の実は甘くて美味いよ」
「相変わらず、魚の死骸が陳列されているのだな」
「まぁ、生きてはいねぇな」
「ならば池の魚のほうが新鮮で旨かろう」
それぞれのコーナーでささめが野生味たっぷりの呟きをし、薫がツッコむ。
これもいつものふざけたやり取りだ。
ささめが普段何を喰っているのかは知らないが、肉よりも魚に興味を示すので、それが好みなのだろうと薫は思っている。だから今日の買い物かごには、半額になった鮭の切り身が2切れ入っている。
「あとはー、青菜ともやしと卵もあれば何とかなる!」
ささめは、ぽいぽいとかごに入れられた品々を見て、
「植物の葉と芽、それに鳥の卵か。これで何になる」
「炒め物とかスープとか」
ほぉ、そうか、などと納得したふうな相槌を打つささめだが、食材を調理することのない彼には、どちらもいまいちピンときていない。
「そうそう、ここな、プリペイドカード使えるようになったんだぜ」
すげーだろ、と何故か薫が自慢げにそのカードをささめに見せる。
ささめは微苦笑して言った。
「貴方、難解な言葉を使うようになったな」
遠まわしに、言っていることが理解できないと伝えられ、薫はハッとした。
そうか、ささめは森に棲んでいる精霊だ。
人間の暮らしだけでなく、それに関係する言葉、況してや英単語など知るはずもない。トマトの赤色を警戒するのも、決してふざけている訳ではないのかもしれない。
そのことに薫は全く思い至らなかった。
ささめの容貌がまるきり人間だから。ささめは自分よりも沢山のことを知っていて、物事を教えてくれる存在だったから。
だから、自分の知ってることはささめも知っていて当たり前だと。心のどこかで思っていた。
でも、自分にとっての当たり前、普通が、ささめには通じないのだ。
「あ、ごめん。このカードは、えーっと、機械でお金と一緒に操作すると、お金の代わりにできて……、ほら、お財布の中が小銭でじゃらじゃらしなくて便利なんだ」
薫の懸命な説明にささめは頷いた。
「おおむね分かった。貴方にはうってつけの代物だな。貴方はよく硬貨を落として失くし、泣いていた」
「それいつの話だよ、恥ずいわ、そんな昔の話すんなし」
むくれつつ、薫はチャージ機に向かった。薫が機械にお札を入れ、
「あっ……」
と声を上げた。肝心のプリペイドカードを取り落としたようだ。カードがすーっと床を滑って向こうへいくのを見て
「貴方、硬貨でなくとも結局落とすのだな」
ささめは呟いた。そして、カードを拾ってやろうと数歩行きかけた時。
男子高校生の一群が向こうから通りかかった。
その中の一人がそれを拾う。薫が駆け寄ってきて、
「すみません、そのカード、俺の。拾ってくれて有難う」
とカードを受け取ろうとした。だが、その男子は、ん? とカード裏面の名前と薫の顔を何度も見比べ、なかなか渡してくれない。やがて
「お前、ハム?」
カードを拾ってくれた親切な男子は、にやにやしながら言った。そして、
「おーい、お前ら、こいつ、うそつき羽村だぜ!」
先に行ってしまった仲間たちを呼び戻した。
「え、まじでくんせい? どした、肉削げたなぁ、ベーコンにして売ったのか?」
奴らはわらわらと寄ってきて囃し立てる。
「コイツな、人間じゃねぇの、ブタなんだぜ。だから、植物とか動物がトモダチで、話しかけるんだぜ」
「まじキモいんだ、ブタのくせにハム食うし、共喰いだ共喰い」
「学校行事のときの弁当、米まで全部茶色くてきったねぇの、残飯だろあれ」
「そそ、だからやっぱり家でもブタ扱い」
薫を知らない仲間にはそうやって紹介する。薫はむっとしたまま黙っている。言われた方も微妙な面持ちで薫を見ているだけだ。仲間の反応が鈍いのが面白くなかったのだろう、カードを拾った学生が、薫を知らない学生に「こいつな、小5ん時、」と何か囁いた。その途端、その学生の表情が引き攣り、薫を露骨に気味悪がった。
「……落し物を拾ってくれたことには礼を言う。だが、私の連れに絡むな」
見かねてささめが割って入り、奴らを睥睨した。華奢とはいえ190cm近い身長の男性に見下ろされ、薫をからかっていた連中はそそくさと散っていった。薫は深く息をついた。相当怯えていたらしい。
「ごめん、ささめ。スーパーの外で、待ってて」
薫は顔を俯けたまま言って、会計の列へと姿を消した。少し逡巡し、ささめは薫の頼みどおり、店の外へ出て行った。
「お待たせ」
買い物を終えた薫の声に元気がない。
「あー、……遅くなっちゃったし、ささめ、もう森に帰ったほうが良いんじゃない?」
「戯け。私を招き、あの森から連れ出しておいて今さら何を言う」
腕組みしてささめは言った。だが、じっと俯いたままの彼を見て、ため息をついた。
「分かった。貴方は帰ればいい」
そうして薫がとぼとぼと歩き出す。ささめはその後にぴたりとついて歩く。
何度か薫はささめを振り返って、もの言いたげな顔をした。
だが、ささめを追い返しはしなかった。
ささめは、硬貨を失くして泣いていた頃の薫は、自分の胸元にも届かない背丈だったなと思い返す。それが今ではささめの肩を越えたぐらいの高さに、薫の頭がある。
ささめの知る薫は、低い身長にふくふくと丸みのある体型の子どもで、いつも何か食べていた。それが今は背がすっと伸びてよく締まった体つきになっている。とは思うが、ささめにとって人間の子どもの体格の変化など些末なことだった。
20分ほど歩いて、住宅地の角の小さな一軒家についた。
「ここ、今の俺の家。母さんの実家。俺しか居ないから、気にせず入って」
薫は玄関に入りながら未だ消沈した様子で言った。
「ならば、邪魔をするぞ」
ささめも薫を真似て屋内に上がる。
「そこのソファ、……でっかい椅子で、ゆっくりしてて」
ささめにはソファを勧め、薫は台所でエプロンを身に着け、紐をきゅっと結わえた。
「いや、貴方、これから、いためものあるいはすーぷとやらを作るのだろう、気になる」
ささめはとことこと台所へやってくる。
薫は、鍋に湯を沸かす傍ら、野菜をボウルで水洗いして切り分け、もやしを炒め、魚の切身をグリルに入れ、卵を器に割って溶く。
「おや、今、生魚をどこにしまった? 青菜を洗って食うのはまだ分かるが、卵は生で飲まないのか」
ささめが真横に立って手元を覗き込んでくる。
「火とか刃物も使うから離れて! ってちょっと、そこ開けないで、熱いよ!?」
グリルを勝手に開けようとするささめを押し退けながら、ぼとぼとと青菜を湯にぶち込んで薫が言うと
「そうか、ならば、ここでおとなしく見ている」
ささめが対面キッチンのカウンターに片手をおいた。次の瞬間には、ささめの姿は消え、代わりにカウンターの上に猫ほどの大きさの真っ白な獣が居た。
「これなら、貴方の邪魔になるまい」
ささめより少し高い声で獣が喋った。狼に似た顔つきで、しかし狼にしては妙に大きな耳がついている。その耳をぱったぱったと扇ぎながら、ちょこんとお座りをしている。柔らかそうな毛で覆われた細長い尾が忙しく動き、てしてしとカウンターを打つ。薫を見つめる目は深い青で、金色の細い虹彩が煌めいてまるでラピスラズリのようだ。
外見はなかなか愛らしいが。
「ねぇ、……ささめって……精霊じゃ、ないの?」
温めたフライパンに溶き卵をべしゃぁと流しながら、薫は震え声で訊ねた。
「さぁな。私自身、己が何者か、分からんのだよ」
しれっと返ってきた答えに、薫はぞくりとした。菜箸を持つ手が止まる。
そもそも精霊が何なのかも知らないが、薫は勝手にささめを、人の目に映る人型の精霊、いわば妖精なのだと思い込んでいた。それが突然に獣の形になったのだ。薫のイメージではそれは魔獣とか幻獣と呼ばれるもので、その多くは人間に害をなす存在だ。
自分が子どもの頃は、彼が何者だろうが全く気にしなかった。知ろうとも思っていなかった。その姿を変えられることも、驚きこそすれ、当たり前のように受け入れていた。昔の自分の無邪気さに、そして、今、ささめに対して漠然とした不気味さを覚え始めたことに薫は戸惑った。
そんな薫の胸の内を見透かしたように、ささめは言った。
「私が、怖いとみえる」
「いや……、ささめは、妖精……精霊? その、人の姿なんだとばかり……」
どうにか取り繕う薫に、ささめは特に気にした風もなく答える。
「人型を取れるか否か、というだけで、私を含め、ほとんどの妖の本来の姿は人型ではない。元より人型のものは珍しい、貴方たちのいう鬼だの吸血鬼だのくらいのものだ」……吸血鬼が、存在するのか?
血を吸われた人の話など、薫は聞いたことがない。
「それはそうだろう、人の血肉や精気を食わずともそれなりに永らえることはできる。徒人の目にも映るほどの強い妖だからな、奴らは人のふりをして人間界で平然と暮らしているぞ。貴方、あの森の白いトゲの連中のようなあんな弱い下等の妖が見えるほどの見鬼だというのに、鬼どもに接触されたことがないのか。奴らにとっては極上の餌のはずだがな。まぁ、最近……この100年ほどの間に人に狩られてめっきり数を減らしているから、そうおかしな話でもないか。どのように人間どもが我々を人外と判別するか知らんが、その術が向上したようでな。狩られるのを恐れて、名のある妖がだいぶ人間界から異界へと移ってしまったよ。自然の気や人の肉や魂を食う精霊や悪鬼の類を除いてな。お陰で下等な不味い妖ばかり食う羽目になっている」
後脚でかりかりと首筋を掻きながら、ささめはつらつらとただ思いつくままに言った。薫は茫然としてささめの話を聞いていた。
妖が見える自分が、妖の餌として狙われやすいということよりも。人の姿をした、人ではない者たちを、人間が狩る……つまり殺めているということに衝撃を受けていた。
あの白いトゲ共のように明らかに異形であれば、そして人間に害をなす存在ならば。
駆除するのは当然だと心のどこかで思ったけれど。
人と変わらない姿の妖を狩るその様は。人が人を害しているのとどう違うのだろう。
茶髪のささめも、銀髪のささめも、自分にとってはかけがえのない友人で。彼が人に狩られるなんて、想像もしたくない。
目の前でささめが、くわっと大口を開けて呑気に欠伸をしている。尖った牙が見える。でも、この小さな狼のような姿のささめが、もし牙を剥いて噛みついてきたら、自分は、……どうするだろう。
「ところで、先ほどから妙な臭いがするうえ、湯が相当に沸いているようだが」
ちっちゃな鉤爪でささめがコンロを指す。
「え、あ、あああああ!」
青菜がぐったぐたに煮え、フライパンの上で玉子ともやしがぱりぱりに焦げ付いていた。グリルの中の魚はどうにか食べられそうでほっとした。